願慶寺1
二〇一五年四月二日 天気 晴のち曇 福井県あわら市吉崎
妄想を爆発させつつも東尋坊観光を一時間ほどで切りあげた我が家一行は、本日の最終目的地である願慶寺に向かって車を走らせていた。時間は午後二時を回っている。
後部座席で居眠りをしはじめた小学生息子。それを見て、筆者と高校生息子は安堵の溜息を漏らす。
「いまのうちに寝といてくれてよかった。眠いまま寺で和尚さんから話を聞くなんてことになったら、こいつ、どんな暴言を吐くかわからんからなあ」
私にとっては最大のイベントである願慶寺参拝。それが小学生の、
「ねーねー。まだここにいるのー? 早く帰ろうよー。話つまんないよー。ねーねー」
という急かしで台無しになってはたまらない。
すると、自身も少し疲れた面持ちの高校生が、助手席でスマホをいじりながら、そっけなく答えた。
「そうなったら自分が弟を外に連れだすから、あなたはゆっくり語り合ったら?」
……やばい。この口調が出たときは、こいつもけっこう限界が近い。
そんな、一見リラックスしているように見えて密かに探りあいで恐々とした車内に、北潟湖の潮がかすかに香った。
吉崎御坊願慶寺。このお寺に筆者が興味を持ったのは、何を隠そう、呪われた鬼女の面があると聞いたからだ。『肉附面』と呼ばれるその道具は、名のとおり、人間の顔の肉が面の裏に張りついているという。
なぜそんな物が存在するのか。願慶寺の発行している『嫁威肉附面縁起』によると、この面についた肉は嫁を疎んじた老姑の皮膚だということだった。
詳細を語らせていただこう。
昔、願慶寺の近隣の村に与三次という農民がいた。妻、子も二人ある果報者であったが、残念ながら流行病で与三次と子らは死んでしまう。
寂しさに悩み苦しんだ妻の清は、心を慰めるために願慶寺に日参するようになる。
ところがこの清の所業を快く思わない者がいた。与三次の母である。自らも息子と孫を亡くした立場の彼女は、信心のおかげで晴れ晴れとしてくる嫁に、いつしか深い憎悪を抱くようになった。自分とともに悲しみに暮れるべき清が救われていく様に、激しい嫉妬を覚えたのである。
そしてとうとう姑は実力行使に出た。侘しい山中で『先祖から伝わったすさまじい形相の鬼の面』と『亡者を思わせる白帷子』を身につけ、嫁を脅そうと隠れ潜んだのだ。足場の悪い谷あいの道でそのような凶行に及べば、下手をすると清はパニックを起こして生命の危機すら迎えるかもしれない。けれど老姑の妄執はその懸念すら意に介さなかった。
昼の農作業を終え、暮れかかった深山を願慶寺に向かって歩く清。松のあいだを吹き抜ける甲高い風の音が恐怖を誘う。けれどお寺に着きさえすれば安らかで楽しい気持ちになれる。清にとっての願慶寺は、まさに希望のよりどころであった。
そこへ鬼女の面をかぶった姑が現れる。
清は驚き、悲鳴を上げて逃げようとした。面の下で老女はほくそ笑んだ。与三次たちの死を悼みもせずに遊び惚ける清に一矢報いてやった。姑の心中はきっとそんな歪んだ正義感に満たされたのだろう。
が。
常から信心を深くしていた清は、恐ろしさに震えながらも踏みとどまった。そうして大声で鬼面に向かってこう叫び説く。
「私を食べるのなら食べればよいさ! でも私が金剛さま(仏法の守護者。願慶寺の本尊とは異なるが、おそらく当時は信仰の対象だったのだろう)からいただいた信心は、たとえ食われたって消えやしない!」
そのまま六字名号(『南無阿弥陀仏』というお題目)を唱えながら、落ち着いて願慶寺に向かう清。
そうなると困るのは姑である。清はいまのできごとを寺で吹聴してくるだろう。急いで帰ってこの白帷子と面を処分しなくては、みんなに自分の企みがばれてしまう。
慌てふためき自宅に転がりこんだ老姑は、すぐに顔を覆っている面に手をかけた。ところがどういうわけだか面は外れない。まるで姑の醜い心と一体化したように、恐ろしげな鬼女は老女の顔にぴったりと貼りついてしまったのだ。
焦って号泣する姑。あまりに力を込めたために顔の肉がはがれる。痛みにのたうちまわるうちに、老女の心には絶望が込みあげた。これから受ける恥辱を思えば、この場で死んだほうがましなのではないか、と。だが自害を決心した瞬間、手足にしびれが走り、動くこともままならない。
そうこうするうちに清が帰り、鬼の面をつけた義母の様子に仰天する。姑は泣きながら清に許しを請うた。自分の浅ましい心根をどうか許してくれ、と。事情を知った清は自らも泣きながら不孝を詫びた。寂しいのは同じだったのに義母ばかりを放っておいてすまなかった、と。
そして二人で心を合わせて南無阿弥陀仏と唱えると、不思議なことに面はすぐさま落ちて、手足のしびれも消え失せた。
この話を聞いた当時の願慶寺の住職が面を引き取り、人の欲の恐ろしさを教える道具として、今日まで保管しているのである。
ネットで『肉附面』を検索していただくと、主に二種類の画像が引っかかる。筆者が訪れた願慶寺にあったのはその内の一つ、口をかっと開け、上目遣いに睨みつける光沢のある鬼面である。
なおこれは願慶寺の住職に聞いた内々の話になるが、別の寺に展示されているもう一つの土色の幽鬼の面は、願慶寺の肉附面の人気を取り込もうとした模倣品の可能性が高いとのこと。
「未だ係争中なんです」
とおっしゃる住職は、私たちがそちらの面の拝観に訪れていないことを喜んでくれた。
話を戻して。
願慶寺のあるあわら市吉崎に到着したのは午後三時であった。石川県との県境に位置するこの土地には、室町時代より浄土真宗の大きな寺があった。当時は吉崎道場と呼び習わされていたらしい。
肉附面の看板に案内されるまま、大きな駐車場に車を入れる。
が、ここで迷いが生じた。
駐車場の周りはお寺だらけ。しかもそのすべてに吉崎御坊やら吉崎道場を建立した創建者の名前が入っている。
「……どこに行きゃあいいんだろうね……。間違ったお寺に入って拝観料取られるのもヤだし……」
途方に暮れる筆者をよそに、しっかり寝て元気になった小学生と、さっさと帰途に着きたい高校生は、
「願慶寺をめざしてきたんだから、願慶寺に行けばいいんじゃないの?」
と、躊躇なく『願慶寺』という看板を目当てに細い路地に歩を進めてしまった。おっかなびっくり後ろをついていく。
ちょっと余談。
肉附面を見たくて願慶寺を訪問することにした私が現場で二の足を踏んだのには、二つの理由がある。
一つは、お寺さんの発信する情報にはわりと嘘が多いということだ。「ありますよ」と言われて見に行ったら「以前はあったんですけど」と言われたり「それはお隣のことなんですよ」と言われたりなんてことも珍しくない。
だがそういう場合でも、無下に「あ、じゃあいいです」とは言いづらいのが参拝のマナー。これが二つ目の理由。お寺さんは信仰の場であり、信仰とは縁を大事にする。だから、たとえ目的が叶えられない寺だとわかっても「ご縁ですから」と上がらせていただくパターンが往々にしてあるのだ。
肉附面を訪れた時間がもっと早かったのなら、私も迷いはしなかっただろう。間違って別の寺に入ったとしても、そこで参拝を済ませてから、本当の目的地に行き直せばいい。
ところが時刻は一五時過ぎ。お寺さんの多くは一七時には閉まる。下手に別の寺につかまって肉附面との対面が叶わないのはごめんだ。
両脇に石組みの塀が迫る細い路地階段を上る。視線を上げるとすぐに願慶寺の山門が目に入った。門には『嫁おどし肉附面拝観所』の文字が。
(よし、大丈夫そうだ)
と密かに安堵する。
山門に立つと境内は非常に狭い空間になっていた。小さな前庭と、お世辞にも豪奢とは言えない一般的な建物が迫る。なんとなく観光を前面に押しだした博物館ばりのお寺を想像していた私は、その普通の外観に拍子抜けした。檀家さんが濡れ縁でお茶でも飲んでいそうな雰囲気なのだ。
庭には普段着のお坊さんがいた。おそらくご住職だろう。メガネをかけた五〇代ぐらいの男性で、庭ぼうきで掃除をされている。
私たちを見つけると、住職は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「お参りですか?」
「あ、はい。お面を拝ませていただきたくて」
多少緊張していたせいもあって早口で答えると、彼は、
「じゃあ上がって」
と、こちらがびっくりするほどフランクな態度で、庭ぼうきを放りだして、講堂への段を上がりはじめた。まるで自宅に客人を招く様相である。
建物の中に入れてもらった私たちに、住職は、
「ちょっと待ってね。いまストーブに火を入れるから」
と準備をしだした。四月である。北陸はまだ桜が一分咲といった気候であったが、ストーブが必要なほど寒くはない。
「いえっ大丈夫ですっ。お気遣いなさらないでください!」
と、これも慌てて断ると、
「いや~、この部屋は冷えるんだわ~。温かくなってから話をするから待っててね」
との返事。意外と人の話を気にしないご住職である。
しかも、この後にたいそう面白い話を聞かせてもらったのだが、そのときの格好が、先ほどの普段着の上から適当に袈裟を羽織るといった、
「いいの? お寺さんとしてそれでいいの?」
的な姿であった。
重ねて説明すれば、拝観料五〇〇円がかかるという情報を前もって仕入れていた私が、
「お金を払いたいのですが……」
といつまでも催促しないご住職に申し出ると、彼は、
「いや~、悪いねえ。拝観料を取るのは決まりになっててねえ。じゃあ三人分いただいちゃっていいかなあ」
と恐縮する始末。
「も、もちろんです!」
こっちの返答も冷や汗モノである。
そんなこんなで、常識はずれなほど人のいいご住職との対面から始まった肉附面のお説法。
が、私はこのときまだ知る由もなかった。この僧侶がとんでもない知識人だということを。
次に続く~。
願慶寺の住職さんとの会話はうろ覚えです。
たぶんこんな感じだったかと……。