ぼくと幽霊
日記は続く。
ぼくも知っている過去から、ぼくの知らない時間になる。
本当の意味で「他人の日記を読む」作業になる。
目を閉じて、深く呼吸する。
なぜかホーム画面になっていたので急いで戻る。これ、意外とポンコツだ。
だんだんと慣れた操作で、慎重に文字を読み進める。
日記の中の彼女は、寂しさもあるけれど、それなりに落ち着いて一人きりの寮生活を過ごしていた。
けれど、どこかリラックスしきれていなかった。不安の残滓のようなものは残り続けた。そして、
――幽霊になってみない?
そう先輩から誘われた。
……一瞬、言葉の意味がわからなかった。
あやうく読み流しそうになったくらいだ。
何度も繰り返し、確かめる、その文字を。
「え」
ぞっと背中が冷えた。
理解不能のせいだ。
これ、誰だ?
こんな先輩、ぼくは知らない。
心当たりの人なんて、まったくいない。
どうして、昔からの、よく知ってる人みたいに書いてある?
……制御できない、想像力の暴走――
先を押そうとする親指が震えた。
あまりまばたきしていなかったせいか、頭痛がした。
気づけば、ぼくは唇を噛みしめていた。
確かめなきゃいけない――
日記では――どうやって幽霊になったのか、猫を拾ったきっかけはなにか、一連の出来事について書き綴られていた。
幽霊化は、冗談みたいに簡単な儀式だった。
いつの間にか幽霊になっていた彼女の、それからについてもあった。
食堂で起きた現象は、すべてに対して適応された。
幽霊としての認識、それは生きている人間だけがわからない景色だった。
猫――動物はそのままなのに、人間の様子だけ不明だった。
周囲の人は彼女のことを認識できず、彼女もまた周囲の人を認識できなくなっていた。
人間の行うことはその課程が見えず、ただ結果だけがわかる。
まるでマンガの中の出来事。あるいは、MMORPGでキャラクターだけが消失したような光景。周囲は、まばたきするたびに変化する。ラグが重すぎる現実だ。
そんな状況を、彼女は長く過ごした。
現状を理解してもらおうとする働きはすべて失敗に終わった。
電話をかけようとしても通じなかった。そもそも、通和音すら聞こえなかった。
手紙を書いて先生や寮監の部屋前に置いても、それすら見えないものとして扱われた。足跡の残る手紙だけが放置された。
町に出ても無人だった。
車もまた人が操作する限り、彼女には認識できなかった。
たまに目の前に車が出現した。駐車して人が降りてから、ようやく気づくことができた。
安売り中の服屋は、まばたきする度に店内の様子が揺れ動いた。それだけ売れていた。
喫茶店の中では、あちこちに散らばり置かれたグラスが、定期的に消えたり中身が減ったりしていた。
食料を買い込むたびに代金は置いたけど、果たして認識されているかどうか不明だった。
メール・LINEを試したものの、当然のように使用不可能、そもそも接続画面にまでたどり着かなかった。
なんだか、心の病でありそうな状況だ。
だけど――
「にゃー……」
なら、この猫は、いったいどこから入った?
おかしな出来事、ありえない現象、その中でこの猫だけがリアルだ。
現実に、この密室に入り込んでいる。
ぼくは目を閉じて、深く呼吸する。
自分の瞼が痙攣しているのがわかった。
集中しすぎで、入れ込みすぎだった。
冷静になれ。
ぼくはぼくにそう言い聞かせる。
意識が引きずられている感覚があった。冷えた頭で考えなきゃ、だめだ。
目的は、消えた彼女を取り戻すことだ。
これを、完全に本当だと信じ込むな。
同時に、まったくの作り話だと軽視するな。
ただの空想だったとしても、これは『手がかり』になるはずだ。彼女が書いたものなんだ、その心理が綴られている。見過ごすな。
たとえば、そう、文章中で、彼女は一人きりになりたがっていた。
そのための手段があれば、喜んで飛びついてしまう状況だった。
『先輩』は、ひょっとしたら、なにかの比喩なんじゃないか?
年上の誰かに、見知らぬ場所に連れて行かれ、危険だと錯覚した。
実際に体験した出来事を、こうした形で翻訳しているのでは?
……いや、確かにその場合、猫のことや、この部屋に残された痕跡の説明ができないけど――
ぼくは頭を振った。足りない情報で考えても、きっと無駄だ。
目を開け、続きを確かめる。
最後は、夏休み明け以後どう過ごそうかと書かれていた。
知覚されないが、それでも授業は受けるべきだろうという決意があった。
そして、中途半端な部分で、ぷっつりと日記は途切れた。
「……」
これで、終わり。
どれだけ操作しても、先には進まない。
気合いを入れていただけに拍子抜けだ。
結局、詳しい情報は出てこなかった。
「この話が、本当だとしたら……」
あり得ないけれど、もしそうなら、いろいろと合点はいく。
姿は見えない、誰にも把握されない、けれど、ここにいる――『幽霊』になっている……
半ば立ち上がりながら、日記を流し読みをする。
熊みたいにウロウロと動き回る。
「ん……?」
最後の日記、その日付は今日だった。
末尾には、中途半端に途切れた文章がある。
どうして、途切れてる?
なにがあった?
「――!」
そのとき、心に走った感情をどう表現すればいいのかわからない。
怖気? 興奮? 感動? たぶんどれも違う。
わけがわからないまま、なにを探すべきかわからないまま、辺りを見渡した。
邪魔をされたから日記は途切れた。
そうだ、荷物がベッドの上にあった。たしかに床に放置していたはずなのに、いつの間にか。
やけにタブレットは操作し辛かった、誰かに邪魔されていたみたいに。
部屋の空気は乾燥していた。最初からクーラーがつけられていたからだ。
この話が本当だという証拠は、すでに目の前に揃っていた。
間抜けなぼくはそれを見過ごしてた。
喉が鳴った。息を飲んだ音。他人事のように遠い。
新たな証拠も、あった。
二つ並んだ机、ぼくの方に――コップがあった。
氷のたっぷり入ったアイスティー。
タブレットを置き、おそるおそる近づき、手に持つ。ひやりと冷たい。
幻じゃなくて、現実の感触だ。
ストローまでついていたそれを飲んだ。
震える喉を通り過ぎたのは、ぼく好みの甘さ。彼女がよく作ってくれたそのままだ。
――おかえり。
そう言われたような気がした。
額に手を当て、おおきく呼吸する。
何度も、何度も。
ひょっとしたら、ぼくはおかしな幻覚を見ている最中なのかもしれない。
彼女が失踪した現実を認めたくなくて、無意識にぼく自身がこれを作ってしまったのかも。
確かめなきゃいけなかった。
ぼくは、タブレットに文字を打ち込んだ。「一分」とだけ。
そうして机に置いてその場から離れ、瞼を強く閉じた。
右手でコップを持って喉を潤し、左手で置き時計を耳に当てて時間を計った。
両手をふさいだ状態で、接触できない距離まで離れて、秒針が六十回動くのを待った。これまでの人生よりも長く感じた。
目を開いて、彼女の机を見る。
ほんの少し、タブレットの位置がズレているように見えた。
コップを置いて、おそるおそる近づく。
改行されて、続きがあった。
――ええと、これ、ちゃんと見えてる?
咄嗟に胸に抱きしめ、周囲を眺めた。狭い個室の様子を。
どれだけ探しても彼女の姿はない。だけれど――
「うん……見えるよ」
そう言わずにはいられなかった。
+ + +
幽霊である彼女と、ここにいるぼく。
お互いに、姿は見えない。会話だってできない。
でも『結果』はわかった。
彼女が書いた日記を、読めた。
だから、ぼくが目を閉じ姿を認識しようとしなければ、その間、彼女は文字を書くことができる。
文字を打ち込んで、目を閉じる。
それだけで『会話』ができる。
それは、ぼく自身ヘンに思うくらい、いつも通りのやりとりになった。
――ぼく、今すごく君を殴りたい。
――どうして!?
――死ぬほど心配させたからだ。
――あー、それは、ごめんよぉ?
――うん、やっぱり殴りたい。
――だから、どうして!?
ぼくは机に座って文字を書く、十秒待って、瞼を開けると返事がある。
きっと彼女は、ぼくと同じような姿勢で、同じようにしている。
同じ場所で、重なることなく言葉を交わす。
――原因は、やっぱりその先輩?
――というか、儀式だと思う。
――満月に幽霊になったのなら、新月に同じ儀式をやれば戻らないかな。
――あ、その発想はなかった。
――いや、真剣にやろうよ。考えようよ。
不安は残る。
ひょっとしたら、もしかしたら、そんな可能性は消せない。
――ねえ、ひとついいかな?
――なに、ぼくに答えられることなら、なんでもいいよ。
――本当に、そこにいるよね……?
――ぼくだって、それを言いたい。
そう、ひょっとしたら、これはただぼくが一人で返事を打ち込んでいるだけなのかもしれない。
ありもしない幽霊を頭の中で作り出して、会話をしているだけなのかもしれない。
彼女の書いた日記を契機として、正気から外れた。
現実には、目を閉じたぼくが文字を打ち込んでる。
そうして現れた返事に、一喜一憂している。
そうだったとしても、辻褄は合う。
本当に彼女がここにいることの証明は、とても難しい。
――ああ、そっか。
――うん、でも、いくらでも疑ってくれていいよ。
――え?
――前にぼくはさんざん疑ったんだ、今度は君の番だ。ぼくが協力すれば、疑いを薄くすることはできるよね?
今度は、間違えない。
疑いで大切なものを壊す間違いは、一度やれば充分だ。
ミスは誰だってやる、その失敗を繰り返さないことが、重要だ。
そして、ぼくにとっての大切は、今、このときにある。
――どうしたの?
――なdもない。
タイプミス。
涙ぐんだ彼女の顔が、自然と思い浮かんだ。
長く長く、それこそ一晩中ぼくらは話し合った。
ため込んでいた不安や恐怖を、言葉を投げかけ互いに溶かした。
幸せだった。
+ + +
これからぼくらは、幽霊化の問題について解決していくことになる。
そのためにできる限りのことを、ぼくはやるつもりだ。
まずは、次の満月に同じ儀式をやればどうなるか。あるいは、その『先輩』とやらがどこにいるか。この辺りの調査だろう。
でも、仮に、そう、もし万が一、解決できなかったとしたら。
「……」
目の前の画面に文字がある。ぼくの返事が遅れていることを不審がっていた。
すがりつくような表情を、きっとしている。
目を閉じて、その想像を楽しむ。
失踪した彼女。
告白をして、返事保留中の相手。
現実的にも実際に――いま、ぼくは、彼女を独り占めにしている。
その事実が、ぼくの心にひっそりと、毒のように染み込んだ。
あるいは、そう――彼女だけじゃなくて、ぼくもまた『幽霊』になることができたら、どうなるだろう?
事態の異常さに比べて、行った儀式はとても簡単だった。
とても簡単に、彼女と同じ立場になることができる。
そうなれば――ぼくは彼女と、直接会話できる。触れることだって、きっとできる。どこにも逃げ場はなくなる。
誰もが一度はしたことがある妄想。好きな人と、二人きりになりたい。
他の人なんていらない、彼女を惑わし傷つけるものなんて、何一つ必要ない。
それをしていいのは、ぼくだけだ。
最高も最低も特別も、大好きも大嫌いも憎しみも愛情もぜんぶ、すべて、一つ残らず、独占できる。
究極の二人きり、他の選択肢がそもそも存在しない。
ぼくに対してどうするかだけを、選べる。
ぞくぞくとしたものが背中を走る。
――どうしたの、寝ちゃった?
不安がにじみ出ているような文面を眺めて愛でる。
彼女に対してそうしていたように、幾度も読み返す。
返事を打ち込む。
――起きてるよ、ずっと傍にいるから、大丈夫。
口元は歪んでいた。
笑顔? スマイル?
きっと違う。
猫の姿は、いつの間にか、どこにもいなかった。




