ベストショット
静まり返った弓道場に夕日が差し込んでくる。
蒸し暑い中、緊張感で張り詰めたようなその場の空気は少しひんやりとしていた。
袴姿の男子生徒が一人、的の正面に立っている。弓矢を持ったその腕がゆっくりと持ち上げられ、静かに弓を引いていく。
ピンと張った空気の中、矢が風を切る音が走りぬけ、タンッと的を射抜く音が響いた。
急に他の運動部員の掛け声が遠くから入り込んでくる。ざわめきを取り戻した空間で、その射手はゆっくりと息を吐き出した。
続々と登校してくる生徒達で、教室の中は徐々に賑わってくる。
その中で窓際の席に肩にかけていたカバンを下ろした倉橋和海は、背後に迫る気配を察知して振り返った。
「か、ず、みーっ」
今にも飛び掛ってきそうな勢いで、クラスメイトの岸田孝一郎が駆け寄ってくる。
「朝からウルサイ」
手馴れた様子でその突撃を防ぐが、岸田はそれにめげることなくニッと笑う。
「これこれ、見てよ。会心の一枚っ」
持っていた一枚の写真を目の前に突きつけられ、倉橋はそれを手に取った。
真っ直ぐに伸びる階段と、その両脇に広がる林。階段の先の山の上にちょうど太陽が沈もうとしており、光の筋が階段に重なるように伸びている。その背景になっている空に浮かぶ雲は、太陽の光に照らされてオレンジ色に輝いていた。
「凄いな……どこで撮ったんだ、これ」
その写真をマジマジと見ながら尋ねると、岸田は少し自慢げに笑った。
「学校の裏手にさ、神社あるの、知ってるだろ? あの、寂れた」
寂れたというのは余計な一言であるが、確かに学校の裏手には小さな神社がある。鳥居の先に伸びる階段が随分と長いくせに、その先には何もないと評判の古い神社で、倉橋は存在こそ知っていたものの行ったことはなかった。
「あそこ、こんな景色になるのか……」
改めて写真を見てため息をつき、顔を上げる。すると、まるで褒めてとでも言うような表情でいる岸田と目が合った。まるで子犬だと思いながら笑う。
「よく見つけるなぁ、こんな場所。流石っていうのか……」
「へへっ、まぁ~ね」
伊達に帰宅部に所属して放課後を満喫していない。カメラと写真が大好きで、毎日のようにデジタルカメラを片手に自転車を乗り回しているのだ。
写真を返された岸田は、それをカバンに収めながら言った。
「景色を撮るのも良いけど、部活中の皆の写真とかも撮りがいがあるんだよね」
それを聞いた倉橋は僅かに眉を寄せた。
「……お前さ、この前、苦情言われてなかったか? 盗撮だって」
苦情先は確かバスケ部の女子部員からだっただろうか。撮っているところを見つかって糾弾されたと、本人が笑いながら話していたような気がする。
「あははははははははは」
棒読みの笑い声に倉橋は表情を引きつらせた。
「おい」
「いやいや。あれはさ、ちゃんと納得してもらったよ。宣伝用に使ってもらうことになったしね」
「なら良いけど……いや、良くないだろ、やっぱ」
バスケ部だったからまだ良かったものの、水泳部などを標的にしようものなら、場合によっては大問題だ。
そもそも事前に許可もらってから撮れよと突っ込む倉橋に、岸田は反省した様子もなく笑った。
「僕としては、和海の写真もちゃんと撮りたいんだけどねー」
「俺の? ……何だよ、ポーズでも決めろってか?」
笑い飛ばすように答えると、岸田は少し意地悪そうに、その光景を想像しながら言った。
「え、決めてくれんの?」
「断る」
「うわっ、振っといて即答って!」
大袈裟なリアクションで仰け反り、岸田はズイと詰め寄った。
「そこで友人のために一肌脱ごうっていう心意気はないわけ?」
倉橋は詰め寄ってくる岸田の頭を押し返しながらはっきりと言い放つ。
「ない!」
「酷っ! この薄情者ーっ」
「あのなっ」
ぐいぐいと押し返すと、岸田はフウッとため息をついてからヘラリと笑った。
「ま、自然体を撮りたいからそれは良いんだけどさ」
なら今のやり取りは何だとため息をつき返し、倉橋は眉を寄せた。
「自然体?」
「そ。ほら、だから例えば部活中。熱中してると良い表情でるしさ」
「そんなもんかぁ……?」
「そんなもんです。ってなわけで、他に比べて難易度の高い弓道場でありますが、突撃させていただきます」
ピッと敬礼のようなものをして見せた岸田に反論しようとしたところで、朝礼の時間を告げるチャイムが鳴った。
「じゃ、そういうわけで。頼むよ、和海」
「おいっ!」
ひょいひょいと机の間を縫うようにして自分の席へと戻っていく岸田を呼び止めようとしたが、担任が教室に入ってきたので仕方なく椅子を引いて腰を下ろした。
机の上で頬杖をつき、倉橋は小さくため息をついた。
「……熱中、か……」
窓の外へと視線を流す。天候は快晴。今日も暑くなりそうだった。
その日の放課後、いつものカバンとデジカメを持って校舎から走り出てくる岸田の姿があった。
「くっそー。和海も待ってくれたら良いのにっ」
見事に追試験に捕まってしまっていた岸田に対して、倉橋は早々に教室を後にしていた。岸田は職員室の鍵置き場に弓道場の鍵がなかったことを確認し、荷物を持ってそこへ向かっているところだった。
僅かに染まる良く晴れた空。少し暑いが、吹き抜ける風は心地良い。グラウンドの方からは運動部員達の声が聞こえてくる。
「いーぃ日和だねぇ♪」
上機嫌な岸田はそんな言葉を口走りながら軽い足取りで駆けていく。その視線の先には弓道場が見えていた。
弓道場の入口をそっと覗くようにして開けた岸田は、制服姿で立っていた倉橋を見つけると、堂々と中に入っていった。
「何だ。まだ始めてなかったんだ」
急いで損したと笑う岸田に、倉橋はカバンを肩にかけて苦笑いした。
「残念だったな。ちょうど終わって帰るとこだ」
「えっ!? 嘘、マジでか! 何でっ」
ガンッとあからさまに驚く岸田。
「何でって……。もう一時間は経ってるぞ。別に時間いっぱいまでする必要もないからな」
「ぶー。もうちょっとやろうよぉ」
「あのなぁ……」
その言い方にため息をつき、少し疲れたように返事をする。
「だいたい、お前が撮りたがるほど熱中してないぞ」
「えー? そんなことないでしょ」
「俺は、適当に引いていくだけだし。わざわざそんな来るほど……」
「でも、好きなんだろ?」
突然の言葉に、倉橋は眉をひそめた。
いきなり何を言い出すのだろう。倉橋は徐々に、岸田の発した言葉に苛立ちを覚えていた。
「好きなことやってんなら、自然と良い表情になるもんだって。うん」
腕を組み、目を閉じてコクコクとうなずいてみせる。
「何で好きだって……」
「え? だって好きでもないなら何で続けてんの? ほら……嫌いなら辞めれば良いだけじゃん」
別に僕みたいに帰宅部でも良いんだし、と言ってニカッと笑う。
「……」
倉橋は肩にかけていたカバンを下ろし、あからさまなため息をついた。
「良いよな、お前は。好きなことやって、毎日楽しげで」
「だって楽しいもん」
「……、悩みなしの能天気か」
「むっ。それはちょーっと言い過ぎじゃない? さすがの僕でも凹みますよ?」
冗談めいて笑った岸田は、笑っていない倉橋に気がついて少し真顔に戻った。
「だってさぁ。好きなら思いっきりやっとかないと。後悔すんのは自分じゃん?」
「あー、そうだな」
倉橋は面倒くさそうに、投げやりに答えた。
「……、和海」
それまでと違う真面目そうな岸田の声に、倉橋はふと視線を上げた。すると、珍しく眉をひそめている岸田と目が合った。
「お前、今、凄く嫌な奴の表情してるぞ」
倉橋は僅かにギクリとした。しかしそんなことよりも、今はこの会話がとにかく煩わしかった。早く話を終わらせて、さっさと帰ってしまいたかった。
「っ……、悪かったな。さっさと帰れよ」
不機嫌そうに言う倉橋の前に、岸田もムッとして立ちはだかる。
「お前が出ないと、鍵閉められないだろーが」
荷物を持った倉橋は、岸田を押し出すようにして外へ出すと、そのまま自分も外に出て鍵を閉めた。
「和海っ!」
「じゃぁな」
呼び止めようとする岸田の声を頭の中から追い払うと、倉橋は鍵を返す為に校舎の方へと歩き出した。後ろから聞こえる呼びかけには、振り返らなかった。
行ってしまう倉橋の後ろ姿を見ながら、岸田はその場で立ち尽くすと、ガシガシと頭をかいて大きくため息をついた。
「ってことなんだけど、どー思う?!」
結局この日は大人しく自宅に帰った岸田は、夕飯の片付けをしながら友人とのやり取りについて話していた。
「いいじゃないの。悩める年頃の男の子って感じで」
奥のほうから聞こえる母親の声は、微笑ましげに笑っていた。
「そんなもんかなぁ。……つーか、僕、何か癇に障ること言った?」
不満を言いつつ、手の方は手際よく食器を洗っていく。
「そーねぇ。……でも、広い弓道場に部員一人っていうのは寂しいわよね。……さてとっ、お仕事行ってきまーす。考ちゃん、あとヨロシクね」
少し甘えたような、随分と可愛らしい声で言う母親に、岸田はいつものように笑う。
「はいよ。いってらっさーい」
バイバイと手を振る母親に手を振り返し、そのまま踊るように洗い物を片付けていく岸田は、ふと手を止めて振り返った。
けして広いとは言えない家。外からは時折、走りぬける車のエンジン音が聞こえてくる。その誰もいない、一人残った空間を見て、岸田はポツリと呟いた。
「寂しい……ねぇ」
翌朝、弓道場には倉橋の姿があった。弓を持って的の方を見ながら、倉橋は静かにため息をついた。
「……駄目だな」
放った矢は二本。共に的から外れ、安土に突き刺さっている。昨日、岸田から言われた言葉が頭の中に残り、うまく集中できないでいた。
『凄く嫌な奴の表情してるぞ』
馬鹿騒ぎして喧嘩紛いになることは珍しくはなかったが、岸田が本気で機嫌を悪くして昨日のように表情に出すなどということは、滅多にあることではなかった。
「……はぁ……」
矢を回収して片付けた後、制服に着替えながら何度目か分からないため息をついた。
とにかく謝っておくべきなのか。
倉橋はそう考えながら教室に入った。その姿を探すと、岸田は自分の席の近くで他の生徒達といつも通りの表情で笑いながら話している。あえてそこに割り込むこともできず、倉橋も自分の席へと向かう。
「倉橋、今日おせーな」
「あー、ちょっとな」
近くの席のクラスメイトと他愛無い話をしているうちに、結局そのまま朝礼が始まってしまい、授業が始まり、時間が過ぎていく。
授業中、問題に当てられてぶっ飛んだ解答をしてクラスメイトを笑わせ、先生を呆れさせた岸田の発言にも、上手く笑うことができなかった。
『でも、好きなんだろ?』
「……分かってるけどさ……」
視線を窓の外へと流し、頬杖を付き、微かに呟く。
分かっている。ただ、好きだからといって、楽しい、熱中している、と胸を張ることはできないのだ。
結局この日、休憩時間も、昼休みも、岸田の方から話しかけてくることはなかった。
「疲れた……」
放課後、職員室に向かいながら倉橋は肩を落とした。
どうにも岸田の言葉が頭の中に引っかかって離れなかった。しかも振り払うどころか、どんどん重さを増してのしかかってくるようだった。
倉橋はそうして悩んでいる自分に苛立ちながらも、結局、自分からも一言も話すことなくこの時間を迎えてしまっていたのだ。
「で、何で俺はまた……」
弓道場へ向かおうとしているのか。
校舎を出て、弓道場へと向かう。いつも何も思わず歩いていたその道が、随分と長く感じられた。しかしその弓道場が目の前に迫ってきたところで、後ろの方から走ってくる音と、岸田の声がした。
「かーずみぃー!」
ハッとして振り返ると、全速力の岸田が突っ込んでくる姿が飛び込んできた。
「どーーんっ!!」
「いぃっ!?」
倉橋はギョッとして、ラリアットをかまされそうになる寸でのところで、その突撃から身をかわした。
「ぅわっ! ……とと」
そのままつんのめりそうになる岸田は、昨日と同じいつものカバンを持っていた。
「お前なぁっ!」
いろんな意味でドキドキする心臓を抑え、顔を引きつらせる倉橋に、体勢を立て直した岸田はいつも通りの表情で笑っていた。
「あっはは、避けられたー。でも今日は間に合ったー」
「……っ」
「ってなわけで、部活、見学させてよ」
「……あ、あぁ……」
あまりの唐突さに反射的に答えてしまった倉橋は、謝るタイミングを失いながらも、とりあえず弓道場の鍵を開けるのだった。
射場まで入っていった岸田は、はしゃぐようにしてキョロキョロとあたりを見回していた。本来ならば作法云々を言うべきところだろうが、今それをやっていてはろくな会話もできないまま、喧嘩腰になりそうな予感があった。
「……着替えてくるから、変に触ったりするなよ」
静かにため息をつき、倉橋は黙認することを決めた。
「はーい」
自分を落ち着かせる意味もあって、倉橋はそう言ってさっさと更衣室に向かうことにした。
一方の岸田は、その姿が奥に消えたことを確認すると、もう一度ぐるりとあたりを見回した。そして壁にかけられた写真に目に留め、そっと近づく。
「……ん。やっぱり」
写真を見て静かに笑った岸田は、外から遮断されたように静かな空間を振り返ると、ゆっくりと深呼吸をして目を閉じた。
着替え終わった倉橋は、更衣室のドアの前で足をとめていた。射場にいるはずの岸田に、まず何を言おうか、頭の中を整理していた。まさかこんな形で顔をつき合わせるとは思っていなかった為、全く心構えというものができていなかったのだ。
大きく息を吐き、ドアを開けて射場に向かう。すると、てっきり落ち着きなくあちこちを見て回っていると想像していた岸田は、的の真正面に立ち、じっとその的の方を見つめていた。
「こうしてるとさ、遠いよね」
ふいに言葉を掛けられ、倉橋は一瞬戸惑いながらも答える。
「二十八メートルあるからな」
「へぇ。そうなんだ」
会話が終わってしまい、二人ともそのまま黙って静かになってしまう。サッカー部か野球部か、試合の歓声のような声が耳をかすめる。
「……、静かだな。広いから、余計に」
ぽつりと口にした岸田に、倉橋は言葉を返せずにいた。すると、岸田が振り返った。
「和海。弓道、好きなんだろ?」
「……俺は……」
突然に話を核心へと叩き込まれ、思わず言葉を詰まらせてしまった。すると、そんな倉橋の心情を知ってか知らずか、岸田はニッと笑って見せた。
「だってさ。お前が弓引いてる時の表情、凄く良いんだから」
「……そんな、見たように言うなよ」
眉を寄せた倉橋に、岸田は近づきながら自信ありげに持っていた一枚の写真を突きつけた。
「そう言うと思って。ほら」
目の前に出されたそれを見て、倉橋は言葉を失った。
「っ! ……これ……っ」
そこに写っていたのは、紛れもなく自分の姿だった。
袴姿で弓を構え、ちょうど弓を引ききったところだろう。的を狙う視線はまさに射るように鋭く、真剣そのものだった。
それは倉橋自身が驚くほど、真剣な表情だった。普通、自分の真剣な表情というものはなかなか自分では見えないものだが、こうして写真という形で客観的に見せられると、なるほど確かに、熱中して部活に打ち込んでいる姿に見える。
「良い写真だろ? 現時点での、和海のベストショットな」
写真を受け取り、改めてまじまじと自分の姿を見つめる。少し気恥ずかしい気もするが、この写真の中の自分の表情は偽者ではない。そして、何だかんだと言っても、毎日のようにこの弓道場に足を運んでいる自分も、偽者ではないのだ。
「……岸田……」
「何となく、さ」
言葉が被ってしまい、口をつぐんだ倉橋に岸田は苦笑いする。
「いや、何となく分かったかも」
そう言って、岸田は的に向かって矢を射るような構えをして見せた。
「……これだけ静かなとこで、一人でやってもつまらないかもって。成果を見てくれる人もいないと、張り合いがないっていうか」
二人が口を閉ざせば、一瞬にして静寂がおとずれる。外の音は遠くに聞こえ、微かに聞こえることでより一層、この場が静かであるのだと実感させられた。
「あそこの写真。去年のだろ? あれ、楽しそうだし」
そう言って振り返った岸田は、壁にかけられた写真を指差した。
つられるようにして視線を送った倉橋は、そこにある写真がいつどこで撮ったものか、はっきりと覚えていた。
「……そうだな」
あの写真を撮った頃は、この場所ももう少し賑やかだった。
去年の夏、三年生の引退試合の会場で撮影したものだ。部員は僅かに五人しかおらず、当時一年生だった倉橋を除く四人が三年生で、全員引退、卒業してしまった。今年度になって新しい部員が入ることもなく、結局今は、倉橋が唯一の弓道部員なのである。顧問の先生も顔を出すことはほとんどなく、実質この弓道場を利用するのは倉橋一人であった。
先輩達は引退してからも卒業するまでは頻繁に顔を出したり、弓を引いていったりすることがあった。指導してもらったり、一緒にふざけあって騒いだり、弓道場に足を運んでそういった時間を過ごすことは、確かに、楽しかったのだ。
弓を引くことは好きだし、的に当たれば嬉しいし、楽しい。ただそれを共有できる人がいないということは、どこか寂しく、つまらないことだった。
「楽しかったな。あの頃は……」
写真の方を見ながらポツリと言った倉橋を見て、岸田もその写真の方を見る。
「個人競技っていっても、やっぱり、そうだよな」
岸田としても、その感覚は分かる。カメラが好きで、写真を撮るのが楽しくて。でもそれを見せる相手、倉橋のような身近な友人や、母親がいるから、もっと楽しい。
「……と、いうわけで。これからちょくちょく顔出すから」
「は?」
唐突な申し出に、思わず声が裏返る。
「そーだなぁ。専属の広報部長になってあげようか」
カメラをちらつかせながら、ニッと笑う。要は写真を撮りたいだけなのでは、とも思いつつ、倉橋は苦笑いした。
「……そこまでやるなら実際に引いてみろよ」
「えー、僕、そういうの無ー理ー」
「はっきり言うな……」
倉橋は半ば想像したとおりの拒否の回答に肩をすくめると、持っていた写真を返し、いつも使っている弓と矢を手に取った。
「ちょっとどいてろ」
岸田を後ろへ下がらせた倉橋は射位に立ち、一人になってからも崩すことのなかった基本動作を丁寧になぞっていった。
岸田は一気に空気が変わったのを感じ取り、息を詰めてその動きを見ていた。体勢を整えて弓を構え、腕が上がり、弓が引かれる。その一連の動作が流れるようで、見入ってしまっていた。的に狙いを定め、今きっと、倉橋の目は真剣そのものになっていることだろう。
シュッと矢が風を切る音。タンッと的に命中する音がそれぞれ響く。張り詰めた静寂の中で響くその音は、洗練された美しい音に聞こえた。
「わ、凄っ! ど真ん中じゃん!」
間近で見られたとはしゃいで拍手して声を上げた岸田は、倉橋が矢を放った姿勢を崩していないのを見て、ハッと口をつぐんだ。
ゆっくりと息を吐き、腕を下ろした倉橋の表情は、どこか満足そうだった。
「悪かったな」
振り返った倉橋は、口を押さえるようにして固まっている岸田を見て、少し笑った。
「ん?」
もう大丈夫かなというように目を瞬かせた岸田は、倉橋の言葉に首をかしげた。
「昨日。八つ当たりみたいでさ……何か、すげぇガキっぽかった」
「んー? いーじゃん。所詮、僕らってまだガキなんだしさ」
ようやく口にできた言葉に対し、随分と軽い調子で返されてしまい、ガクッと肩の力が抜けてしまった。
「いや、そりゃあ……」
もちろん大人だと言える年齢ではないが、面と向かってガキだと言われると良い気分はしない。
「ガキでも大人でもさ、無理したり我慢したりしてウダウダするより、言いたいこと言って、やりたいことやって、馬鹿みたいに笑ってる方が健康的だと思わない?」
岸田は、そう言ってニッと笑った。
「そーいうことを大っぴらにできるのが、今の僕達、ガキの特権ってことで」
微妙に昨日のことと話がズレている気がしないでもない。岸田もそれに気がついたのか、僅かに苦笑いした。
「まぁそういうわけで、要は気にすんなってことで」
「お前……どんだけ健康体だよ」
思わず笑ってしまい、そのまま笑いながら言った言葉に岸田は眉を寄せた。
「あっ、また能天気って思ってるだろ!」
「そーだな」
くくっと喉を鳴らしながらうなずく。岸田の表情に変化があったことには気づいていたが、気にはならなかった。それは昨日と違って声が笑っていたから。
「むむっ。酷いぞ、和海っ!」
「どあっ?!」
突然、倉橋を突き飛ばすようにして岸田がドンッと体当たりしてくる。不意を突かれた倉橋はその突撃を避けられず、岸田もろとも派手な音を立てて背中から倒れこんでしまった。
「馬鹿かお前は! 弓壊れたらどうすんだっ!」
高いのにと、上からのしかかってくる岸田の頭を押しのける。
「壊れてない、壊れてない~」
「結果論だろーが!」
背中も痛いし乗っかってくる岸田も重い。とにかく退けろと、ようやく身体を起こした。見ると確かに、弓は壊れていないようだ。倉橋は疲れ半分、安堵半分のため息をついて板の間に座り込んだ。そうしていると何だかよく分からないが、気が抜けて笑えてきた。
岸田も倉橋に押しのけられてからそのまま板の間に転がっていたが、笑いながら身体を起こした。
「ははっ……」
「何笑ってんだよ」
「だって和海、真っ先に弓の値段の心配してんだもん」
幾らすんのさと笑う岸田に、倉橋は持っていた弓を突き出した。
「安くても二万。こいつは五万くらいしてる」
「げっ! マジでか!?」
「持ってみるか?」
意地悪く笑いながら差し出すと、岸田は後ろに下がりながら、何かあっても弁償できないし、と首を振った。その態度の変わりように、倉橋も噴出すようにして笑い始めた。
何だか分からないが笑えてきて、ツボにはまってしまったようにして笑いが止まらない。お互いが笑っていることに笑ってしまい、しばらくそうして笑っていた。
馬鹿みたいに笑っている方が健康的。
岸田の言葉を思い出して、倉橋はまた笑いそうになった。
「そういやぁ、あの写真いつ撮ったんだ?」
「へ? ……、あははははははは」
急に棒読みになった笑い方に、倉橋は僅かに表情を引きつらせて声を低くした。
「おい」
「いやいや、見逃してよ~。だってほら、良い写真でしょ」
慌てたようにしてもう一度写真を見せてきた岸田の腕を押しのける。
「そういう問題じゃあないだろって!」
仕切られたこの弓道場で、いったいどうやって隠し撮りしたのか。矢取り道の脇にある植え込みの陰に入り込んだのか、安土の裏手にある塀あたりによじ登ったのか。どうであったにしろ、そこまでして撮影しようとするとは、いっそ頭が下がる。
しかしそんなことを口にしたら、きっとこいつは調子に乗るのだろう。ありがとうと言いたい気持ちもある。しかしそんなことを口にしたら、きっとなお一層、調子に乗るのだろう。
岸田から背を向け、倉橋は気づかれないように小さく笑った。
「和海、ごめんよ~。次からちゃんと許可貰うからー」
夕日が差し込み始めた弓道場。普段静かなこの場所も、今日は随分と賑やかだ。遠くから聞こえていた声が聞こえないくらいに。
翌年。再びおとずれる暑い季節。
この日、弓道場は静まり返っていた。その静寂の空間に人の気配はない。ただ昨年にはなかった言葉が、片隅に掲げられていた。
――目指せ、県大会――
「おめでとうございます、先輩!」
競技を終えてざわめく会場の中、飛び跳ねそうな勢いの後輩の声に迎えられ、倉橋は少し照れたように苦笑いした。
「表彰台とはいかなかったけどな」
「何言ってるんすか。入賞ですよ、入賞!」
県大会の会場となった市立の弓道場。団体戦は惜しくも決勝進出を逃したものの、個人戦では倉橋が決勝進出し、入賞を果たしたのだ。
昨年今年と新しく入部してくれた後輩達と話していた倉橋は、何かの気配を察知したかのように、ハッとして振り返った。
「か、ず、みぃーっ!!」
人の間を縫うように走り抜け、そのまま体当たりしてきそうな勢いで岸田が駆け込んできた。思わず身構えた倉橋だが、岸田はその目の前で急停止する。
「大声で呼ぶな、恥ずかしい……」
渋い顔をする倉橋に対し、岸田は笑顔全開でビッと親指を立てて見せた。
「やったねー、おめでと! こっちも良い画、撮らせてもらったから。皆のもね」
もう片方の手にはしっかりとカメラが握られている。それは学校に持ち込んでいる普段のデジタルカメラではなく、望遠レンズつきで気合の入った本格カメラだった。
「あぁ。……岸田、お前も入れ」
後輩の一人が写真を撮ってもらうよう頼んでいることに気づき、倉橋は岸田の肩を掴んで、ぐいと引っ張った。
「えっ? ぼ、僕は良いよっ。僕が撮るからさぁ」
岸田は自分が撮られることには慣れていないのか、慌てたように倉橋の腕を振り解こうともがいていた。
「それは後で撮らせてやるから」
「良いじゃないですか。入ってくださいよ」
後輩達が逃げないように防衛線を張るかのように、二人の両脇に集まった。それでも岸田は抵抗するかのように肩をすくめた。
「僕は部員じゃないのにー」
一人だけ私服で浮くからとか何とか言い始めるが、既に逃げる余地はない。
「いやいや~、何言ってるんすか、広報部長さん」
「僕より顧問のじーさん入れないとっ」
「先生なら向こうの来賓席の人と話してましたよ。そっちは後で」
「岸田、今更遠慮するな。つか諦めろ。ほら」
頼まれたカメラを持ったまま、笑いながらそれを見ていた大会関係者らしい人を指差した。
「ハーイ、撮りますよー」
数日後、二年前に撮られた写真の隣に、新しい集合写真が飾られた。
そして部員一人一人の写真。岸田が撮影して選んだ、それぞれのベストショットだそうだ。確かにそれは、どれも良い表情だった。
静かな弓道場に、今日も幾本かの矢の音が響く。