85話~『寝坊するにもほどがある』
鬱蒼とした森の中、息を殺して気配を消してたくさんの木々に紛れるように身を隠す。
生き物の気配はあまりないが、全身にまとわりつくような湿気にも似た違和感が消えないせいでいつまで経っても落ち着くことができず、それゆえに奪われる体力は冷静な思考力さえ奪っていく。
(どういうことだ……この辺りに魔物はいないはずなのに、いやな気配が消えない…どころか、時間とともに強くなっている気がする…)
通い慣れた……とは、とても言えないが。それでもここまで違えば理解できる。ここは今、いつもと違うのだと。
生き物の気配がないことはいつものこととはいえ、これは明らかな異常事態だ。
(だけど…何がおかしいのかが分からない……)
おかしい。それしか分からない事態に頭が痛くなってくる。頭どころか耳まで痛いような……
(……いや。耳が痛いのは…)
がさりと足元で聞こえた音に耳が気付いた事で、それ以外の音がなにひとつ聞こえてこない事にようやく気付く。
耳が痛いほどの静寂、空気そのものが重いと感じるほどの緊張に晒されていると気づいたところで、自分がどれほど焦っていたのかを理解してもどうしようもなく、理解できない、ということを理解した事で不安だけが増していく。
(まずい。何かはわからないが、分からないことがとにかくまずい……!)
息を潜めても消えない気配にじっとしていても仕方ないと判断する。そこからは出来る限り素早く立ち上がり、振り返ることなく走りだそうとする。
だが、
(遅かった……ッ!)
がっちりと掴んで離さない何かが足に絡みつき、前に出ようとした勢いのまま顔から地面へと叩きつけられる。
痛みと衝撃が走り、一瞬だけ記憶が飛んだように何が起きたのかを把握する時間が生まれる。
そうしていた時間は数秒にも満たなかったはずだが、それにとっては充分すぎるほどの時間だったようだ。
「化け物……!」
黒と見紛うほどに色濃い腕、枯れ木か岩か迷うほどにひび割れたそれが足を掴んでいる。その先にあったのは、樹木とも生き物ともとれない何か。
「ついにここまで来やがったな、ゴブリン!」
掴まれていない方の足で化け物の顔面を思い切り蹴りつける。
ベキベキと音を立ててひしゃげるが、その程度でどうにかなる相手ではないことはわかっている。
しかしがっちりと掴まれていた足を離させる程度にはダメージを与えられており、解放されたことで自由になった両足で今度は化け物の胴体を足場に跳躍する。
もちろんそんなアクロバットがうまくいくこともなく地面をこするように転ぶが、少なくとも距離はとれた。
(まずは距離をとる……!)
こいつに見つかった以上は逃げ出すわけにもいかない。
ゴブリンツリーと呼ばれるコイツは厳密にいえばゴブリンではない。
邪悪な魔力に汚染された樹木に侵食され、栄養を求めて彷徨う『植物』の一種だ。
だが、やることは大して変わりはしない。大昔に存在したというゴブリンのように繁殖目的で異種族のメスを攫うような事はないが、代わりにあらゆる動物を狙って寄生しようとしてくる害獣だ。
それほど数は多くなく動きも鈍いが、とにかくしぶとくしつこい。
かつてこいつに狙われた旅人が逃げ切れたと思っていたら、数ヶ月後に遥か彼方の別の村で寝ているところを襲われた、などという話もあるくらいだ。
それゆえに逃げる選択肢はない。
かといってこいつは単純に手足や頭を砕いた程度では死なず、胴体までバラバラにしなければならない。だが、その胴体がとにかく頑丈なのだ。
だから、単純に破壊力のある一撃を何度も食らわせなければならない。
「これでも喰らいやがれ……!」
胸元から肩、背中にかけてだらりと伸ばしていた布を引っ張る。
頑丈な樹の繊維をほどいて作った布に重めの石をいくつも入れて作った武器。遠心力と重量を利用して使うそれは単純に殴る蹴る以上の威力を出し、ゴブリンの頑丈な体にも十分なダメージを与えられる。それは森の奥に進むなら必須の装備であり、女子供であってもそれなりの威力が出せる上に造りが単純であることから推奨されている武器だった。
だが、森の中は密集した木々により広い場所を確保することが難しく、横振りではうまく敵に当てられない為、どうしても肩から担ぐようにして縦に振らざるを得なかった。
そのせいだったのか、
風を切って放たれた一撃は確かにゴブリンに命中したが、肩口から左腕をもぎ取るにおさまってしまい、無傷の右腕が振り切ったこちらの腕を掴みとる。
「うわああああ! は、離せ!」
近距離すぎると威力を出しづらいという欠点を持つ武器、しかもそれを持った腕を掴まれてしまった。
動きの鈍いゴブリンツリーだが、その力は侮れない。めきめきと音をたててはいるが未だ健在な右腕に掴まれたこちらの手がみしみしと軋む。こいつらの腕力は樹木の幹をへし折るほどであり、敵対した状態でがっちりと掴まれるとどうしようもなかった。
「痛っ、痛い! いやだ、離せ! 離せよっ!」
だが、本来ならば両手で掴んで四肢をちぎるように生き物を殺すそいつの片腕は現在もぎとられており、万力のような握力で骨にひびが入ろうともちぎりとられる恐れはいますぐはなかった。とはいえ楽観視もできない状況ではある。
(助けて……! 誰か助けて……)
そもそも自分はなんでこんな森の奥に一人で来てしまったのか。どうしてこんな奴に殺されようとしているのか。分からない。死を濃厚に感じたときから混乱が加速し、涙でにじんだ視界が退路を覆い隠してしまう。逃げたいのに、逃げられない。その上、
「もう一体……!」
木々の影からさらにもう1匹のゴブリンが姿を現す。
先のゴブリンよりも小柄だが、湾曲した背骨と黒に近い濃緑の肌は間違いない。
そいつは他のゴブリンと同じようにゆっくりとした動きでこちらに近づいてくる。
終わりだ。
たった1体のゴブリンの腕すら振りほどけない今、もう1匹を倒すことなんて不可能だ。おそらく自分は奴に四肢をもぎとられ、栄養を奪われる為に接ぎ木されるのだろう。運悪く生き残ってしまったら、その時はゴブリンの仲間入りだ。
そう考えたら涙がとまらなくなってきた。
どうしてこんなところで死ななければならないんだろう?
どうしてこんなところに来てしまったんだろう?
どうしてこんな奴らがいるんだろう?
そうだ。どうしてこんな奴らがいるのか。こんな奴らがいなければ、森はもう少しだけ生きやすいのに。
死の間際、どうしようもない怒りをこめて睨みつける。
するとなぜか、自由な意思のないはずのゴブリンが首をかしげてこちらを見ているような気がした。
だが、やはりそいつはこちらの肩を掴んできた。がさがさとした植物独特の感触が自身の最期を否応なく感じさせる。
「嫌だ……死にたくないよ……死にたくない」
この期に及んで大声で泣き叫ぶことができない自分に苦笑しそうになる。
大声を出せば敵を呼ぶ。
こんな状況で考えることではない。もう何が来たって遅いのだ。敵同士で仲間割れでもしてくれれば多少は留飲が下がるかもしれない。だが、それができない。怖くてたまらない。だからすすり泣く。
そして私の体はすさまじい力で
空へと舞い上がった
「やば、加減ミスった」