表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/11

東尋坊2

心霊写真……かもしれない挿絵が最後のほうにあります。お気をつけて~。

 『日本有数の自殺の名所』。嫌な称号をもらってしまった東尋坊だが、実際の自殺者はどれぐらいいるのだろうか。

 一昨年の二三年度までの一〇年間を見てみると、認知件数は一八二人。つまり年平均で一八人ぐらい。同じく自殺場所として有名な富士の樹海が年間五〇人を超えていることに比べると、意外と少ない印象を受ける。

 とはいえ、私たちが訪問したこの日も、地元の消防士の方々が集まっていた。


挿絵(By みてみん)


 遠目で見たために声等は聞こえなかったのだが、高校生の息子が驚異的な聴力で拾った一言によると、彼らはいまから『海面検索』を行うらしい。

 そっかあ……。そうだよね。夜にこっそりとやってきて飛び降りてしまったら、海面に上がってきてもらうまでは、もう見つけようがないもんね……。

 ちなみに『志願者』救済の電話ボックスというものもある。通称『救いの電話』。


挿絵(By みてみん)


 常に小銭が置かれているこの電話ボックスは、死にゆく人間に対して『最期に親しい人に電話ができたら、死ぬ気がなくなってくれるかもしれない』という願いがこもっている。

 内部にはいろいろとメッセージも貼られているが、筆者は基本的に墓やこの手の業が深い建築物を明瞭に撮らない。失礼に当たるような気がするからだ。というわけで不鮮明で申し訳ない。


 人はなぜ自ら死のうとするのか。

 私自身、そういう経験がないわけではない。高いところから飛び降りようとしたことはないが、入水や首吊りなどは魅力的に感じた。この心理下にあるときは怖さを感じない。強い開放感にひたすら憧れるだけだ。

 ただ、そんな私でも……いや、そんな自分だからこそわかる。『死のうとすること』と実際に『死に向かって行動すること』の差は大きい。死にたいと公言することはできる。死ぬための準備をすることにも抵抗がない。だが、水に浸かり、あるいはロープに首を通し、または崖から飛び降りる瞬間まで、揺るぎなく『自分は死ぬのだ』と覚悟し続けることは難しい。

 自殺を遂げた人たちというのは、本当に、最後の最後まで死ぬ意志を持っていたのだろうか。もしかしたら、途中で後悔をしてやめようとしたけれどもすでに手遅れだったというだけではないのだろうか。


 ある精神科医の統計によると、人間がもっとも辛いと思う状況は『孤独に陥ったとき』なのだそうだ。

 端から見ると、自殺の要因というのは『金銭の不安』や『健康の不安』が大きいように感じる。けれど、おそらくそれのみが原因になることは少ないのだろう。金がなくて絶望すると言っても、自殺者は少なからず交通費や旅費を使って死に場所までやってくる。また体の不自由を嘆いたとしても、いまは五体不満足でも生きていける時代だ。『一般的な蓄えがない』『みんなと同じように動けない』。そんな焦り、そしてそこから誘発される寂しさこそが、人を死に追いやってしまう本当の原因なのではないのだろうか。


 ここで一枚の写真を出したいと思う。


挿絵(By みてみん)


 少しお手数ですが、この画像を、前回に検索していただいた『東尋坊 模型図』と照らし合わせてみてくれないでしょうか。

 画像の中央は海が入り組んで湾になっている。それを挟んで右側の岩場が『千畳敷』のある場所、そして左側が前回の更新分で『自殺に適した崖』と写真を紹介したところです。

 よく見ていただくと、その『自殺用の崖』のほうに人が一人うずくまっています。拡大図がこれ。


挿絵(By みてみん)


 実は、この人物のいる岩場は、他のところと違って、降りるための遊歩道がないのです。模型図を検証してもらうとわかるのですが、階段上になった道がついてないですよね?

 私の記憶としても、ここに行くには、崖をよじ登って下から這い上がるしかなかったんです。

 この写真は、もちろん、そういう方法であの岩場に辿り着いた人を偶然写したものにすぎないのかもしれません。むしろそっちのほうが現実的だとも思う。

 ただ……なんだろう……。前話でも伝えさせてもらったのですが、『彼』のいる岩場を隣の千畳敷から見上げたとき、どういうわけだかとても寒くなったんですよ。震えが止まらなくなるぐらいにね。


 人が孤独で死ぬ生き物だとしたら、死んでしまった人たちは孤独から解放されたのでしょうか。

 死ぬ瞬間まで寂しさと戦い、けれど飛び降りた直後はきっと恐怖でいっぱいになっただろう自殺者たち。そんな彼らは、自分の命の火が消えたことを満足できているのでしょうか。

 私が幽霊というものと初めて遭遇したのは小学生のときでした。深夜の庭先から読経が聞こえてきてビビったビビった。

 それから数十年、相も変わらず死んだ方々の訪問を受ける自分を冷静に分析すると、これはもしかして『そういう役目に従事しろ』ということなんじゃないか、と受け止め始めています。

 死が安寧にならなかった魂たちは、きっと死んだあとでも寂しいままだよね。そんなときに愚痴でもこぼせる相手があったら、ちょっとは気が晴れるんじゃないんでしょうかね。


 さて、ちょっと湿っぽい章になってしまいました。ごめんなさい。

 次は現在の東尋坊のことを少し書きます。昨今のここは、なんと『恋人同士が愛を深め合う岬』なんてリア充なジンクスが生まれているのですよ。

 次回で東尋坊編は最後でっす。ちょっと長くなってしまいましたね。今度は明るく行くので、最後までお付き合いいただければ幸いです。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ