最終話 幸せな時間たち
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「今岡さん、ひとつ訊いてもいい?」
「ん? いいよ」
展望スペース沿いを旅館の方へ向かう途中、隣りを歩く今岡さんに、麻耶は疑問に思っていたことを切り出してみたの。
「どうして急に帰国することになったの? それに、仙台駅から直接秋津温泉に来るなんて――麻耶がここにいること、知っていたの?」
麻耶の質問に怪訝な表情を浮かべると、今岡さんは足を止めた。
ちょうど展望スペースの真ん中あたり――ライトアップされた秋津大滝を正面から見ることができる場所で。
「実は、僕も腑に落ちないことがいくつかあるんだ――まず、三友物産の退職の話と家内との離婚の件は、二、三ヶ月前から精力的に話をしてきたけど、ほとんど進展がなかった。どちらも義父が口を挟んできて、僕の言うことなんか全く聞いてもらえなかったからね。弁護士とも『これは法廷で争わないとダメだ』なんて話をしていて、実際に訴訟の準備を始めていたんだ。それが、ここ一週間で話がトントン拍子に進んだ。
三日前に退職の件も離婚の件も合意に至って、僕は晴れて出国できることになったんだ――退職の方は、義父が公私混同して感情的になっていたから、離婚の話が収まれば上手くいく感触はあった。
結果として、僕の退職金を含めて全財産を家内への慰謝料に充てる提案をしたのが良かった。それを契機に話が前進した気がする。でも、我ながらよくあんな思い切ったことを言えたと思うよ。家内はプライドが高くて気性が激しいから『金を積んで手を切ろうとしている』なんて機嫌を損ねられたら終わりだからね――《《見えない力》》が僕を後押ししてくれたのかもしれない。そんなわけだから、今の僕は《《真の無一文》》だ……あっ、『じゃあ、結婚しない』なんて言わないでくれよ」
「どうしようかなぁ……後出しジャンケンでそんなこと言われてもなぁ……」
流し目で今岡さんのことを見ながら、麻耶が意地悪な言い方をすると、想定外のリアクションだったのか、今岡さんは少し焦ったよう顔をする。
「わ、わかった! 『ほっと・SPRING・れすと』の特製プリン・ア・ラモードを奢る! 《《なけなしの》》金で! だから――頼む!」
今岡さんは両手を合わせて麻耶に懇願するようなポーズをとる。
そんな今岡さんの切実な様子に、麻耶は思わず噴き出したの。ただ、麻耶も鬼じゃないから、それで手を打ってあげることにした。
「それから、仙台駅から直接ここへ来たことについては――成田で飛行機を降りたときから決めていた。もちろん麻耶が秋津温泉にいることを確認したわけじゃない。でも、なぜか『一秒でも早く行かなければいけない』って思ったんだ。
確かに『去年の今頃、麻耶といっしょに紅葉を見に行ったよなぁ』なんて思ったことはあった。でも、仙台に着いたら、まず麻耶のマンションを訪ねるのが普通だ。いきなり秋津温泉に来るのは、おかしな行動だよ。自分のことながら理解に苦しむ」
話を聞く限り、今岡さんが秋津温泉に来たのは自分の意思じゃないみたい。まるで、麻耶が来るタイミングに合わせて、《《何か》》が今岡さんをここへ連れてきたような気がしてならない。
「――秋津流水館のフロント係と話をしたら、麻耶が二十分前に大滝の方へ向かったことを教えてくれた。それで、急いで後を追ったんだ。でも、驚いたよ。麻耶が崖に向かって歩いて行くんだから。名前を読んだけど滝の音で聞こえないみたいだったから、慌てて飛んで行って、無我夢中で捕まえたんだ。本当に危機一髪だった。寿命が縮んだよ」
あのとき今岡さんの声が聞こえたような気がしたのは、空耳じゃなかったんだ。それなのに、麻耶ったら「あの世から今岡さんが呼んでいる」なんて思い込んで、逝っちゃいそうになった――麻耶の口から「くすっ」と笑い声が漏れた。
「笑いごとじゃないぞ。本当に危なかったんだからな。麻耶がおかしな行動に出ないように、しばらく僕が二十四時間体制で監視する。わかったな?――具体的には……住むところがないから、麻耶のマンションに厄介になるってことだけど」
最後の言葉を聞いた瞬間、それまで神妙な顔で聞いていた麻耶は、思い切り噴き出したの。すると、釣られるように今岡さんも声を上げて笑った。
「――でも、これからは、他人の目を気にせずに麻耶といっしょにいられるから、秋津温泉に来ることもなくなるかな……麻耶もわざわざ『三十分前』に来る必要もないってわけだ」
今岡さんがサラリと言った言葉に、麻耶は思わず目を見開いたの。だって、驚きを隠せなかったから――どうして麻耶の『幸せな時間』のことを知っているの? 誰にも話したことがないのに。
「三十分前? 何のこと? 意味がわからないんだけれど」
麻耶はとぼけた振りをして訊いてみたの。
すると、今岡さんは悪戯を成功させた子供みたいに、ちょっぴり得意げな表情を浮かべた。
「麻耶は、いつも待ち合わせの三十分前に『ほっと・SPRING・れすと』に来ていた。窓際の二人掛けの席に座ってカプチーノを飲んでいた。そして、《《たぶんだけど》》、僕の姿を見つけたら凄い勢いで待ち合わせ場所に向かって走った――違う?」
「ど、どうして? どうして知っているの?――麻耶が三十分前にあそこにいたこと」
まるで麻耶の行動を一部始終見ているような言い方に、反論のしようがなかった。
あっさり白旗を上げた麻耶に、今岡さんは穏やかな笑みを浮かべたの。
「それはね、僕もいたからなんだよ。あの店に――《《四十分前から》》」
「えっ――そうなの!? お店の中にいたの!? 全然気がつかなかった……どこにいたの?」
「奥に四人掛けのテーブルがあるだろう? あそこの一角さ。ちょうどキミの位置からは死角になっていたかな。ただ、僕の方からは、キミの姿を斜め後ろから見ることができた。
初めてキミと待ち合わせたとき、早く着き過ぎたからあそこで時間を潰していたんだ。そうしたら、三十分前にキミが入ってきて窓際の席に座った。そのときから、僕は待ち合わせの四十分前に四人掛けのテーブルに座って、キミを待つことにしたんだ――実は、マスターとも結構仲良くなって、あそこを僕の指定席にしてもらったんだ」
信じられなかった。まさか今岡さんが麻耶と同じことをしていたなんて。しかも、麻耶のおかしな行動を一部始終見ていたなんて――でも、今岡さんは何が楽しくてそんなことをしていたの? 声を掛けてくれたら、もっと早く会うことができたのに。
「今岡さん、どうして声を掛けてくれなかったの? 麻耶が一人でいるのを見て、何か面白いことでもあったの?」
「うん。あった――あれ? ひょっとしたら、キミは気づいていないの?」
今岡さんが意味ありげに尋ねてきたけれど、麻耶には思い当たる節がなかった。
きょとんとした表情を浮かべる麻耶に今岡さんは続けたの。
「――あのとき、キミはとてもうれしそうな顔をしていた。いつものクールなキミとは別人だった。幸せそうな笑顔を見ていたら、僕もすごく幸せな気分になったんだ。僕の存在が少しでもキミの役に立っているんだって思えてね」
そうだったんだ。「あの麻耶」が笑っていたんだ。全然気がつかなかった。本当にうれしかったんだね。麻耶――「幸せな時間」は決して偽りの時間なんかじゃなかった。
それは、「麻耶」と「今岡さん」、そして、「もうひとりの麻耶」と「もうひとりの今岡さん」が、それぞれ幸せを感じていた時間だった――良かった。本当に良かった。
そう思ったら、麻耶は今岡さんの温もりが欲しくなって、胸に顔を埋めるように抱きついたの。そして、今岡さんの右手を繰り寄せると、自分の頬にそっと当ててみた。
「麻耶――違和感がないね」
耳元で優しい言葉が魔法の呪文のように囁かれた。
左手が麻耶の細い腰をスッと抱き寄せる。
驚いて顔を上げると、穏やかな眼差しが真っ直ぐに麻耶に向けられていた。
静かに瞳を閉じると、ライトアップの白い光を浴びた二人の姿は一つの眩いシルエットに変わる。
そう――まるで、あのときの「幸せな時間たち」と同じように。
おしまい
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
心より感謝いたします。




