私はきっと狂ってない
「ぐにゃり」だろうか・・・いや「ぐっしゃ」かもしれない。
ああ、「ぐっちゃ」にも思えた。
漫画や小説では一様に「グサッ」と形容される人を刺すときの感覚についてだ。
私はかつて生きてたそれを見下ろす。
ねぇ、冗談なんでしょ?本当は生きてるんでしょ?いつも通り笑いかけてよ。
自分で殺しておいてこんな風に思うのは甚だおかしい感情なのかもしれない。
生きている訳がないのだ。死んでほしいと思ってこの包丁を突き立てたのだから。
つけっぱなしのテレビからは初老の警部補が犯人を追い詰める場面が展開されている。
でも彼は捕まらない。だって彼は演じているだけだし、現実には誰も殺していないのだから。
私は違う。
この手で、確かな殺意を持って、わが子を刺した私は。
そうだ!・・・救急車。
私は慌てて、頭に浮んだ考えを掻き消す。
そんな事したら私の日常が崩れる。
夫との関係も、近所付き合いも、何もかも全て。
そんな事はあってはならない。絶対、阻止しなければならない。
夫に正直に打ち明けようか?そしたら許してくれるかもしれない。
いや、許してくれたとしても上辺だけだろう。
「ああ、どうしよう」
私はそう独り言ちる。
そもそも、どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
全ては衝動だった。
殺意を持ってこの腕を振り上げたのは確かだ。
だが、その殺意すら衝動なのだ。
この事が世間に知れたら私はきっと我が子を殺した狂人と叩かれるだろう。
確かに殺人を犯した段階で私はもう狂っているかもしれない。
しかし子育てのストレスは誰にでも起こりうることだし、子供を憎いと思う事だってあるはずだ。
その時、子供を殺す者と殺さない者の間に壁なんてない。
あるのは地面に引かれた薄い線一本だ。
狂人だから超えられるんじゃなくって、超えてしまったから狂人なのだ。
介護疲れの果ての殺人だって同じだろう。
私はその事が自分の身に起こるまで、彼らを狂人だと思っていた。
だけど、それは違う。
そのような殺人を犯す者は殺す前までその人の事を一番、親身に考えていた者なのだ。
親身に考えていたからこそ、自分が何とかしなくちゃいけないと思っていたからこそ、逃げ道がふさがれる。
その結果として殺人が一つの防衛反応になりうる。
そうだ・・・きっと、そうに違いない。
そこまで考えて私は、自分が自分を正当化しようとしていることに気づいた。
そしてふっと思う。
いくら自分を、正当化しようと殺した事実だけは変わらないのだと。
足元には息子の死体が消えず残っていた。
まるで混乱する私を嘲笑うかのように赤い血を床ににじませている。
つけっぱなしのテレビの中で犯人が言った。
「殺したときから逃げ場なんてなかったのかな」
そうかもね。
台所から垂れ流される水の音も暖房のこもった音も怖いぐらいこの事が現実だと言うことを裏付けている。
逃げ場を求めて殺したのに結局、逃げ場を失ったのだ。
「あなたがちゃんと反省し、社会復帰することが彼への最大の供養ですよ」
そう、その犯人に対して刑事さんが言った。
だけどそんなのは綺麗事だ。
供養だのなんだのは全部、生きている側のエゴだし彼が死んだということも私が殺したということも消えてなくなりはしない。
自分の気持ちに整理をつけることが彼への供養だなんて甚だおかしい。
私はため息をついて項垂れる。
その時、私が手にしていた包丁が目に入った。
なんだ・・・私だってちゃんと逃げ場が用意されているじゃないか。