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模倣死  作者: 伊野外
1/7

私と幽霊

模倣死

模倣子ミーム

――幽霊になってみない?


今はもう帰省中の先輩にそう言われた。

迷わず、頷いた。

ちょうどいいタイミングだった。誰とも会話せず、一人きりでいたかった。

だから、それに飛びついた。どんな意味かなんて、考えもしなかった。


たとえばこれが「陸の孤島に行ってみない?」でも、「牢屋にしばらく入ってみない?」でも、私はやっぱり迷いなく頷いたと思う。

我ながら人間不信というか疑心暗鬼の塊状態。誰も知らない場所で、一人になりたかった。


私の表情を見て、先輩はとても寂しそうに、そう、とだけ言った。



指示されたことは簡単だった。

特定の日時――満月の午前二時に、一人きりで旧校舎へと赴く。

この際、誰にも見られてはならない。

一緒に参加するのであれば別だけれど、とにかく、可能な限り人に見つからないように、発見されないように、今はもう放置されている教室へ。


これが、ごく普通の女子中学校なら高難易度だったと思うけど、幸いなことに私が居るのは山中の寮で、しかも今は長期休暇中だ。事情のある生徒しか残っていない。人口密度はとても低い。

会話さえ聞こえてくるのがマレなくらい、テレビの騒がしさが心底助かる。限界集落ってこういう雰囲気なんじゃないかと思う。


ジャージ姿で、なにも持たずに真夜中にこっそり出歩いていると、だから、もう既に自分が幽霊になったような気分だった。

夏特有の、重い湿気が肌に乗る。


――誰もいない……


当たり前のことが、とてもおかしなことに感じる。

自分のクラスをちょっと覗くと、私がいたずらに机の上にのせたイスが、直立したままだった。

どうして誰も下ろしてくれないんだろう?

答え、夏休みだから。

むしろ戻してあった方が怖い。


タブレットでも持ってくれば良かったな、といまさら思う。

ここは、電波の一本も立たない陸の孤島だけど、SDカードの中にはいろいろ音楽を詰め込んである。たまの休みに町中に乗り出して、皆で必死に収集するのだ。情報に飢えた私たちは、そこでようやく一息つく。戻ってから戦利品の共有を行う。情報の狩猟民族だ。


通学組経由の入手もできるけど、一方的に貰うのは嫌だし、対価を支払い続けるのはもっと嫌だった。だいたい、本当に欲しいディープなものは、頼むこと自体がとても気まずい。誰だって他人をどん引きさせるデータをこっそり隠し持ってるものだし、余人には触れさせたくない聖域がある。データロック大事。うん、本当に。


山中組、なんて呼ばれる私たち寮生の成績がそこそこいいのは、実はこの楽しみを奪われたくなくて、補習とか居残りとかを全力で回避するからだった。効率的に『狩り』をするためにも人数は多い方がいい。


――一度だけ、事情があって参加しなかったら、ものすごく冷たい目で見られたな……


舌打ちしながら渡して来る。

私も同じことを相手にしたことがあったけど、微妙に傷つくからやめて欲しい。


軽く現実逃避気味の合間にも、足は動く。目的地へ近づく。

キュッキュッ、と背中がぞわぞわする音を出すリノリウムの廊下を越え、中庭へ。そこからさらに数分ばかり歩く。

月明かり中から、旧校舎が現れる。


……木造だった。

木で作られた建物って、妙に音を吸収する。

開けっ放しのドアをくぐって中に入った途端、しん、とした静寂が耳を打った。


夜の暗さは、さらに暗さを増していた。

おいおい、今は二一世紀だぜ?

こんな安全設計皆無の暗がりとか残ってていいわけ?


まったくふざけている。相可第三中学執行部の怠慢だ。教育委員会に訴えてやる。

足を進ませる。震えていた。体は正直だった。

なにかの嫌がらせかと思うくらい、階段は鳴る。


ふ――と、耳の奥で声が蘇った。


――二階まで昇って、右、一番最初の教室……


先輩の声だった。あまくて、ささやかで、大人びた。

一年早く生まれただけなんて信じられない。


――その教室の、あなたが普段使う席……


やけにがたつく扉を開ける。夜を引き裂いたみたいな音がした。誰かに気づかれたかもしれない。知ったことか。

前から四列目、右から三。目指す場所のイスを引く。


――午前二時、そこに座って、ゆっくり、慎重に、机に二重の丸を書くの。


言われた通りの行動をする。埃まみれのはずなのに、やけに指は景気よく滑った。背筋が震えたのは無視。怯えてなんかいない。


――円の中心に掌を置いて、目を閉じて、呼吸。一回、二回、三回――十回まで、繰り返す……


声に従うように、深く呼吸する。鼻から吸って、口から吐く。自分の心臓がうるさいことに初めて気づいた。


――目を開けたとき、机に置いた手以外を見たらだめ。瞼を長く閉じるのもだめ。他のものは見ないで。そのまま、今度は十一回呼吸する。


今、窓の外の景色ってどうなってるんだろう?

廊下側からこっそりと、誰かに見られてたりしない?

床がどうなってるか、今だけ無性に気になりますよ?


強烈な誘惑は、ちょっと目を動かせすだけで確かめられる。瞼が痙攣する。思いっきり目を閉じてしまいたくなる。

これ、思った以上に難易度高い。


――あとは十二回呼吸する間に、入った方とは別の扉から、出て。


ほほえむ唇の形が、記憶に浮かんだ。

今はもう遠く電車に乗っているはずの先輩の、吐息までもが聞こえた気がした。


――それだけで、あなたは幽霊になれる……


今までに、二十一回深呼吸している。二十二回目をやりながら、イスを引いて立ち上がる。呼吸は、意識的にやると、しんどく感じた。


やけに行儀良く並べられた机の間を通って、前の方の扉へ。

二回、三回――

順調だ、十分間に合う。

なんだ、余裕じゃないか。


少しだけ、周囲を見渡してみた。

窓からは月明かり、私の肌が妙に青白く見えておかしな気分になる。

教室は、それでも暗がりが多くある。机の群だけが、四角形に光を反射していた。

ムービーシーンだなと連想。きっといい感じのピアノがBGMとして流れてる。


思いっきり躓いた。

足がなにかに引っかかっていた。心臓が飛び出しそうになる。ピアノキャンセルするなと心の中で叫びながら、よろめく足を踏み出して転倒防止。しゃっくりみたいな呼吸を一回だけする。アクシデント発生のアラームが赤く脳内で回っていた。


机とかイスを引く動く音はしなかった、床を滑る物音もなし、というか足引きずるような動作をしたのに二度目はぶつからなかった。なぜ?


疑問が渦巻く、即座に否定。

確かめることは後回し。今は前だけを見るべきだ。呼吸回数は残り少ない――!


まったく、突発イベントとか止めて欲しい。

というか、これって何回目の呼吸?

数え忘れていたけど、たぶん六回目だか七回目、曖昧だ。


慎重に呼吸をしながら、今度こそ余所見をすることなく、扉の前まで到着。私が本気になればこんなもの。

ドアに手を掛け、引いた。


開かなかった。


「え……」


ガキリとした手応えだけが返った。

ざあ、っと血の気が引いた。

もう一度、今度は力の限りに。

びくともしない。


指を沿わせて確かめる、扉中心に鍵穴があった。

これ、閉まってる?

鍵がかけられてる……!?


先輩の言葉に、失敗した場合どうなるかについての説明がなかったことに今更気がついた。

というか、どうして私は事前にこっちの扉のチェックをしなかった……?

いやいやアホすぎでしょう、時間割の予定表見ずに記憶頼りで教科書入れて盛大に間違えたみたいなレベルだ。危険に対して想像力皆無のクズアホフヌケの、へいへいバカバカおっぱっぽぅッ!


自分をののしる意味不明の言葉はすらすら出てくる、この場を打開する案は完璧に出てこない。誰か今すぐ職員室に行って鍵を取って来い。私があと三回か四回呼吸する間に!


古ぼけた教室が、水を満杯にした密室に思えた。

息苦しくて仕方ない、今すぐ思いっきり、何も考えず呼吸したい。酸素を体内に取り込み、二酸化炭素を吐き出したい。なぜそうしないんだと、体の原始的な部分が訴える。


力の限りのドアを引く、びくともしない。

歯を食いしばる、涙がにじむ、武者涙だ。意味は私も知らないが!


ふっ……

と明かりが消えた。


明らかに教室内が暗くなった。

薄く足元にあった影が残らず暗闇に呑まれた。


たぶん、月明かりが雲に隠れたとかそういう理由、科学的かつ妥当な事情がきっとある。

決して、決して――

教室内の暗闇が実在感を増したわけじゃない。そんなわけあるか。


振り返って窓を確かめることはできない。さっきとは別の理由で。

雲隠れしてない月があったら、きっと致命的だ。

致命的な間違いを、私は今しようとしている。そういうことになってしまう。


「んっ……んん……っ!」


何回目の呼吸?

もう数えていられない。

この踏ん張る声は肺から空気を出し続けてやっているから、カウントしないで欲しい。


のっしりと、圧力を増した背後の暗闇にそう懇願する。

巨大な、得体の知れない獣が気配を殺し、じっとこちらを見つめている、存在しないはずの存在が肌のすぐ側にある。その獣の様子を脳味噌が勝手に想像する。そんなことを許可した覚えはない。なに一方的に幻を作り出してるんだ。どうせならジバ○ャンとか考えろ、そこにピカ○ュウとか登場させれば勝手に血みどろの戦闘開始すっから! 企業のカンバン背負った熾烈なシェア争いだから!


いけ、でんこうせっかだ!


マスコット争いの想像は、風の音ひとつであっという間に吹き飛ばされた。


「――ひっ!」


ガタガタと鳴る窓ガラスと家鳴りが私を包み、暗闇の獣を復活させた。

逃避して酸素を無駄に消費した私を、じっと観察していた。


ぺったんこになった肺が、再び膨らむ。

呼吸できる回数は、これが最後。誰に教えられなくてもわかる。


だって暗さが、さらに増していた。

扉一枚向こうの平穏とは異なる暗黒が、背後にあった。

期待・・が、私の背中を焦がしていた。


踏ん張る足の、ジャージの様子が目の端に映った。あかん。たとえここで超常的なにかに襲われデッドエンドだったとしても、これはダメだ。ジャージ姿とか論外だ。もっとふさわしい衣装があるはず。せめてフリル多めの白キャミワンピで手を打とうじゃないか。


「私、ヒロイン……!」


たぶん全人類が「そんなわけねえよ」と言いたくなるような顔で、扉を引く。鼻水塩辛い。だがカッコつけて生き延びられるか。悲劇のヒロインよりも他人を汚く蹴落として助かるモブ! 違う! それ死亡要員だ間違えた!

顔色は赤くなってるんだか青くなってるんだかわからない。


わずかに、扉に隙間が開いた。

鍵が緩んでる?

どうせなら一気に壊れろよぅ……!

めきり、と音がする。それを合図というように――


動いた、背後で。


脳味噌の錯覚なんかじゃない、幻聴でもない、風の吹く様とも違う。

たしかに耳が、教室内、すぐ側で、動くものの音を拾った。


そこにあったのは、問答無用のリアルだ。

想像の入る余地なんて微塵もない。


誰?

え、というか、どうして?

なぜどうして、こんな辺鄙な、誰もいない場所で――


――誰もいない。


その言葉が私を撃ち抜いた。

もちろん、普段であればここに人が入ることはない。その程度の見回りはしているはずだ。

だからこそ、ここは無人だ。人が来るはずがない。

でも――


先輩は今夜私がここに・・・・・・・・・・来ることを・・・・・把握していた・・・・・

出来るだけ他から・・・・・・・・発見されないように・・・・・・・・・させた・・・


私が旧校舎にいることを、他の寮生は知らない。知るはずがない。

他人の目を誤魔化しながら来ることが、幽霊化儀式の一部だった……


現実的な脅威が背筋を凍らせた。

お化けなんか目じゃない。


私は今、閉じこめられていて、すぐには逃げ出せない状態になっている。

場所は夏休みの校舎の、さらに奥だ。時刻は夜だ。

そして私は、恐怖で手足を震わせ、無理な呼吸のせいで体力を消耗している。


想像が走る。

町中の一角、帰省途中の先輩が、壁に背を預け、ごく自然に電話向こうの誰かに伝える。

私に伝えたときのように、あまく、ささやかに。


――ええ、そう……


無防備に、一人きりで、誰もいない場所へ来る日時と時刻を。


――あの子を、『幽霊』にしてあげて?


口元の、ほほえむ形が脳裏に浮かぶ。

いつも通りの軽い足取りで電車へと乗る足取りが見えるよう。

ぽつりと一人こぼす言葉。


だって、本人がそう望んでいるのだもの……



そうだ、私は知っている。

悪意と呼ばれるものに、たいした理由も意味も原因も必要としないことを。


「気に入らない」


ただそれだけで、人は人を陥れることができる。

最悪に突き飛ばすことを正しいことだと信じることができる。

簡単にできて与える被害甚大となれば、なおさらに……



扉を叩く、指がガタガタと震える、引くというよりもあちこちを引っ張る。

制約を信じて呼吸を止める。止めなきゃとっくに百回突破だ。


近づく。音もなく、近づいてくる。

もはや気配を隠しもしていない。

錯覚かもしれないという期待は粉砕される。


教室内の暗闇は、完全に意味を変えていた。

それはもう、方向性曖昧な怨念じゃなかった、この環境そのものが私を対象にした悪意だ。


あなたは、死んでもかまわない――


そう宣告された事実が手足から力を奪う。

生き延びる意思の萎縮が望まれている。

先輩の指示、だけど、そうは思えない、世界中がそう言っている。主語不明の囁きが飽和している。錯覚、そのはずだ、だけど本当に?


ふざけるな――!


歯を食いしばり暴れさせた指が何かをひっかけた。軽い手応え。カラカラと開く。すぐに全開にする。廊下からこぼれる薄暗がりが、今は戦場の平原に思えた。隠れる場所の無い広がりだ。


「あばっ!?」


あわてて外に出ようとして、つまずいた。

スライディングするように木製の廊下に衝突。ささくれが無かったのはたぶん幸運。けど、事態はまだ解決していない。


素早く両手を上げ、ファイティングポーズを取った。腰下ろした状態のままであることは些事。こちとら幽霊だ、頭突きして噛みついて目潰ししてくれる。マスコットキャラにできて私にできない道理があるものか――!


「え……」


そのとき、私の目に映ったものは二つ。


一つは、掃除用のモップだ。

斜めに挟まっていた。ほんの少し曲がっているのは、たぶん、力任せの無理矢理を誰かがしたからだ。


というか、このモップこそが扉が閉じ続けていた原因で、扉のもう片方が簡単に開いた理由で、私が蹴躓いた根拠だった。


そして、もう一つは――


「ニャー」


おいおい、なんだよ騒がしいな、我の眠りを妨げるとは何事か――そんな雰囲気でのっそりと出てきた猫だった。


私はとても怖かったけど、向こうもまた怖かったらしく、不審そうな様子で見つめて来る。

どうやら、最初に躓いた相手もコイツだったらしい。


「あー……」


その向こうでは、当たり前のように雲に隠れていた月がひょっこりと顔を覗かせた。

教室内に誰かがいたら怖いなと思うけど、あるのはイスと机の列だけ。


「……」


しばし考え、ゆるゆると握り拳の両腕を下ろす。

事態を認識するのに、いくらか時間が必要だった。


ええと、つまり、なにもかもは私の想像が暴走しただけで、悪者もいなければ犯人も幽霊もいなくて、せいぜいモップがあっただけ。それも、私が机の上にイス乗せといたレベルのイタズラの可能性が高くて――


「……先輩、なんか悪者扱いしてゴメン……」


とりあえずそう謝った。




 + + +




なんだか拍子抜けしてしまった『幽霊化儀式』は、もちろん、テンションだだ下がり。

なぜだかついてきた猫と一緒に寮へと戻る。途中、誰とも会うことはなかった。行くときはそれでもひやっとする場面があったのに、帰りはまったく平穏無事だ。

世の中そういうもんだよなぁ、と頷く。


購買に、キャットフードとか売ってるかな、売ってないよな、というか営業時間外だ。

あ、でもたしか、冷蔵庫にササミとか残っていたはず、コイツ食うかな?


自室に戻る。ルームメイトは帰省してるから独り占め。

茹でた鶏肉を、ついてきた畜生はむしゃむしゃ食べた。


油断しているところを撫でながら、さっきあったことについて思う。

とてもリアルな、本当だとしか思えなかった悪意。それは『実際には無かったとしても機能してしまう』。状況が噛み合えばそう錯覚する。


私が私を呪っていた。


もちろん、悪意全部が錯覚なわけじゃない。

だけど、そういう偽物も、中にはある……


「なんなんだろうね……」


ため息をつきながら猫を撫で続けた。

その後でベッドに潜り込んだけど、なかなか眠ることはできなかった。




翌朝、どうしていつも煩い寮監が起こしに来ないんだろうと思いながら起床する。午前十時。ぐっすりだった。朝飯はもう片付けられてるだろうな。

それでも一縷の望みを掛けて食堂へ向かう。

猫はついてこようとしたけど、廊下の熱気を感じ取った途端に引き返した。


途中、廊下で誰ともすれ違わなかった。


サンサンと太陽が照りつけた、だだっ広いだけの校庭は見ているだけで暑そうだ。

影を選んで歩いて行く。無駄に金がかかっているから、そこかしこでクーラーがついている。そのぶん熱気は排出される。外とか出歩く季節じゃない。どうしてこんな変なつくりにしてあるんだろ。


私以外にも、寝坊している人とか、なんとなく宿題広げてやってる人とか、適当に喋ってる人がたいてい食堂にはいるはずだ。

食堂のおばちゃんは、仲良くなればアイスコーヒーおごってくれるのだ。

だから、遅れて入っても、そこまで気詰まりにはならない。

よーす、とか言いながら食堂に入った。


誰もいなかった。


寮生全員が一度に会食できる広さは、今は大半が使われていない。

あんまり広すぎても気詰まりという意見を元に、パーティションで区切ってある。使うのは手前側だけ。

だいたい三十人くらいは座れる広さ。左手側、カウンターで区切られた向こうにはキッチンがある。


机に食べかけの皿があった。

キッチンでは湯気が立っていた。

アルミ缶が数個だけ置かれていた。

人の気配が、たしかにあった。


だけど、誰もいなかった。


頬がひきつっているのを自覚した。

区切られた向こうを、たしかめる。

電灯も消されたそこには、もちろん誰もいない。そもそもイスが上下反対に乗せられ使えないようになっている。


キッチン内は、やけに静かだった。

全自動皿洗い機だけが元気に活動している。

あちこちを見渡している合間に、コップと皿がそれぞれ一枚減っていた。


食べかけだった朝食は、いつの間にかその量を減らしていた。

そこかしこにあった缶が位置を微妙に変えていた。

まばたきする度に、イスの位置がズレていた。


――幽霊になってみない?


先輩の言葉が、あまく、鮮やかに蘇った。

悪意は、無かった。

だけど、善意もまた無かった。

先輩は事実だけを伝えた。


幽霊から見た世界は、一体どう映る?


ボンヤリと私はそれを考え、恐怖がじわじわと水位を上げるのを感じていた――

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