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願慶寺3

 本願寺蓮如ほんがんじれんにょ

 歴史を学んだ方々のあいだでは非常に有名な御仁であるが、織田信長などに比べたら知名度はいまいちなので、軽く経歴を紹介しよう。


 一四一五年四月一三日(旧暦の二月二五日)、当時、京都の東山地区にあった『本願寺』という寺で生まれた蓮如は、住職である父の跡を継いで同寺の僧となった。

 ところがこの蓮如、敵が多い多い。そもそも生まれからして母親が正妻ではない。お父ちゃんが手をつけちゃった女性なのだ。しかも、蓮如六歳のときに母は寺を出ていってしまう。代わりにやってきたのが、継母、こと正妻だ。

 その上、お寺の状態もひどかった。いまでこそ『本願寺』といえば京都でもっとも勢力のあるお寺であるが、当時は荒れ寺に近く、参拝者が「こんな寺に詣でてもありがたくもなんともない。別の寺にお参りしなおそう」ときびすを返してしまうような有り様だったのだ。

 そんな中でも、なんとか本願寺を盛りたてようと努力した蓮如。自分のうちよりちょっとでも徳の高い寺で出家し、貴族の籍にも入った。父と関東まで出向いては布教し、本願寺住職の地位を手に入れるために異母弟おとうとも蹴落とした(諸説あり)。

 ところが、こうまでして復活を願った本願寺は、当時、大勢力だった比叡山延暦寺から『仏敵』の認定を受けてしまう。宗旨がちょっとまずかったみたいね。しかも、ここでおとなしくしておけばよかったのに、この蓮如「じゃあ延暦寺には上納金を払わない」と全面対決。とうとう蓮如は本願寺の住職の任を解かれてしまう。

 その後に各地を流転し、流れ着いたのが福井県吉崎。山に囲まれた荒れ野原に吉崎御坊(当時は吉崎道場)を開拓し、遠く奥州からも人の来るような一大産業地に仕立てたのである。

 ちなみに、いま京都にある西本願寺と東本願寺は蓮如の子孫が作ったものです。

 蓮如の時代からは一〇〇年ばかり経ったけれども、この偉大なお上人は、ちゃんと本願寺を立てなおしたのだ。


 とまあそんな感じで、比叡山によって本願寺を出ていくように仕向けられた蓮如は、失意のうちにこの吉崎に辿りついたはずであった。ところが、このときすでに七〇に手が届こうかという老齢であった蓮如は、懲りずに地元の守護大名家の内紛に手を貸して、片方を倒してしまったのだ。

 蓮如自身はこの『手柄』によって吉崎道場の地位を向上させようとしたらしい。けれど、内紛のときに蓮如に力添えをもらったにもかかわらず、勝ったほうの守護大名家の面々は蓮如を放逐ほうちくした。蓮如のあまりにも強い影響力を恐れたんだね。

 そしてまた流浪の旅に出た蓮如は、大阪石山の地に本願寺を建てなおし、余生を送ることとなった。


 こうやってみると蓮如って権力者からものすごい弾圧を受けてるよね。

 そのせいか、後年の歴史では蓮如のことを『自らも強大な権力を手にしようとした欲ばり坊主』みたいなイメージで語ることが多い。権力者にとっては、蓮如がただ『本願寺の再興という目的を一心に果たそうとした聖人』になってしまうことは都合が悪かったんでしょう。

 でもね。

 蓮如が吉崎に道場を建ててから五五〇年。いまも蓮如上人の教えを忠実に説く願慶寺のご住職は、尊敬する開祖のことをこう言うんだな。

「蓮如は民衆を惑わせて吉崎に巨大な城塞を作ったと思われているけど、当時、この地を訪問した人々の多くは、ただ、楽しい話をするためにやってきただけなんだ。そして、そんな毎日がくりかえされる中で、次第に『自分たちで国を作ったらずっとこの楽しさが続くんじゃないか』と期待した。蓮如がしたことは、民衆の扇動ではなく、自治の概念を持たせることだったんだ」


 春になると桜が咲き乱れる吉崎道場の丘の上。粗末な敷物に農夫たちとともに座って歓談をする老いた僧侶。重税と抑圧に不満をこぼす民衆たちに、自らも権力者によってすべてを奪われた蓮如はどう答えたのでしょうね。

「理想の社会を作る希望をけっして忘れてはいけないよ。何もかもをなくした私がこの吉崎にたどりついたように、人には最後に憩う場所を見つけられる力が備わっているのだから」

そんな穏やかな声が聞こえてくるのは筆者だけでしょうか。


 滔々(とうとう)と語る願慶寺ご住職の話を聞きながら、私は一つの感触をつかんでいた。それは、ところどころにはさまれた彼の私見、

「福井は正しい歴史を教えない県だ。福井にも素晴らしいところはたくさんあるのに、多くの県民はそれを知らない」

という言葉から導いたものだ。


 権力者に抑えつけられることがあたりまえだった中世の農民たち。そのみじめな立場を奮いたたせた蓮如という存在。

 また福井県には他の地方にはない輝かしい実績がある。それは『天皇を輩出した県である』ということだ。この天皇の御名も歴史をかじった方なら聞いたことがあるだろう。継体けいたい天皇という。いまの皇室の祖は紀元前六六〇年に即位した神武天皇だとされているが、実は、この継体天皇の時代(六世紀初頭)に『継体天皇を祖とする一族』と入れ代わったとも考えられているのだ。詳細は、機会があれば『逸脱! 歴史ミステリー!』で取りあげてみたいと思う。


 蓮如と継体天皇。有史より室町時代まで中央集権の続いた(鎌倉時代を除く)近畿地方に、無名に近い福井から単身でやってきたと言われる超大なる偉人たち。

 だがそれは本当の福井を知らない私たちの思いこみのイメージだろう。

 江戸時代の物だと思われていた北前船は、吉崎道場建立のときにはすでに稼働していたことが住職の話から見てとれた。また日本海を流れる対馬つしま海流は、昨今、古代の日本の貿易路を研究する上で非常に注目されていると聞く。私たちが知る『日本の大陸交流の初期は遣隋使』という認識が改められる日もそう遠くあるまい。

 日本の歴史を形作ってきた古事記や日本書紀の史料学。福井、そしてこの地を取りまく北陸や東海地方の考古学が、その固定観念に一石を投じるのを、東海地方に住む筆者はとても楽しみにしている。地方の力は、社会が成熟していなかった時代でも、けっして小さくはなかったのだ。

 そしてそれは、未だに注目されずにとりのこされている四国や関東以北の街々にも当てはまる可能性が大いにあることだと思う。


 縄文、弥生を経て訪れた奈良の都文化、そして平安時代以降の京都の繁栄。

 該当の都市以外に住む人々にとって、歴史はなんとなく縁遠いものに感じてはいなかったでしょうか。

 けれど、人間の営みは、都とはまったく縁がないと思われていた地方でも活き活きと花開いていたはずだ。

 権力者の盛衰ではなく、美術的価値の高い構造物でもなく、人の足跡をたどる学問。筆者は歴史とはそういうものだと思っている。

 そして願慶寺の住職の意識もまた、私ときわめて似ているように感じている。


 自分の地元は正しい歴史を教えていない。

 私たちのような一介の民間人が、すでに学者が創りあげた研究結果に疑念をはさむことは、勇気の要ることだ。

 けれどご住職はそれを実践している。彼のもとには、私のような素人ばかりでなく、大学の専門教授や学識経験者も多く足を運んでいるらしい。そんな環境の中でも憶することなく『これまでの歴史は正しくない』と言いきることが、このユーモラスで個性的なお坊さんにはできるのだ。

 蓮如や継体天皇。きっと彼らも既存の価値観に対する反発を躊躇しなかったのであろう。だから敵が多く孤独に苛まれながらも意志を貫きとおせた。

 願慶寺を後にした帰りの車の中で、私がポツリと漏らした、

「あの和尚さんは蓮如に似てるね」

の一言に、助手席の高校生息子は、静かに大きくうなづいた。

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