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愛の讃歌  作者: 石原裕
第二章 掛け替えの無いもの

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第5話 「もう一度やり直したいんだ、お前と」

 亮治はぼんやりともの思いに耽った。

思い浮かんだのは結衣と暮らし始めた頃のことだった。或る夜、亮治が戻って来ると、マンション横の細い路地に結衣が蹲ってハンカチを顔に宛がっているのを見た。薄暗い闇の中に小さく蹲って動かない結衣の姿を見ている内に、亮治は胸が塞がれる気持に襲われた。だが、亮治が近づいて行くと結衣は素早く顔を拭って立ち上がった。そして、黙って亮治の顔を見上げたが、その眼にはもう哀しみの色合いは無く、挑むような激しい光が亮治をたじろがせた。ただ自分一人のみを信じて励まし、これまで生きて来たのだな、とその時、亮治は思った。お前には俺が付いて居るぞ・・・亮治は自分のその気持をどう伝えたら良いのか判らずにただ結衣と向かい合ったままじっと立ち続けたのだった。

 亮治は今、一人になって見て、自分が結衣に何をしたのかが解かって来た。

亮治は不意に聞き耳を立てた。雨が降っていた。亮治は立ち上がり、雨に濡れる夜道を遠ざかって行く結衣の姿を思い描いた。彼は雨傘を掴むとさっと外へ飛び出し、ガレージへと走った。

 

 街には突然の雨に驚いた人影が右往左往していた。駅への方途は二つだった。亮治は先ず近い方の私鉄駅へ車を走らせた。道は一本道だった。丹念に店先や軒下を覗きながら進んだが、結衣の姿は見当たらなかった。彼は脇道を通ってもう一方のJR駅へ向かった。走っている内に雨はぱったりと止んだが、亮治はそれにさえ気付かなかった。JRの駅は急な登坂の上に在るが、その勾配に差しかかった時、彼は漸く目指しているものを捜し当てた。コロの着いたスーツケースを引き摺り、ロングスカートを揺さ振って結衣がゆっくりと坂を上っていた。

亮治は前へ廻って行く手を塞ぎ車のドアを開けた。

「傘を持って来たんだが、必要無かったな・・・乗れよ」

結衣の驚いた顔が亮治を見詰めた。

「憐みや施しなら要らないわ」

そう言って結衣はまた駅の方へ歩き出した。亮治は車を道端に停め、慌てて結衣を追った。亮治が追い付いて結衣の肩に手を架けようとした時、彼女が振り向いて言った。

「あなたは一線を越えてしまったわ」

「一線?」

「誇りよ」

「誇り?」

「そう、誇りよ。男の誇り、女の誇り、人としての誇り・・・人間は誇りを無くしたらお終いよ、もう」

「俺は別に・・・」

「あなたは親方のお嬢さんを愛していると思っているかも知れないが、それは、唯、“花簪家”の親方の椅子に眼が眩んだだけよ。そんなの、邪道だわ。意地も矜持も無い不甲斐無い生き方よ」

「違うんだよ・・・」

「男と女には“釣り合い”が有るわ。釣り合って、段々に似合って行って、その内にその似合いが二人で生きる相棒になるのよ。あなたにはその希望が持てないわ」

結衣はまた駅の方へ向かってさっさと歩き始めた。

その背中へ亮治が叫んだ。

「解かったんだよ、俺にも!生きるって何が大事なのか、かけがえの無い大事なものが何なのか、解かったんだ、やっと!だから戻って来てくれよ!もう一度やり直したいんだ、お前と。なぁ、結衣!」

 駅前の円いロータリーの端で、不意に、結衣が両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。亮治が近づくと結衣は顔を挙げて亮治を見やったが、その顔は淡い街燈の光の下で白く濡れて光っていた。亮治は両手で結衣の肩を抱き上げ腕の中へしっかりと包み込んだ。結衣はしゃくり上げていた。亮治は彼女が泣くのを初めて見た。

明日、「花簪家」を辞めよう、何処か他の店でやり直そう・・・そう思うと、工房も、待合で待って居るかも知れない麗華も、遠い風景のように小さく見えた。

やっと、結衣が顔を上げた。その眼にはもう涙は無かった。亮治は、艶やかな良い貌だな、と思った。


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