ぼくと彼女
夏休みが終わろうとしていた。
ぼくのルームメイトは結局、戻って来なかった。
行方不明のまま、どこに行ったのかわからないまま。
本当に、煙のように消えてしまった。
いまだに、ぼくはそれを信じることができずにいる。
居なくなったことが発覚したのは、彼女がいなくなって二日くらいが経過してからだったらしい。
それまで、不思議なくらい誰も気にしていなかった。
急な用事が出来て、帰省することにしたんだろう、よくある話――
平和に呑気に、女子寮の全員がそう考えた。
家族からの、たまたまの連絡がなければ、発覚するのはもっと遅れていたに違いない。
わかってからは、大騒ぎだった。
光よりも早くその情報は行き渡った。
実家に帰省していたぼくは、先生からの電話でそれを知った。
友達の少ない奴なのだ、沸騰していた話題から取り残された。
だから、最初はなにかのイタズラを仕掛けられているんじゃないかと思った。
何回も「そちらに行っていないか」とか「行く先に心当たりはないか」と訊かれた、その声の遠さ、その現実感のなさ。嘘だとしか思えない。隠れて撮影してる奴は一体どこだ。騙されてやんのと囃し立てるやつが来ないのはどうしてなんだろう?
――失踪。
そんな単語が身近な、よく知ってる人に、それもルームメイトの彼女に起こるとか、思ってもみなかった。
だけど、電話向こうから聞こえる声は先生のそれで。
苛立ちと疲れの混じったもので。
おふざけ皆無の、真剣きわまりないものだった。
否定の言葉しか返せないのが、なんだか申し訳なくなるくらいだ。
ぼくの返事によって、わずかな希望の潰えた様子が、遠く電波を介した向こうにあった。
まったく本当に、ぼくが訊きたいくらいだった。
彼女は、ぼくのルームメイトはどこに行ったんですか。
誰か、心当たりはないんですか、と。
全校生徒の間で、疑問と質問が飽和した。
答えは、どこからも返って来なかった。
肝心の本人は、ついに現れなかったのだ。
夏休み終了前に寮へと戻ることにした。
親には引き留められたけど、いても立ってもいられなかった。
ああ、あと、親がけっこう頻繁にスカートを初めとした格好をさせようとしたことも理由の一つ。ぼくは学内では普段、ジャージ姿で生活してる。
人の少ない学校は、なんだかとてもよそよそしく、だけど、ぼくには好奇心の視線が絡みついた。
やあ、待ちに待った新しい手がかりだ、なにか知ってるはずに違いない、そうでなければならない、そうでないことなど許せない――
バカな名探偵たちの、バカな質問の群は、一足先に戻ったことをかなり後悔させた。
彼らの中では、級友の心配をすることと、下世話な想像をして盛り上がることの間に差はない様子だ。
――心配してやってんじゃん!
唇尖らせて、不本意そうに言うことの意味を、言った当人だけが自覚しない。
あまりに醜い。
学校内は、動物たちが闊歩する場所になった。
理性が存在しない地点だ。
これが肉食動物としての立ち振る舞いなら、まだマシだった。でも、そうじゃなかった。
草食動物は群れる。
群れることで外敵から身を守る。
それはストレスに晒されつづける生活でもある。
だからこそ、安全が破綻した場面――
最悪の、だけど自分とは関係のない身近な被害に、彼らは『安心』する。
仲間が喰い殺される有様を、草食動物たちの群はときにじっと見つめる。そういう性質を彼らは持つ。
つい先ほどまで横にいたもの、仲間の命が容赦なく奪われる有様に、心密かに興奮する。この上ない娯楽とする。
ああ、なんて酷い出来事なんだ――
仲間がいかに酷い目にあったのか、その情報を貪欲に欲する。安心するために、興奮するために。
それが今の学校内の雰囲気だ。
+ + +
寮の個室は、きっと酷いことになっているんだろうなと思っていたけど、意外と綺麗だった。
名探偵たちに鍵開けの技能はなかったらしい。
湿気の少ない空気と、見慣れた室内に肩の力が抜けた。
「ただいま……」
返事と一緒にルームメイトが顔を出しても、たぶんこのときなら驚かなかった。
それくらい、いつも通りだった。
――あ、予定より早いね、どうしたの?
声まで聞こえたような気がした。
もちろん、空耳だ。クーラーの稼動する音が聞こえた。代わりというように、背後から聞こえる扉のノックは喧しい。
隠された秘密が大好きな連中だ、ここを開けてくれと猫撫で声で言っていた。反応するのも馬鹿らしかった。
ここは、ぼくたちの部屋だ。
重い荷物を抱えたまま、しばし進んで。
「え……」
立ち止まった。
先客が、そこにいた。
ぼくも驚いたけど、あっちも驚いた。動きをぴたりと止めていた。
大股を広げて自らの尻を舐めている最中だった。もちろん人間じゃない、猫だ。
二つ並んだベッドの奥側、ぼくのじゃなくて、彼女の方に乗っていた。
そこにいることが自然な雰囲気で、なんの問題もないというような振る舞いをしながら。
「……」
バッグを、慎重に下ろした。
背後の扉をたしかめる。たしかに鍵は閉まっていた。
胸に手を当て、呼吸する。
大きく二回。
まっすぐベッド横を通り抜け、窓をたしかめた。ぼくという闖入者を警戒しながら、それでも猫は毛繕いを続けた。
窓の鍵は、きちんと閉まっていた。
扉と窓、この二つしか外部に通じていない。
それはもう何回も確かめた。
ルームメイトとの諍いの際に、徹底して調べたから間違いない。
どうやって、この猫はここに入った?
「先生が……?」
あるいは寮監が、この猫を入れた。
なにせ失踪者が出た部屋だ。
一回か二回くらいは、ここに入ったことはあったはずだ。
その隙に、するりと猫は入り込んだ。
本当に?
それにしては、この猫はずいぶんと慣れている。下手をしたら戻って来たばかりのぼくより我が物顔でいる。
それに、エサはどうしていたんだろう。
冷蔵庫の中にはいくつか心当たりがあるけど、まさか猫が開けられるわけがないし――
腕を組んで考える。
密室に猫が入り込んでいること……だけじゃなかった。
その異常よりも、おかしなことがあった。
部屋が、いつも通り過ぎた。
圧迫感すら感じる狭い部屋。最低限のものだけが詰め込まれた寮室。
窓のカーテン、ベッドのシーツが波打つ様子、二人並べば一杯になってしまう狭いキッチン。
人の気配が――彼女の雰囲気が、残っている。
人の消えた場所特有の、寂しさがない。
この状況を――ぼくは「消えたルームメイトを必死に探さなければならない場面」ではなく、「勝手に猫を拾って飼うなんてどういうつもりだ」と怒るべき状態だと考えてしまっている。
なぜ、そう感じている?
なにが原因?
ぼくはうろうろと部屋中を見回る。
猫は不審そうな目で見つめる。
見つめられながらぼくは、四つん這いでベッドの下を探った。
なにもなかった。
ひとつひとつ、丹念に探る。
落ちている長い髪の毛は誰のもの?
彼女のものからもしれないから、そっと拾ってしまい込む。
入り口近くのキッチン、そのちいさな冷蔵庫。
「これは……」
猫には開けられないはずのところだ。
冷たくものを保存するその中には、ごく普通の食料品がある。
それ以外にも、猫のためのエサも用意されていた。半端に開いた猫缶が、ラップに包まれてそこにあった。
彼女が失踪したと予測されるのは、夏休みが始まった直後だ。
今は、夏休みが終わろうとする時期だ。
猫缶は、まだとても新鮮な様子だった。まるで――
「今朝あげたばかりみたいだ」
視線が鋭くなるのを自覚した。
キッチンの、流し台に手を置いた。予想通り、湿った感触があった。
猫をどかして、ベッドに顔を埋める。においを嗅ぐためだ。普段は我慢している行為を存分に行う。
猫のそれとは別に、彼女の匂いをたしかに嗅いだ。消えずに、それが残っていた。
ゴミ箱をひっくり返して、中身を確かめる。
ほとんどの物には用がない。おにぎりの包装紙、そこに書かれた賞味期限をたしかめる。日付けは昨日だった。
「……可能性としては、大きく分けて二つだと思う」
胸骨が動いているのがわかる。それだけ大きく呼吸している。
拳をぼく自身の手のひらにぶつける、思いっきり鳴った。この場合、手のひらは代替物だ、本来はもっと別のモノを叩かなきゃいけない。
「一つは、先生や寮監が、猫を拾ってこの部屋に入れて、世話をした」
ほぼ無いといっていい可能性だ。
四角四面のルール第一の人たちだし、第一、他に空いてる部屋なんていっぱいある。
なのに、失踪した人の部屋をわざわざ選んだ。さらに、猫を回収することも忘れた。
まるで、ぼくが良く知る誰かさんみたいなうっかりをした。
「もう一つは、ぼくの大切なルームメイトは、実は失踪なんてしていない。まだここで、普通に生活している……」
のみならず、ぼくに黙って猫まで飼って、好き勝手に平和な逃亡生活を満喫している!
どうやって皆の目を欺いたのかは、わからない。
だけど、ずいぶんとふざけたことをしてくれるじゃないか。
頬がひきつる。これは笑顔だ。スマイルの表情だ。
決して激怒と殺意の現れではない。
何かを察知したように、猫がぼくから離れていく姿が目の端に映った。
+ + +
容赦する気は完全に消えた。
なにかの事件に巻き込まれてるんじゃないか、最悪のこと――もう二度と逢えないことになるんじゃないかと覚悟していたのに、この仕打ち。なにが気にくわなかったのかは知らないけど、プライベートを暴かれることは受け入れてもらう。
勉強用の机、そこの平然と置かれているタブレットを手にする。
片手サイズというには気持ち大きめのそれは、電池残量十分だった。
当たり前のようにロック画面が現れパスワードを要求される。
当たり前のようにぼくはそれを解除する。
……なにかの音が聞こえた気がした。
見れば手荷物がベッドの上に乗っていた。
あれ? ぼく、いつの間に乗せた……?
「まあ、いいや。というか、どうしてパスワードがぼくの誕生日のもじりなんだろう」
かなり不用意だと思う。
彼女はうっかりが多すぎる。
使い慣れてないものだから、操作はかなり戸惑う。なぜだか勝手に動いてるような感じすらある。それでもようやく、目的のもの――彼女がつけている日記帳にたどり着いた。
どこにヒントがあるかわからないから、最初から読むことにした。
……ほとんどは、何気ない言葉、メモ帳程度の簡単なものだ。
「コンビニ、新おにぎり旨い」の一行だけだったと思えば、小テストの成績が悪かったことを何十行にも渡って後悔していた。もちろん、なにも書いてない日も多い。
気分屋の彼女らしい日記だと思う。
ルームメイトである、ぼくのことも書いてあった。
そこそこの頻度で登場していた。
かなり恥ずかしい。
暇さえあれば、ぼくは彼女のことを観察していた。ロック画面の番号は、記憶してある動作を逆算すれば簡単にわかることだった。だけど、実際に中身を読んだのはこれが初めてだ。きっと酷い悪口が書いてあるはずだと覚悟していたけど、何気ない約束や笑い話だけがあった。涙が出そうだ。
『あのこと』についても、簡単に書いてあった。
ぼくらが一年から二年へ進級する直前、まだ肌寒い時期。
ぼくは、告白した。罪じゃなくて、想いを伝えた。
彼女に、この日記の持ち主に、ルームメイトに、好きだと言った。
結果は、玉砕だった。
――よくわからないから保留で。
この答えを肯定的に捉えることができる人がいたら、むしろ羨ましい。
世界が終わったと信じた。
きっと部屋替え申請されるだろうなと思った。
ぼくが彼女の立場なら、そうする。
半ばそれを期待しての告白だった。
普段であれば正当な理由がなければ無理だけど、進級時のこのタイミングであれば簡単にできる。
ぼくは同室申請をしたけど、彼女は違うはずだ。
二年生になってもルームメイトだった。
世界は蘇った。
どうして、と訊いた。
――だって保留してるし、考えて答えを出さないと。
胸を張って、どこか偉そうに。
ヒロインとして、ここは逃げてはあかんのです――とか余計な言葉まで聞こえた気がしたけど、ぼくはただ呆然とした。
彼女は、まじめに考えて、「答え」を出そうとしている。
世界は、バラ色のつぼみで満ちていた。
まだ開いていない、ひょっとしたら枯れ落ちるかもしれない、だけど、否定はされなかった。
それは、とても残酷で、身悶えするくらい嬉しい可能性だ。
ぼくと彼女は、まだ恋人じゃない。
+ + +
タップする手を止めた。
ここから先は、読むのがつらかった。
バラの蕾の日々は、それほど長く続かなかった。
ぼくと彼女が恋人同士だという噂がたったのだ。
それだけならまだしも、かなり具体的に、本人でなければ知らない情報が行き渡った。
バラされた。
そう思いこんでしまった。
どれだけ彼女が否定しても、それを信じることができなかった。
あのとき彼女とした喧嘩は、もう思い出したくない。
ただ裏切られたと思えた、その悔しさだけがあった。それを一方的にぶつけた。
誰かが盗み聞きしていたんじゃないかという可能性は、まっさきに潰した。
意外とこの部屋は防音がしっかりしているし、出入りできる場所も限られていた。
だから、彼女が誰かに喋ったのでなければ、他に可能性はない。
ぼくにとって大切なことは、彼女にとっては大切じゃなかった。ただの話題の一つとして扱われた――
……そんなことはなかった。
もうちょっとだけ、間の抜けた可能性があった。
彼女と一緒に、遊園地へ遊びに行ったことがあった。
ぼくにとってはデートだった。
でもそれは、普段は一緒に町へと出かけている彼女の友達にとっては許し難い裏切りだったらしい。
意地悪半分、あとは仕返し半分に、彼女から情報を盗んだ。
ぼくとデートした翌週、いつも通り町へ皆と出かけている時。
彼女がちょっとトイレに行っている間に、その『友達』とやらはSDカードのマウントを解除、引き抜いて情報を移した。
音楽をはじめとした重いデータは除外して後は残らずコピーする。
別の人たちが足止めをしているから、実行時間は充分確保できた。
ネット経由のやりとりじゃない以上、痕跡だって残らない。
ロックもまったくしていなかった無防備な機器から情報はコピーされた。
ぼくが今読んでるこの日記も見られた、らしい。
自分が行った悪事を自慢したくてたまらないその『友達』は、秘密を守ることなんて当然できず、たった三日で真相は発覚した。
――なあんだ……
そう言ってしまうような、ことの顛末だった。
ぼくとしては「ああ、うん、今度から気をつけて」という感想。
もちろん、無闇に疑ったことは、きちんと謝った。
そして、ぼくの中では、それだけで終わる話だった。
趣味嗜好が広まったことは、まったく問題じゃない。
彼女の誠実さが失われたわけじゃなかった。その事実さえわかれば、あとはどうだっていい。ミスなんて誰だってするものだ。
だけど、彼女の方がむしろこれを気にした。
――バラしていない、誰にも言っていない、私が原因のはずがない――
そう主張し続けていたのに、実は違った。
周囲の友達が、無邪気に盗みを行ない、守らなければならない秘密は拡散された。
あれだけ穏やかだった部屋の雰囲気、ぼくたちの間に流れていた空気は、おかしな風にねじ曲がった。
ぼくは彼女に対する信頼を回復させたけど、彼女は人間そのものへの不審を抱いた。
――誰かが攻撃しようとしている、誰かがじっと私を見つめている、誰かが私を壊そうとしている――
そんな妄想にとりつかれた。
厄介なのは、それが妄想だと彼女自身が自覚できていることだった。
なのに、まとわりつくそれを振り払うことができずにいた。
彼女は――音に対して敏感になった。
食欲は明らかに落ちていた。
気鬱な表情をよく見かけるようになった。
彼女自身にも制御できない、想像力の暴走に苦しんだ。
そのまま夏休みに突入した。
ぼくは――実家に戻ることにした。
離れる必要があると思えた。
――誰かがじっと私をみつめている――
その『誰か』の内には、間違いなくぼくが入っているはずだ。
そして、彼女を見続けていること、観察することの我慢は、ぼくにはできそうになかった。物理的に見えない距離にまで行く必要があった。
実際、ぼくがいない一人きりのときであれば、彼女は落ち着いていた。
ぼくは、明らかに邪魔だったし、彼女にとってのストレス源になっていた。
連絡を取ることすら、ぼく自身に対して禁止した。胸がかきむしられるような日々だった。
そうして――失踪の連絡を受けた。
好奇の視線を投げつけようとする奴ら全員を、殴り殺したい。
そう思ったぼくを、非難できる人はいない。




