その10
しかし、生命の深淵への探求は長くは続かなかった。
ルスはコアトルがわずかに身体を動かしたことに気づいた。
近づいて確かめようか否かと思案するうちにコアトルは明らかに身体を痙攣させ始めた。
これが神経毒の効果なのか。神経毒が少なかったのか。さもなくばそもそも神経毒などではなかったのか。
初めてのことなのでルスには見当もつかなかったが、じきにコアトルが動き出すのではないかという疑念が頭をよぎった。
もうレイブラスターの弾は無い。所長からは1発しか渡されていないのである。
ルスは全身でこれから起こりうる危険を察知した。
脳内の神経活性物質が多量に分泌され、鼓動が早くなり、血流が増え、視界は今までに無いほどクリアになった。
幸いコアトルに近づくことなく出口まで到達することができそうだ。コアトルの痙攣は徐々に早まり、大きなものとなっていった。
彼が再び動き出すのも時間の問題ではないように思われた。
ルスは可能な限り音を立てないよう細心の注意を払い出口まで歩みを進める。
かつてこれほどまで必死になったことは無かった。
これほどまでに恐怖を感じたことも、生への欲求に衝き動かされたこともなかった。
迫り来る捕食の恐怖の中でルスは何としてでも生きたかった。
出口までたどり着いたときにコアトルはまだ床に突っ伏したまま不器用に手足を動かしている状態だった。
ルスは死の恐怖から解放され身体中に安堵による暖かみが染みわたり、体液が手足の末端まで巡るのを感じた。
それは生を勝ち得た喜びであった。
落ち着き払ってドアの開閉ボタンを押す。
反応が無い。
開かないのだ。
おかしい。
再度ボタンを押す。
ドアは開かない。
おかしいではないか。
遮二無二ボタンを押すがドアはまるで言葉の通じぬ生き物のようにピクリとも反応しない。
故障か。こんな時に。ルスは己の運の悪さを呪った。
でも保安室へ連絡すれば。保安室からなら各部屋のドアロックを解除できるはずだ。
幸いに所内通信装置はさほど離れていない場所にある。
ああ良かった。自分は生き残れるではないか。
ルスの顔には自然と笑みが浮かんだ。生きていられるいう幸せを、喜びをルスは噛みしめた。
保安室には所長もいるはずだ、話も早かろう。ああ、助かった。
しかし、所長のことを思い浮かべた瞬間、ルスに絶望的な考えが生じた。
これは所長の仕業ではないか。
用意された毒がコアトルを殺さなかったことも、ドアが開かないこともそれで納得がいく。
そもそも、自分に害をなす可能性のある人間を始末してしまう所長がルスを生かしておくほうが不自然ではないか。
なぜそのような単純なからくりに気がつかなかったのか。自分にとって他者が道具にしか考えられないルスがなぜ自分だけは特別な存在にしてしまったのか。
自分もただの道具でしかなかったのだ。
いつのまにかコアトルは立ち上がってこちらを見ていた。
ルスを見つめるその視線に彼特有の慈愛はなかった。
先ほど他の二人を襲った際と変わらぬ無機質な表情をしていた。
コアトルは自分をも食い殺すだろう。助からないのだ。もうこれで終わりなのだ。
コアトルを見る。普段の彼の穏やかな表情が無性に恋しくなる。
自分は彼の人間性を奪ってしまった。
あの優しいラプト人を理性の欠片もない獣にしてしまった。
自業自得の結果なのだ。
ルスは受け入れることにした。そうでなくとももはや身体が動かない。
コアトルに凝視されると周囲の空気が固まってしまったかのように微動だにできず、呼吸もままならない。
残された時間の中でルスは考える。
なぜあれほど一方的にイナンナとベルズブは捕食されてしまったのか。二人の最期を思い出す。
まるで本来我々がラプト人の餌であるかのようにそれは自然に行われた。
いや、それが正しいのかもしれない。所詮我々はラプト人の食糧として繁殖を許されているだけなのかもしれない。遠い世界でモニター越しに我々を観察する者たちの思惑によって。
わずかに動かせる目をコアトルから離しモニターを見る。
第3区画は赤々と燃えていた。
ゴイム達はその使命を全うし、地表を無に帰したのだ。
ルスは最後になんだか納得した。
拙作「三度目のヘルメス」と「ペオルの探求」の下地になる設定です。