大黒屋旅館2
こうして一人の念願と三人の戸惑いを乗せた旅行計画は進行した。
まず大問題は時間の捻出だった。筆者が病院にかかったのは八月一〇日。この日は丸一日つぶれてしまったので出かけることは不可能である。
そして翌日の一一日は、夜に夫の飲み会が入っているので、当然、無理。では翌日の一二日に出かけてはどうかというと、一三日から一五日まで高校生息子の旅行が入っているので泊まりは無理。
いっそ高校生息子に別行動をさせるか、との案も湧いた。だがここで第二の問題が浮上する。一四日に私の母の実家に里帰りしなくてはならないのだ。だとすると、私と夫と小学生息子に残された日程は、一二日から一三日、もしくは、一五日から一六日となる。だが一三日の早朝には高校生息子を車で最寄りのJR駅まで送っていかねばならない。一五日の夜も然り。やつを最寄り駅まで迎えにいってやらねばならない。
「……もういいかげんあきらめたら?」
と苦笑する小学生息子に、
「まだ詰んでないから」
と薬を口に放りこみながら答えた筆者は、そこである名案を思いつく。
そして、高校生息子を呼びだし、こう聞いた。
「旅行の帰りに豊橋駅に来れる? そしたら迎えにいってやれる」
詳細はこうである。
一三日から東京に遊びにいく高校生息子が帰るのは一五日の夜中。
私たちがすべての予定を終えてフリーになるのは一五日と一六日。
だから、一五日の夜に豊橋市の大黒屋旅館に泊まれば、JR豊橋駅までやってくる高校生息子を捕まえることができるのだ。そしてめでたく家族四人そろった『一泊旅行』が叶うというわけ。
高校生息子が本来帰るはずだったJRの駅は、豊橋駅を通りすぎてさらに先に進んだ大型駅だった。つまり、私が豊橋駅で息子を拾うとすると、奴は豊橋駅で途中下車することになる。
友人との行動なので、息子は、
「一人だけ途中下車はできない」
としぶったが、けっきょく、本来の駅までみんなで帰ってから一人で豊橋駅まで戻ってくる、ということで決着は着いた。息子は乗り鉄なので、その程度の手間は造作もない。
そうして、やっと、やっと、私は念願を果たすことができた。
愛知県に住む私が同じ愛知県の宿に泊まるという愚行極まりない旅ではあるが、わずかでも日常を離れて癒やしの空間に飛びこめるこの時間は、何者にも代えがたい充足感をもたらしてくれるだろう。
ではその演出を手伝ってくれた大黒屋旅館を紹介する。
あ、特別に怖いものではないけれど人形が飾ってあるので、苦手な人は飛ばしてくださいね。
写真加工でできるだけ本物の雰囲気に近づけてみたが、伝わるだろうか。
最初にフォローすると、確かに一〇〇年間絶えず手入れをされた感のある綺麗な宿だった。板張りの廊下は光沢を放っているし、畳にもシミ一つない。
ただ、建設当時の風土をもろに反映している造りは、強い閉塞感をも与えた。低い天井、むきだしの柱。ふすまなどの建具でしきられた壁は、その向こうの別の宿泊者の存在を否応なく伝え、無用な緊張感をもたらす。
そして宿のすぐとなりにはJR東海の新幹線の線路が走っている。大黒屋旅館の二階の高さと見事に一致した高架は、振動つきの大音響を一五分間隔で届けてくれる。正直、新幹線がこんなに高密度で発車されているとは知らなかった。
「……やかましい」
一番先に音を上げたのは他ならぬ私だ。
そんな微妙なくつろぎ空間を、半ば、
「ここを選んだのは自分だから」
という義務感で満足に変換していた筆者。
だが大黒屋、恐るべし!
それはトイレを探していたときだった。
この宿には部屋に風呂トイレはない。風呂は建物の奥まったところに『家族風呂』と『個人風呂(ふつうの半坪の浴室)』があり、それを他の利用者の有無を見ながら使用する。トイレは昔ながらの和式のものが客室階に設えられている。
まあこの程度は『趣』として捉えてもよかろう。
……と思いながら筆者がトイレを出て周囲を見回したとき、あらぬ物が目に入った。
ちっちゃい冷蔵庫。
古ぼけたソファが並ぶトイレ横の暗いホールに、それはちんまりと置かれていた。大きさは五〇リットルほど、一般家庭の四分の一ぐらいの容量のものだ。
そして冷蔵庫横には紐で結われた油性マジックが転がっていた。
「……」
そっと戸を開けてみる。中には飲みかけのペットボトルが一本。側面には名前らしき文字が書かれている。
そこで私ははっきりと理解した。
ここは、名称こそ『大黒屋旅館』だが、中身はユースなのである。いや、宿の玄関先で出会った宿泊者らしい土建屋風のおっさんたちのことを踏まえると、旅行者を対象とした共同宿泊所のユースというより、職人たちのための飯場と言ったほうが正しいかもしれない。
日常の家事育児仕事雑事から逃れて上げ膳据え膳でのんびりしようとしていた私は、よりによって、仕事人御用達の低層なお宿に泊まってしまったのである。
ちなみにこの大黒屋、アメニティの類はいっさいない。くしやドライヤーなどといったサービス品はもとより(そもそも鏡台も洗面台もない)、ふつうの旅館なら必ずあるはずのタオルや歯ブラシまで皆無なのだ。
布団は部屋の隅に積まれていたものを自分で敷く方式。寝間着はかろうじてあったが、数もサイズもバラバラ。客室担当員さんのやる気のなさを見事に具現化している。
「飯場かあ……」
とポツリと愚痴りながらトイレから戻った私。
……だが。
人間の順応力は凄まじいものだ。数十分後には、私たち家族は、部屋中に敷きつめた布団に転がりながら、めいめいスマホゲームやテレビなどに興じていた。
新幹線の醸しだす大音響と振動にも、
「いままでの宿泊者が我慢できてたんだからぜんぜん平気だよね―」
と意にも介さなくなってしまった。
風呂に入るころにはすっかり馴染んで、宿の人の、
「タオルはお風呂場の棚に置いてあるから勝手に持っていって」
の指示に、
「よかったね。どこかで買ってこいとか言われなくて」
と笑顔で対応できるようになった。
ではここで、この個性的な宿にお世話になって約二ヶ月たったいま、改めて大黒屋の評価をさせてもらおうと思う。
………………。
………………。
………………。
…………三五点。
少なくとも、目の肥えた旅行者が利用する宿泊サイトへの掲載は、まだ早い気がしてならない……。
さて。
今回の旅行記、突発的かつ衝動的な計画であったために、いつものように歴史的なみやげ話はない。大黒屋旅館の愚痴に終止してしまっている。
だが実はホラーなネタはあるのだ。それもとびっきりなのが。
ただ、その話は、申しわけないが、面白おかしく扱うことができない。理由は第二次世界大戦の犠牲者に関わるものだから。
筆者のスタンスとして、心霊系の話は『亡くなった方に敬意を払って掲載する』という姿勢を取っている。そのため、いままでも過剰な煽りや否定的な言葉を排除してきたつもりだ。けれど今回のことは、その姿勢を持ってしても掲載をためらうレベルなのだ。
その話は未だ進行系で我が家に影響を与えている。いや、特に怖いものではない。だが私の伝え方しだいでは読者に恐怖を与えてしまうだろう。
そんなわけで、いつかはこの事象をみなさんにもご紹介したいと思うが、少し時間をいただきたい。御霊に失礼にならないように、遺族に失礼にならないように、そして読んでくださる方に軽んじた気持ちを抱かせないように、書き方を試行錯誤してみたいので。
では、その代わりと言ってはなんだが、この旅行の夜に体験した不可思議譚を次章で展開させてもらおう。
ライトに書いているが、けっこう怖い話だと思うので、楽しみ&心していただけるとありがたい。