願慶寺2
さてさて。拝観料も払わせていただいた。部屋もいい具合に温まっている。
いよいよ話が始まるとわくわくしながら出してもらった座布団に正座をした私+子ら二人。その向かい側に厳かに着座するご住職は、開口一番、こう言った。
「あ、姿勢は崩してね。僕も適当にだらけるから」
落語の高座のような席で足を投げだし、さらに目の前に置かれた文机にもたれかかる和尚。前回も書いたが、服装は普段着に黒のお袈裟を羽織っただけという独特のスタイルである。
筆者はいままでそこそこの数の寺社に詣でさせてもらった。その中には祈祷や説法を受けた施設もある。だが、
「膝を崩してもいいですよ」
と言ってくれるご住職はあっても、ここまで自ら実践されるお坊さんは見たことがなかった。
戸惑いつつも、それでも正座を維持した私のすぐ隣で、
「じゃあ遠慮なくー」
と小学生が住職を真似て膝を放りだす。その向こうでは高校生が、おずおずとではあるがあぐらに組み替えている。
内心で叱ってやりたかったが、そこはグッと我慢した。私はこいつらの母ではあるが、いまこの場を仕切っているのはご住職である。ボスが楽な姿勢を勧めているのに、中ボスがでしゃばるべきではない。
すると彼は、そんな私を見て、少し興味深そうな顔をした。
……うむ。理由はなんとなくわかる。母親というのは、子どもに対しては無意識に越権行為をしてしまうことが多い。この場合は、住職と子どもとのマンツーマンで成り立っている関係に口をはさんでしまうような。だがそれはやってはいけないことなのである。子どもが他人との人間関係を構築できる貴重な機会に、母という壁になって立ちふさがってしまう愚行なのだから。
そんな母の理念を汲んでくれたのか、住職は目線を主に小学生に向けながら、
「この二つの掛軸を見てごらん。こっちの鬼のような顔をしたお婆さんと、反対側の不安そうな顔をした女の人は、義親子なんだよ」
と語りだした。
住職の話術は説法のそれではなかった。真理を体得した修行者が教えを説く、といった、ある意味押しつけがましいありがたみはなく、まるで講談師のように、清や老姑の心情を同情的に綴っていく。
「清は寂しかったんだねえ……。お父さんと子どもがいっぺんに死んじゃったんだもんねえ……。あんたもお父さんがいなくなったら寂しいだろう?」
同意を求められた小学生息子は、
「え? ……た、たぶん……」
と迷いながら返事をした。そこは断言してやれよ。
さらに住職は高校生息子にも問う。
「清は自分が寂しいばっかりで、お姑さんの寂しさを忘れちゃったんだねえ。あんたのお母さんはお姑さんと仲良くやってるかい?」
「いいえ」
そこはぼかせっつーの。
住職の後ろには、真ん中に仏さまの絵をはさんで、右に鬼面をかぶった姑、左に行灯を持った清が並んでいる。姑はいかにも憎々しげで、清は清楚で儚げである。
だが話を聴き終わった息子たちは、住職の最後の質問、
「さて。ここで聞くけど、この物語、悪いのは清と姑のどっちだと思う?」
という言葉に、そろって同じ答えを返した。
「清」
「そうだね」
住職は微笑む。
清の夫と子どもは、そして姑の息子と孫は死んでしまった。生き残ったのは清と姑だけである。
姑は大事な息子たちを亡くしても清と生きていこうとした。でもそれがうまく行かずに清を憎んだ。一方で清は姑を顧みられなかった。死んだ夫と子どもに心を砕くばかりで、姑のことにまで頭が回らなかった。
「一緒に生きていかなきゃならないのは清と姑だからね」
と言うご住職の言外には『人は生きるために努力することが一番大事』という教訓が感じられた。
こんなに適当な格好をしているお坊さんに思わぬ徳の高さを見出した私たちは、すっかり住職になついてしまった。小学生は自宅にいるのと変わらぬくつろぎ方で寝転がり、私から足を、高校生兄からは頭をはたかれた。人見知りをする高校生息子は、ふだんは人前では表情が動かない。けれどこのときはよく笑った。
私はといえば、嫁姑問題にひたすらツッコミを入れられてバツの悪い思いもしたが、なんだか祖父に説教をされたようで、苦言ですら気分が良く感じられた。
だがこの和尚さん、やはり破格!
その片鱗を見たのは、いよいよ肉附面が取りだされたときだった。それまで私たちのほうに慈愛の表情を向けていた住職は、
「で、これが姑の顔に貼りついた面ね」
と無造作に背後から木箱を取りだした。そして再び私たちのほうへ向きなおると、何の勿体もつけずにあっさりとふたを開けたのだ。
呪いの面だと聞いていた私。だから、きっと面と対面するときには、入念に手を合わせ、真摯な気持ちで向き合わなければならないものだと思っていた。実際、子どもたちにもそう教えていた。ところがそんな心の準備をするヒマすらない。鬼さんのお顔は、盆に茶を乗せて供給されるがごとく、ふつーに目の前に差しだされたのである。
……しかも、心なしかうっすらとホコリまでかぶってるし……。
住職は、私たちによく見えるように、肉附面を文机に立てかけた。こちらに向かってカッと口を開けて睨む鬼女の面。
そのまま彼は雑談に入る。
「僕がこの寺を継いだときは、こんなものがあるなんてぜんぜん知らなかったんだよね。数年前に境内の一部が行政に取られちゃってね。そのときに庭にあった倉庫を壊さなきゃって言うんで開けてみたら、まあお宝がどんどん出てくる。そのおかげで大学の歴史の先生やら学者さんが頻繁に訪ねてくるんだわ」
「へええ~」
と感心しながら、私は内心焦っていた。
(それはすごい。すごいけど、そのお宝の肉附面、外気に当たりまくってますけど大丈夫?)
もはや呪いが怖いとかオカルト的にどうだとかの話ではない。こんな貴重なものを厳かさの欠片もなく気軽に見せてしまうご住職が、私には怖い。
が、このお坊さん、さらに驚く行動に出る。
「そういえば蔵からはこんなものも出てきてねえ。わかる? 江戸時代に旅人が持っていた宿場町一覧表。博物館にはあんまり出回らないようだよ」
そう言って出してくれたのは一枚の和紙。中央に横一本線が引かれており、その線の下に細かく宿場町の名前が書かれている。各宿場間の距離も一目瞭然だ。
「これって一般の人が持っていたものなんですか?」
思わず興味を惹かれて食いつくと、住職は……おそらく私に近づけてくれたつもりなのだろう、肉附面の顔にその和紙をぺろりと乗せて説明した。
「そうそう。大量に印刷して出回っていたものなんだよ」
ああ、肉附面が……っ!
ちょっとまじめに補足すると、住職の出してくれたその宿場町一覧表、たしか中山道(江戸五街道の一つ)のものだと記憶していますが、状態も非常によく、文字もはっきりと読み取れる希少な史料でした。
類似のものを資料館等で見たことがあるけど、ガラスケースに入ったそれらよりはるかに価値が高かったように思います。
なのに和尚さん、素手でひらひらと適当に扱ったばかりか、肉附面に触れそうになったときに思わず手を出して阻止しようとした私に、ぽんと無造作に渡してきたのだ。とうぜん私も素手! しかもお寺に入れてもらうときにお手水すらしていない!
「ご、ご住職~。私、手袋してないんですが~」
と半泣きで訴えると、住職は、
「ああ、いいよいいよ」
と。
貴重な史料にカビとか生えたらどうしよう……。
お寺さんというのは宗派や系列によって檀家とのつきあい方が異なるが、願慶寺のような浄土真宗のお寺はあまり気取らない風潮が見られる。筆者の実家は禅宗、しかも公家文化に根を張った臨済宗なので、この手のフランクな寺院に戸惑いが大きいのかもしれない。
まあそれでも願慶寺ご住職ほどの素朴な人柄は珍しい気がするが。
ともあれ、その住職のおかげで、ふだんは決して手にすることができない歴史的史料に触れることができた私は、表面上は恐縮しながらも、内心ではかなりテンションが上がっていた。許されるなら、そのまま江戸時代の旅装束に身を固めて、京都へ出発したかったぐらいだ(中山道は途中で東海道と合流して京都に至る)。
そして、こんなふうに『中世』と『現在』の垣根を限りなく低くした筆者に、住職は願慶寺の歴史をこう語った。
「このお寺に集った清のような人々は、権力者と自分たちとの垣根を取り去ることに成功したんだ。願慶寺のある場所は、昔は吉崎御坊と呼ばれた一つの街でね。何千人もの人々がここで出会い、情報を交わし、娯楽を共有して仲間意識を育てていった。だから吉崎御坊には、権力者の手の及ばない自治の概念が生まれたんだよ」
願慶寺の前身である吉崎御坊。全盛期には遠く奥州の地からも信徒が集まったと言われる巨大な僧坊。真ん前を横切る北潟湖は北前船(商船)の運ぶ豊かな物資を寺にもたらし、寺の建つ吉崎山の断崖は天然の要塞を形作る。
吉崎御坊を建てたのは一人の著名な僧侶であった。戦国時代、並みいる強豪の武将たちをも震えあがらせた民衆の反乱、一向一揆。その指揮を取ったとも言われる強大な指導者(異説あり)。
そう。吉崎御坊の創建者。それは、あの動乱の時代においても戦の暴力に屈することなく信念を貫いた、本願寺蓮如、その人なのである。
願慶寺を訪問してから時間が経っているので、筆者の記憶にも曖昧な部分があります。
作中では肉附面が木箱に収められていたような記述をしましたが、実際にはふたはなかったかもしれません。
また、肉附面は願慶寺の倉庫を壊す際に見つかったという書き方をしましたが、これも他の史料と混同している可能性が大であります。