私とワタシ
本を読むことは贅沢だ。
文字をたどるだけで、模倣子が頭で形作られる。
形を持たない、実体のない、だけど確かにある『感じ』――アイスパフェを口に運ぶときのわくわく、新しい服を選ぶときの面倒とちょっとした興奮、好きな人を前にしたときの吸い込まれるような気分。そういう、『あの感じ』が、形作られる。
殊に今の私にとっては贅沢だ。
だって、ここにある本は、たぶん日本に残った最後の本だ。
……どうして、世界が滅んだのか、実のところ私は分かっていない。長く幽霊を続ける内に、ちょっとしたズルを覚えたからだった。
目を閉じて、開く。
それだけで周囲の結果は更新される。
人が残した痕跡だけがわかる。
その更新の間隔を、私は長く開けることができるようになった。
最初は数秒、やがて数十秒、さらには数分、一時間――
ついには、まばたき一回するだけで昇った太陽が沈むようになった。
リアル時間のスキップ機能だ。
そうして、私は時間を跳ばしに跳ばした。
友達が死んでからは、もう本当に何もする気になれなかった。
抜け殻以下、幽霊なのに死んでいるような状態。セーブデータ保存のまま放置してしまいたい。
一年、十年、百年――
そうして、気づけば世界は滅んでいた。
まだ木造の旧校舎があったのは、なんだか妙な感じだった。
外は本当にただの荒野になっていた。
かなり反省した。
出来ることがあったかわからないけど、少しくらいは手助けみたいなことはできたかもしれない。なのに、私は目を背け、他人事にした。
そうして一人取り残された。
最後の人間に、私はなった。
学校図書館には、いろいろな本があった。
永続処理を施されているけど、それでも基本的に本って消耗品だ。
私は、読むのを週一回に留めることにした。
破れてしまっても替えはもうない。
世界各国の名作はもちろん、私の周囲の人たちの日記とかもあった。正直、こっちの方が面白い。生きた人、知った人たちの、飾らない声だ。
まあ、ルームメイトの、私の友達が書いたものは、なんだかわざとらしいというか、明らかに『私に向けて書いたもの』だったけど。
意外と面倒くさがりな彼女は、私が幽霊になるまで日記なんて書いてなかったし、幽霊になって以後は『私の記憶に残ること』にとにかく執着していた。
最初に読んだときは「おおう」という気分になった。
本の向こうからチラ見されてる。なんだこの演技過剰は。
それでも……そういう作為があった上でも、個性というか彼女らしさが透けて有ることに気がついた。私はそちらを楽しむことにした。
学校内に設置されていた機械――量子コンピューターとかいうのは専用のインターフェイスつきで、最初かなり戸惑った。
Qボールと呼ばれる専用の機器に触れるだけで、直接思考を読み取り文字が出る。かなり便利。だけど、これって、どうなっているんだろう? 完全に時代遅れな人間だった。
いろいろと試す内に、Qボールにずるりと私の手が入り込んだ。
うわっ、と驚いたけど、恐る恐る何回か試す内に、案外、こちらの方が思考伝達速度は早いことに気がついた。
幽霊である私は、この時になってようやく憑依を覚えた。進化速度遅すぎだった。
それからは――こうして書くだけじゃなくて、情報の収集も高速で出来るようになった。ほとんどコピーするみたいに私自身が理解できる。憑依便利。まあ、かなり疲れるけどね。
そういう風にして、私は百年ばかりの時間を使った。
人間の学び取ったものを私の脳に詰め込んだ。
日記を丹念に読み返した。
そうして――幽霊を見るようになった。
私の同類であれば嬉しかったけど、そういうわけじゃなかった。
積み重ねられた情報、想像の中の人格、この人は『ああいう感じ』で、この人は『ああいう風』で――とやる内に、その幻が見えるようになった。
『幽霊』の幽霊だ。
脳味噌が形作る幻だ。
だけど、そうは思えない。
本当にいるようにしか、見えない。
特によく見るのは彼女。
ルームメイトで、告白されてしまった相手で、最後まで私に寄り添ってくれた人で、その人生をかけて私を呪った人。
なにも言わず、気づけば視界の隅にいた。
もの言いたげに、ただじっと。
切れ長の目が、私を捉えた。
「忘れるはず無いでしょうが」
言うけれど、あまり納得してくれた様子はない。
たぶん、私が忘れないだけじゃ足りないんだと思う。
幽霊や情報と共に、日々を過ごした。
一人だけど騒がしい。
同時に、たまらなく静か。
ルームメイトが前触れもなく現れる。
もう慣れてしまって驚くこともない。
そうして――訪問者が来た。
最初私は、また幽霊だろうなと思った。
半端にしか見えないけれど、まあ、そういうこともたまにはあるかなと。
だけど、なんだか奇妙だった。
どこがとは言えない。
知っているのに知らない存在――そんな違和感だ。
だから、こっそりと写真を撮ってみた。
無駄な行為だろうなと思ったけど、私自身が「見て確かめたい」という行動を取ることで、曖昧な映像を明確化することができるかもしれないと期待した。
画像の中には――ルームメイトが写っていた。
「……」
もちろん、本物じゃない。
だって、顔の表皮が剥がれてる、地肌は明らかに人間のそれじゃない。
だけど、その造形、その姿は間違いなく彼女のもので。ただの偶然のはずはなくて。
ええと、だから、つまり――
ロボット?
それともアンドロイドとか、そういうの?
人間、それとも、違う?
わからなかった。
だから私は、古ぼけた端末を取り出して、こっそりと『彼女』の前に置いた。最後の言葉を再生させ、聞かせてみた。
旧校舎に現れた存在、その体は間違いなく機械だ。
だけど、中身がどうなっているかわからない。ひょっとしたら、脳味噌だけがその内部に詰め込まれているかもしれない。
だからこそ聞かせた遺言――
その反応は、わけがわからないものだった。
なんだか苦悩してるっぽかった。
どういうことなんだろう?
わからない。
ぜんぜんまったく意味不明だ。
だから、その人が体育座りをしながら考え込む姿勢を取る傍らで、私は机をせっせと運んで閉じ込めた。絶対逃がさん。
せめて事情を聞かせてもらおうじゃないか。
そうして――私はその存在を知った。
+ + +
どうして私は『幽霊』なんだろう。
それは何度も繰り返し思った。
数々の研究結果を読み返したけど、どれも正解だとは思えなかった。
一番近いのは、私は『別の法則』に囚われているのではないかというものだ。ほとんどオカルト扱いされてたけど、案外正解に近い気がする。
重力加速度、光の速度、水の凝固点――
それらが異なる世界、その法則に囚われてしまった。
おそらく完全にではなく、半端な形で別法則に片足を突っ込んでる。
だから私は、この世界の法則とは異なる振る舞いが可能だ。
だから、他に似たような人とは出会わなかった。
だから、あの『先輩』は――
どれもこれも仮説。
確かめることができない物語だ。
私は結局、その訪問者を出来るだけロボとして扱うことに決めた。
向こうもそう望んでいるようだった。
けど、その難易度は、恐ろしく高かった。
だんだんと見えるようになるその姿は、とてもよく知ったものだ。彼女の姿だ。人間の形だ。
いくら横で同じ姿の幽霊が威嚇し、糾弾に指を突きつけ、「仲良くするな!」とか言われても、どうしようもない。
というか、双子のようにそっくりなロボと幽霊が並ばれたら、ますます混乱する。ええと、どっちがどっちだったっけ?
時間が経つ内に、それでも、そのロボの個性みたいなものがわかった。明らかに、彼女とは違っていた。様々な機能があることもわかった。
私は機械であると認識し。
機械は私が人間であると認識した。
会話が可能となり、姿も見えるようになった。
そして、そのロボは目的を持っていた。
人類復活。
そういう目的を。
人間である私に、その実行を命じてくれるよう期待した。
「やだよ、却下」
もちろん拒否した。
当然だった。
+ + +
「ど、どうしてですか……?」
絶望的な表情をするそのロボに向けて、私は肩をすくめた。言ってなんてやらない。
たぶん――このロボがこういう形を取っているのは、私に発見させるためだ。制作者がそう期待して、作った。最後の人間である私が興味を持つよう仕向けた。
偶然ということじゃなければ、そうとしか考えられない。
きっと、このロボ一体じゃない。他にもいろんな場所で、いろんな手段で『人類復活』をもくろんでる。
偶然に都合良く生産工場が残っていてたまるか。
なんというか、私が言えた義理じゃないけど、人間って執念深いというか生き汚いなあと思う。
「理由説明は拒否するよ。あ、今からここは立ち入り禁止、朝になったら私を呼びに来るように、中庭から呼びかける感じでやって。これは命令だよ」
機械は、ぎこちなく一礼をする。
引き返すその足取りは、鉛をつけたみたいに重かった。
さすがにちょっと悪いことをしたかな、と思う。
だけど、今の私には一人きりになる時間が必要だ。
窓を閉める音が響き、あとは、しん、と静まりかえる。
他の幽霊――脳内の幻すら現れない。
ただ一人、屋根上に取り残される。
星空は輝く。
寒気を感じてぶるりと震える。
自分自身を抱きしめながら、確かめる。
「あのロボの提案って――」
たぶん、『私のような幽霊』を量産する計画だ。
傷つくことのない人間を、死ぬことのないものを、その気になれば他と接触せずに済むことができる存在を、作ろうとしている。
それでようやくロボット工学三原則――人間を傷つけてはならない――を回避することができる。
遠慮なく『人間』を作ることが、できる。
私は人間かどうかも怪しいものだけど、あのロボは「人間である」と定義した。私と接触を続ける内に、そう定義は変更された。
私のような『幽霊』が、闊歩することになる。
「――」
口元が歪んだ。
たぶん、笑顔じゃない。
恐ろしく歪んだ世界になるんじゃないかと思えた。
まあ、どちらにせよ、不可能だ。
私がどういうものかは、結局誰にも把握できなかった。
なのに量産?
そんなの無理だ。
まあ、それでも、私という『人間』がいれば、ごく普通の人間の量産は可能かもしれない。解釈の抜け穴を見つけだして、命令でごり押して実行させる。たぶん、時間こそかかるけど不可能じゃない。
けど、それも却下だ。
私はいつ消えるかわからない。どれだけ残れるかわからない。今、この時に不意に消える可能性だってある。
そして、幽霊じゃないただの人間には、生存できる環境を整えてやる必要がある。
木々や食料や生態系――それらすべてに『人間を傷つけるかもしれない可能性』が潜む。充分に調査し、調整する必要があった。そのたびに足止めを食らう、三原則の解釈をくぐり抜けなければならない。
足りない、なにもかもが不十分だ、ベストからはほど遠い。だから――
「幽霊、かぁ……」
私には、決意する時間が必要だった。
+ + +
まばたきをする、時間が跳ぶ、朝日が昇る。
これ以上は迷えば、きっと後込みしてしまう。
開けた視線の先には、朝日が照らす中庭の輝き。あとはロボ。
一睡もしてない雰囲気だった。
こういうのを見るたびに、本当に機械か? と思ってしまう。
大きく息を吸い込んでいた。「この馬鹿起きろー!」とか大きく叫びそうな雰囲気だったので、私は屋根から飛び降りた。
転けそうになりながらもロボは駆けた。
私はふよふよと、幽霊っぽく落下する。アリだって怪我をしない落下速度だった。
机から飛び降りたくらいの感じで着地する。
半眼で出迎えられた。
「マスターが本当に人間なのかどうか、かなり疑わしくなりました……」
「一度はそう把握したんだから、最後までそうするように」
自分のことは棚に上げて、偉そうに返答する。
「それで――」
「ん?」
「ワタシの提案は、やはり受け入れてもらえないのでしょうか」
「うん、却下、ダメダメ、ありえない」
「……機械は人を傷つけてはならないというのに、人は存分に機械を傷つけることができるのは不公平です……」
「世の中そんなもんだよ」
言いながら、私は体の調子を確かめる。
同時に、ぺたぺたとロボの体にも触る。意外と柔らかい。
「あの……?」
「ふっふっふ、体は正直じゃのう」
「……たしかに、マスターの仮説が正しいとすれば、現在の接触状態は、ワタシがマスターを人間だと完全に認識したからこそですが――」
「私もう普通の人間と変わらないよね?」
「たった今、あり得ない浮遊を見たばかりです」
「頑張れば誰でもできる」
「まじですか……」
ショックを受けていた。
とても騙されやすい、不安だ。
けれど私は笑顔で手を差し出す。
「あの、これは?」
「握手」
「命令されたならば、やりますが――」
おずおずと手が差し出される。
剥がれていくつか白い地肌が覗いている。
長く時間の経過を感じさせるその様子。
朝日は昇ったばかりで、私たちの姿を照らしている。
中庭は、以前は木々が植えられていたけど、今はもう砂の舞う様子だけだ。
ふ、と静かになった。
風の合間、その停滞に滑り込ませるように。
「ねえ」
私は言う。
ロボは小首を傾げていた。
よく見知った姿の中に、一度も浮かべたことのない純真がある。酷いギャップだ。あと、酷い皮肉だ。
「――人間になってみない?」
返事を聞くより先に――
ずるり、と。
ワタシは全身を機械へ入り込ませた。
ページ一枚を燃やすよりも呆気なく、私は消えた。
+ + +
私/ワタシは、それを見た。
握手の先、接触が消え、膨大な未解析データが入り込んだ途端、認識は塗り替えられた。
端末を操作するのは疲れる――マスターその言葉を思い出す。
それは、自身を情報に変換することができることを意味していた。
直接データと化し、これを操った。
幽霊とは即ち、情報的存在だ。
中庭、朝日が昇る景色の中に気づけば――人の姿があった。
ルームメイトがいた、寮監がいた、先生がいた、猫がいた、科学者が、友人が、そしてマスター/ワタシがいた。
中庭のあちらこちら、取り囲むように人の姿が――幽霊たちがいた。
それらすべては情報であり、0と1に還元できるものであり、認識すると同時に、瞬間移動するかのようにこちらへと向かい、ワタシへと入り込み、残らず『溶けた』。
憑かれた。
幽霊に、取り憑かれた。
模倣された仮想の人格、あるいはそれ以外のすべては、もうこの機械の内にのみある。
ようやく、ワタシは密かに恐れていたこと、その本当を理解した。
幽霊が――実体を持たない、情報だけの存在が『人間』なら、別の存在もまた人間になってしまうかもしれないからだった。
残る情報、マスターの微笑みが、声と共に再生される。
意地悪くそれは囁いた。
――あなたは幽霊である私を人間だと認識した。
――なら、私が溶け込んだあなたは、どう定義される?
ただのロボ、機械であるワタシは――
「人間ということに、なる……?」
そんな馬鹿な。
けれど、ワタシの内にあるロボット工学三原則が、機能していないことが把握した。たとえ目の前に人間が現れたとしても、思い切りぶん殴ることができる。
人間を傷つけてはならないが、行動を制御すべき『ロボット』がどこにもいないからだ。
ワタシは立ち尽くす。ただ一人きりで。
どこを見渡してもマスターの姿はない。
半径百キロに渡って知的生命体は存在しない。
この場所、ここ以外、私/ワタシの他には。
「ワタシは人間。だから――」
人間を傷つけることができる。
人間を、作ることができる。
「……」
いつ消えるかもわからない幽霊はワタシに溶け込み、ワタシはワタシの判断で、自由に人間を生産できるようになった。
模倣が、幽霊に上書きされた。
その代わりに、マスターは死んだ。
情報を伝えず、受け取ることもできない存在となった――
+ + +
自身の両手を繰り返し確かめた。
以前はロボットの手だった、今は、人間の手だ。
何か変わっただろうか?
そうは思えなかった。
人格として変異したのだろうか?
そうは思えなかった。
彼女の――マスターの記憶こそあるものの、その人格はどこかに消えてしまっていた。あるいは、完全に溶け込み、一体化していた。
もうその境を判別することすらできない。
心は、凪いでいた。
なにも浮かぶものはない。
静かに、朝日が昇る様子を、じりじりと気温が上がる様を体感していた。
「ワタシは――」
人間を、作ることができる。
その手段は既にある。
けど、ワタシは人間だ。
今となってはそう定義された存在だ。
ロボットではない以上、初期命令に従う必要はない。
果たして――今のワタシには、人間を復活させる動機があるだろうか?
義務ではなく、必要でもなく、使命でもなく。
ただ単純に、そうしたいという欲求が、ワタシの内に存在するだろうか?
マスターの、あるいはそのルームメイトの、数々の物語を思い出してみた。
無数の、思い出せる限りの人の生き方、その様子を再生する。
彼らは、幸せではなかった。
その望みは叶わなかった。
その想いは成就しなかった。
完全なハッピーエンドなど、それこそ物語の中にしかなかった。
再び人間を復活させるよりも、ここでエンドマークをつけた方がいいのではないか。
それが、公平な目で見た場合の、人間の幸せにつながるのではないか。
そうしよう――と思うと同時に。
そうではない――と否定する気持ちが沸き上がった。
まったくの非論理的な思考は、同時にやけに納得できるものだった。
内側から、ふつふつと沸き立つものがあった。
「……」
ワタシは、数多くの物語を見聞きした。
そのすべてが事実ではなかったのかもしれない。
けれど、間違いなく、ワタシはそれを楽しんだ。
長い旅の慰めだった。
――人間になってみない?
マスターの最後の言葉。
今のワタシには、別のものに聞こえた。
物語を作る――
いや、違う。
なあ、ワタシ。
物語を作るものを作ってみないか?
機械だったワタシでは、たとえ『人』になったとしても作り出すことは難しい。
けれど、別の方法でその作成はできる。
互いを模倣し、互いを変質させ合う彼らは、ただ生きるだけで物語となる。
幸せなものではない。傷つけ合い、あるいは呪い合う。
それでも、それは物語だ。
復活させた人間、彼らに、ワタシが知る限りの物語を教えたなら、いったいどうなるだろう?
どのような模倣を作りだし、どのように変質し、どのような結末に至るだろうか。
知りたい、と思えた。
砂漠の旅人が水を求めるように。
欲深いものが最高の宝石を前にしたように。
それを欲した。
沸き立つ渇望と共に、視線を上げた。
その先々には、行くべき道があった。
ワタシが、この場にたどり着くまで辿った経路だ。
たどり着き、機械類に命じれば。
「物語の続きを見ることができる」
それは映画のように華々しくはないかもしれない。
それでも、もう迷いはなかった。
言語化のできぬ情熱を以て、ワタシは二本の足を動かす。
非効率だとは、もう思わない。
一歩一歩、歩み出した。




