紙花のわらう頃
『月神の祝祭』直前ぐらい
ほうとついた息はローラ山脈から吹き降ろす冷たい風のせいで凍えて白い靄となって天に昇っていく。
カナンはもう一度深く息を吐いた。
ここに来るたびに己が着実に年を取っていることを実感させられる。
10年前は、長い階段を休まず上っても息など切れなかったというのに。
「ああ、今年もまた鮮やかですね」
目の前に広がるのは色とりどりの花、花、花。
否正確には花ではない。
今は全てのものが凍りつくアリオスの冬の真っ只中だ。
雪に埋もれた世界に自然の色などはありはしないのだ。
視界を埋め尽くすように飾られているのは紙で作られた花々だ。
等間隔に並んだ墓石の間を埋めるように無数の紙花が供えられている。
まるでこの一画だけ、一足先に春が訪れたかのようだ。
カナンの持参した紙花を目の前の墓石に供えた。
ここにあるのはかつての同僚たちの墓だ。
「貴方もいらしていたのですね」
前方に見つけた人影はハマナ・ローランドのものだった。
足を悪くし杖をついている彼には、ここまでの道のりは楽ではないに違いなかったが、付き人はいなかった。
「ここに来れなくなったらお終いさ」
ここにはかつての同僚、部下たちが眠っている。
寒い冬の日に失った大勢の仲間たちが。
年々、持参する紙花の数は増えるばかりで減ることは無い。
紙花と共に持ってきた合成酒のビンも年々重みを増しているような気がする。
ハマナはビンの中身をとぷんとコップに注ぎ、一つは墓石の前に一つは己がもった。
あたり一面に広がるのは一嗅ぎするだけで昏倒してしまいそうなほど強い酒の匂い。
粗悪な合成酒。
旧友と語らうのならば、これ以上に相応しいものなどありはしなかった。
あの頃は、まだアリオスには上等な酒などなく、兵士たちが飲んでいたのは酒か燃料か区別がつかないようなものだった。
一口飲み込めば、臓腑が焼けていくのがよく分かる。
咽ることさえしなかったが、よくもこんなものを飲めていたなと自嘲気味に笑った。
もう一口含もうとすると、横からひょいとコップを奪われた。
ぎろりと睨み付ければカナンが呆れ顔でため息をつく。
「少しはお年を考えてください。体力だけはあった若い頃じゃないんですよ? こんなものを飲めば死んでしまいます。よしんば心臓が持ったとしても下までたどり着けません。こんなところで2時間も曝されていれば凍死しますよ。」
返せと伸ばした指先には別のコップが渡された。
悴んだ指先をほぐす様に温かい。
「彼らだって、やたら厳しいくせに、どうしようもない上司に早々に来て欲しくはないでしょうに。心配しなくても頃合になったら迎えに来てくれますよ」
「私が先に逝くはずだった」
この時期になると、どうしても感傷的になってしまう。
「私だってまだこちらにいますよ」
「お前はいい」
「何ですか。また変な理屈をこねようとしてるのですか」
ハマナはどうにも自分に対しては悲観的だ。
きっと上司だったのにと自責の念が今も彼を苦しめているのだろう。
どれほど、先に逝ってしまった仲間に頭を下げようとも、遺族に手を尽くそうとも日に日に彼を締め上げる力は強くなる。
誰一人、ハマナを恨んでいるものなどいないというのに。
同じ場所に立っていたのだからカナンには痛いほどよく分かる。
「全くこの人は」と再び肺の奥から搾り出そうとしたため息を押し殺す。
「貴方が一番危険な場所に居た。最も死に近い場所に。それでも残ったということは、まだ貴方がやるべきことがあるということですよ」
無言のままハマナは墓を見つめた。
煙る息ばかりが世界に見える変化だった。
「いつも思っているさ。何をしたらいいのかと」
「私もいつも思っていますよ。なぜあの時死んだのが私ではなかったのかと」
「それは……」
カナンは視線一つでハマナの口を塞ぐ。
「どんなに尤もらしい理由をつけてもダメなんです。誰がどう慰めてくれてもダメだと分かっているんです」
貴方も同じでしょう。
そう言う視線からハマナは視線をそらす。
「だけど、やはり願ってしまうんですよ。貴方にはまだ逝って欲しくないと。もう彼らのことを語れる人は多くない。あのころの月影を知っている人はほんの僅かだ。毎夜の馬鹿騒ぎのことなんか誰が一緒に笑ってくれますか」
一陣の風が紙花を揺らす。
カサカサと鳴る音は兵士たちが漏らす照れ笑いにも似ていた。
「どうしてもって言うなら止めませんけど、雪山で眠りこけて死んだとなるとあの世で笑いぐさにされますよ」
むっとしたハマナは手元のお茶を流し込む。
ほんのり温度の下がったお茶は冷え切った身体には丁度良く染み渡る。
「ふん! 笑い話ではなく武勇伝を引っさげて逝ってやるわ」
「その意気ですよ。後世の語り草になるような武勇伝を期待しています」
ハマナ・ローランドの英断がアリオス、しいてはササン大陸全体を揺るがすことになるのは、もう少し先の話。