美奈子ちゃんの憂鬱 美奈子とドアと裏学校
「あのぉ……」
桜井美奈子は、保健室で珍しい人物と出会った。
3年の物理担当の相田教諭。
来年、定年を迎える老教師。学年が違うため、美奈子は彼の授業を受けたことはない。
ただ、万事事なかれの姿勢と、そしてそこから来る中途半端な授業内容から、生徒達からの評判がさほど良くないことは美奈子も知っていた。
生徒達から、そのはげ上がった頭と頭でっかちの体格から、“マメ球”と呼ばれるこの教師が、午後の保健室でお茶をすすっているのを見ると、老人ホームという言葉を連想してしまう。
「相田先生?」
「……ああ」
相田教諭は、分厚くて大きいメガネのツルに手をやると、美奈子のネームプレートを見た。
陽光を反射したのはメガネだが、まるで相田教諭自身が光ったような、そんな錯覚を覚え、一瞬、美奈子は吹き出しそうになった。
「1年の……桜井さんか」
「は、はい。保険医の三千院先生に用事が」
「そうか。ご苦労さんだねぇ」
しみじみとした。
そんな言葉が最も似合うほど、相田教諭はのんびりとした声で何度も頷く。
「うんうん」
「あの……先生?」
「ん?」
「先生は?」
「お茶をもらいにさ……」
相田教諭は、湯飲みをしまうと椅子から立ち上がった。
「邪魔になるといけないから、私は失礼するかね」
「いえ、あの、先生いないんで」
「そうかい……職員室に戻るとするか」
「はぁ……」
認知症を心配しつつ、美奈子はドアに向かって歩き出した相田教諭の背中を見送る。
「あれ?先生?」
美奈子は思わず相田教諭を止めた。
「そこのドアは」
「ん?」
ドアに手をかけた相田教諭がゆっくりとこちらを振り返った。
「確か、開かないはず」
保健室のある管理棟は学園で最も古い施設だ。
生徒の増減や学園の歴史の中で、幾度となく増改築を繰り返した歴史があり、場所によっては、よく壁を見ると色が違っていたり、ドアがないのにレールだけが残っていることはザラの施設だ。
その中でも生徒達が首を傾げるのが、この保健室のドア。
単なる木製でペンキを塗りたくっただけの、古い学校ならどこにもありそうな、ありふれた引き戸のドアだ。
美奈子は、このドアが、かつて存在した渡り廊下に通じていたことだけは知っている。
この渡り廊下が潰された結果、接していた各棟の通路は壁として塗りつぶされたが、どういう理由か保健室のこのドアだけが残されたこともだ。
壁に釘で打ち付けられ、戸袋にあたる部分には薬の入った棚が置かれている。
つまり、もう開くこともないドア。
教師達も、ドアを残した理由は説明出来ない。
「ああ―――そうか」
相田教諭はドアを前に何度も頷いた。
「昔はここから渡り廊下に出ていくのが、職員室への近道だったんだけどねぇ」
「そのドア、なんで残っていているんですか?」
「そりゃ君」
相田教諭は、ニンマリと笑って言った。
「何か理由があるんだろうよ」
―――答えになっていない。
美奈子がそう、口の中で呟いた時だ。
「とにかくほら」
相田教諭はドアをスライドさせた。
ドアは滑車を軋ませながら、何でもないといわんばかりのスムースさで開いた。
「開くじゃないか」
「……」
美奈子が目を見開いたのも無理はない。
“開かないはずのドア”が美奈子の目の前で開き、そして―――
「……あれ?」
相田教諭が首を傾げながらドアの向こうに顔を突っ込む。
その先には、美奈子が見たことのない通路が広がっていたのだ。
渡り廊下だ。
「……おかしいなぁ」
相田教諭は、一度、顔を引っ込めると呟くように言った。
「この渡り廊下はもう10年以上前に潰されたはずなのに。一体、これは……」
「せ、先生?」
「桜井君、君にも見えるかい?」
「は……はい」
「ということは、私がモウロクしたわけではなさそうだ」
よし。
相田教諭は、頷くとドアを超えて渡り廊下に足を踏み出した。
「せ、先生!?」
「どうしたんだね」
「どうしたもこうしたも!」
立ち止まった相田教諭に、美奈子は抗議した。
「おかしいです!あぶないですよ!」
「ここは学校だよ?近道が開いて便利だと思わないか?」
「でも」
「大丈夫さ」
相田教諭は、そう言い残すとスタスタと歩き始めると、3年棟へと入り込んだ。
棟の中は生徒達が行き来している。
気になることと言えば、誰も美奈子達と視線を合わせない事くらい。
まるで、そこに美奈子達が存在しないといわんばかりなのだ。
そして、決定的な異変に気づいたのは、それからすぐのことだ。
「見たまえ。生徒達に何かおかしいところがあるか?」
勝ち誇ったような相田教諭に、
「え……あの……」
何故か、美奈子は蒼白になっている。
「……」
生徒達は明るく楽しげで、活気があり、穏やかな顔をしていた。
校舎全体に幸福感さえ感じるゆったりとした時間が過ぎている。
万人が学校の理想とする何かに包まれた世界が美奈子達の前に広がっている。
ここで何かを口にすることは、まるで世界に対する冒涜にさえ思えてしまう。
ここは学校の理想だ!
それは美奈子も分かっている!
わかっているのに!
これをどう表現していいのか?
美奈子はそれがわからない。
「桜井君」
相田教諭は美奈子に言った。
「もう授業になる。教室に戻りなさい」
「そ、そうじゃなくて」
美奈子は恐る恐る、指で相田教諭の背後を指さした。
「あ……あの人!」
「ん?」
相田教諭は振り返って言葉を失った。
廊下の向こうから歩いてくるのは―――
「ほ、本田先生?」
教科書と焦げ茶色のスーツに身を包んだ恰幅のいい老人が生徒達と共に歩いてくる。
美奈子達は、その人物を知っていた。
本田教諭だ。
科学担当の教師。
学校の名物教師だった人物。
だが―――
「だ、だって!」
美奈子は裏返った声で言った。
「本田先生は、もう亡くなったんですよ!?」
そう。
問題は、その名物教師が、すでに物故した人物だということだ。
美奈子は学校有志との一人として、教諭の葬儀を手伝ったし、全校集会で校長からその死を聞いたのだ。
「しかし!」
葬儀の時、棺桶を担いだ相田教諭は言った。
「本田先生が目の前にいるじゃないか!」
大声で言った。
「本田先生!」
ピタッ
本田教諭が足を止めた。
「本田先生!」
近づくなり、相田教諭は、本田教諭の二の腕を掴んだ。
「私だよ!本田先生!相田だよ!」
「……」
本田教諭は、ギョッとした顔で腕を見た。
決して、相田教諭の顔を見ない。
そして―――
「な、何だ?」
「先生?」一緒にいた生徒が怪訝そうな顔になった。
「どうしたんです?」
「腕が痛い。まるで、誰かに腕を掴まれているみたいだ」
「な、何言ってるんですか!?本田先生っ!私ですよ!」
相田教諭は必死に自分を指さすが、
「先生―――何か、来たんじゃないですか?」
生徒の一人がそう言うと、本田教諭達の目の色が変わった。
「“よからぬ者”が?」
「―――はい」
「よし!」
本田教諭は力強く頷いた。
「“魔除け”をするんだ!皆、ボロ布を探して火を付けろっ!」
「はい!」
本田教諭の号令の下、生徒達が廊下に駆け出した。
「本田先生!」
「相田先生っ!」
美奈子は相田教諭の腕にすがりつくと、無理矢理相田教諭を引っ張った。
「おかしいですっ!これは!」
「だ、だがっ!」
一体、何をしたのだろうか。
全ての教室から煙が立ち上り始めた。
この煙が厄介者だ。
ただの煙のはずなのに、喉に入ると焼けたように痛み出す。
ひたすら苦しくてたまらない。
「ほ、保健室へ!」
美奈子はハンカチで口元を抑えながら言った。
「逃げましょう!」
「ここは学校だぞ!」
「煙に巻かれた生徒を危険にさらすのが、教師の所行ですか!?」
「……わかったっ!」
相田教諭は、美奈子の背中を護るように歩き出した。
ちょっと先まで見えないほど立ち上る煙は、渡り廊下さえも覆い隠そうとしていた。
「もう少しだ!」
相田教諭の励ますような声に、美奈子は小さく頷いた。
涙が止まらない。
息が苦しい。
喉が痛い。
保健室のドアが見えた!
グイッ。
その時だ。
美奈子は前に進めなくなった。
どんなに力を込めても、足が前に進まない。
「―――えっ?」
まさか?
美奈子は恐る恐る後ろを振り返って、そして凍り付いた。
「―――っ!」
悲鳴が喉に張り付いたように出てこない。
見ると、さっきまで見えなかった二人の姿が、この煙で見えるようになったかのように、幾人もの生徒や教師が、まるで“行くな”と言わんばかりに二人の服を掴んでいるのだ。
どんなに力を込めても、万力で挟まれたように身動きがとれない。
「な、何をするっ!」
「は、放してっ!」
美奈子達が抵抗しても、生徒達はニコニコと笑っているだけ。
次第に、二人は保健室から引き戻されそうになっていく。
「や、やだっ!」
「や、やめろといっているだろう!?」
美奈子は泣きながら藻掻いた。
冗談じゃない!
こんなのは冗談じゃないっ!
こんな人達ともう関わりたくないっ!
「やだぁぁぁっ!」
美奈子が手を伸ばした先。
そこには保健室に通じるドア。
そこにさえたどり着ければ!!
美奈子はドアの中から、ツインテールの女の子が顔を出したような気がした。
そして―――
ついてに、生徒達の群れの中に取り込まれ、
意識を失った。
結局、美奈子はどうやって救助されたかまるで覚えていない。
目が覚めたら、保健室のベッドに寝かされていた。
「学園七不思議の一つにね?」
美奈子は、保険医の三千院教諭からもらったココアを飲みながら、水瀬の説明を聞いた。
体が思い出すだけで震えてくる。
その横では、相田教諭も蒼白な顔をしている。
禿頭がさらに薄くなったような、そんな気がした。
「“裏学校へのドア”ってあるんだよ」
「“裏学校?”」
「この学校に愛着を持って死んだ魂が集う、もう一つの別の学校」
「……じゃあ、あそこにいた生徒や先生は」
「この学校が大好きで、死んでも学校に行きたいって念じていた人達」
「―――つまり、死人」
「桜井さんも災難だったね」
水瀬は言った。
「このドア、封印壊れてるんだ」
「えっ?」
「封印壊しちゃってね。波長、つまり、向こうに行ける人は誰でも行けるようになっていいたんだ」
「……誰が封印、壊したの?」
「僕」
「……水瀬君」
「はい?」
「お祈りしなさい」
何か私に恨みでもあるの!?
もう許さないっ!
許さないんだからぁっ!
責任とれっ!
責任とって私を幸せにしなさいっ!
ジューンブライドは必須っ!
「先生もとんでもない目にあわれましたね」
命乞いをする水瀬がボコられる“いつもの光景”を後目に、三千院教諭は相田教諭に言った。
元が巫女という物腰が穏やかな美女に慰められ、普段なら相田教諭は鼻の下を伸ばして喜んだろう。
だが、
「……」
その顔は、何かを思い詰めたように深刻なシワを刻んでいた。
「どうなさいました?」
「私は絶対!二度とあんなところに行くもんですかっ!」
美奈子はそう喚きながら必殺技“めりこみパンチ”を水瀬の顔面に決めた。
「台所は広くて南向きよっ!」
「―――行きたいよ」
その声は、ようやく三千院教諭の耳に聞こえる程度だった。
「行きたい」
今度は、はっきりと聞こえた。
「先生?」
「相手が死人だか何だか知らないけどね。三千院先生」
はにかむように微笑んだ相田教諭の目は澄みきっていた。
「あそこはね?本当に授業を受けたい。学校を満喫したいって思っている連中の集まりですよ」
「?」
三千院教諭には、その意味がわからない。
相田はそれを知りつつ、続けた。
「騒ぎになる前に、“向こう”の授業を見たんです」
「死者の授業を?」
「……みんな、それはそれは熱心に聞き入って、先生達も熱を入れて……楽しそうだった。羨ましかった」
最後は羨望のため息と共に、一気に言い放った。
「私もね?あの教壇に立ちたい。本気で勉強したいと思っている連中だけを相手に、本気の授業がしたい。それが、向こうを見た私の本音です」
「……先生」
「もめ事が恐いばっかりに、自分でも嫌になる中途半端な授業……いやはや」
「……」
「疲れました」
相田教諭は自嘲気味に言った。
「私も一度でいい。教師として、本気で授業がしたい」
「……」
「相手が例え、死者でもね」
相田教諭が失踪したのは、それから数日後のこと。
それからしばらくの後、美奈子は人気のない保健室に入ると、あのドアの前に立った。
その向こうから、楽しげな授業の様子が、風に乗って密やかに聞こえてくる。
それは、もしかしたら、美奈子の錯覚かもしれない。
だが―――間違っていないと言う確信だけはあった。
―――いいか?ここはテストに出るからね
―――このポイントはね?
楽しげな声は、あの相田教諭のそれ。
声が、相田教諭の幸せを教えてくれるのだから。
美奈子は、相田教諭がどこに向かったか、知っている。
ただ、それを誰にも言わないだけ。
水瀬や三千院教諭が黙っているのは、自分と同じ考えだからだと、美奈子は確信している。
言わないことが、先生への礼儀だと心得ているから。
「一度くらい」
ドアのひんやりした感触を手に感じながら、美奈子は呟いた。
「私にも授業してくれても、よかったんじゃありません?―――相田先生」
―――私も生徒なんですから。
美奈子は、相田教諭からの答えを聞く前に、ドアを離れた。
ハハッ!
勉強は面白いか?
はいっ!
そんな声がドアから聞こえた気がした。
明光学園七不思議の一つ。
“裏学校へのドア”のお話でした。