ベアー・オブ・ザ・デッド
クマは雨で泥濘んだ地面を踏みしめ、草木を避けて歩いた。時折、立ち止まって辺りを見回したが、木の実の類いは見当たらなかった。
クマはため息をつくと、山腹から街を見下ろした。人里に行けば、餌は見つかるだろうか。あまり気は進まないが、致し方あるまい。
クマは泥濘んだ地面に足を取られないように、気をつけながら、山道を駆け抜ける。
人里に降りたクマは早速、餌を探そうとしたが、人の気配がしないことに気付いて動きを止めた。
見える範囲には誰もおらず、車がいくつか放置され、辺りにはゴミが散乱し、窓ガラスが割れている建物が多かった。
クマは不信感を抱き、警戒しながら、ゆっくりと車に近付く。フロントガラスに血痕らしきものが付着し、ヒビが入っていた。中には誰も乗っていない。
人間はいったいどこにいるのだろうか? なぜ、この街は荒れているのだろうか?
考え込んでいると、建物の陰から何かが飛び出してくるのが見えた。
「うぅー」
飛び出してきたのは十代と思しき女の子だったが、生気は感じられなかった。肌がドス黒く変色し、口からは血を垂れ流していて、腐臭を放っていた。
自分の知っている人間の風貌とは異なる雰囲気を醸し出していて、クマは僅かに首を傾げる。
女の子は呻き声を上げながら、襲いかかってきた。クマは後退り、女の子を避けた。襲われているとはいえ、こんな小さな女の子を傷付けたくはなかった。
女の子の呻き声に引き寄せられたのかは定かでないが、路地裏から肌がドス黒く変色した老若男女がぞろぞろと現れた。
逃げる暇もなく、あっという間に囲まれてしまった。力は自分の方が強いだろうという自負はあるが、さすがに数が多すぎて対処しきれない。
人間の住処にお邪魔させてもらっている手前、強行突破するのも気が引ける。できれば、誰も傷付けたくはない。
どうするべきかを悩んでいると、空気を劈くように銃声が鳴り響き、少女のこめかみから血が噴き出した。
クマは目を見開き、銃声が聞こえた方角に視線を向ける。銀髪の女性がライフルを構えて車道に立っていた。吊り上がった瞳で老若男女を睨み付け、銀髪のポニーテールが風で揺らいでいる。
「何で襲わないのかは知らないけど、そいつらは人間じゃなくてゾンビなのよ」
「グルルルル(だって傷付けたくなかったし)」
「傷付けたくないですって? そんな悠長なこと言っていたら、ゾンビにやられるわよ」
「ガオッ(言葉が分かるのか)?」
クマは驚愕に満ちた表情を浮かべて銀髪の女性をジッと見つめた。
「私は動物の言葉が分かるのよ。それより、今はこの状況を切り抜けるのが先よ」
銀髪の女性はそう言いながら、ライフルで次々と肌がドス黒く変色した人々――ゾンビを撃ち殺していく。脳天を撃ち抜かれたゾンビたちはアスファルトに倒れ伏す。
クマはゾンビの包囲網から逃れ、銀髪の女性に駆け寄る。
「グァルルル(背中に乗れ)」
クマは銀髪の女性が背中に跨がったのを確認すると、全速力で走り出した。
街中を駆け抜けながら、チラリと振り返ると、ゾンビの歩みは遅かった。見る見るうちに、ゾンビの姿は見えなくなっていく。
「私は木波湊よ。あっ、そこの路地裏に入って」
銀髪の女性――木波に従い、クマは路地裏に入っていく。ヒビ割れた建物の間を進んでいくと、突き当たりに鋼鉄の扉が見えた。
木波が背中から降りると、鋼鉄の扉をゆっくりと横に引く。鈍い音を立てて開いた扉の先には、地下へと続く石段があった。
「さあ、入って」
クマは促されるまま、石段を降りていく。振り返ると、木波が鋼鉄の扉を閉めて、真っ暗になった。
それも束の間、カチッという音とともに、地下に明かりがついた。天井を見上げると、裸電球が等間隔で設置されている。
「ここは安全よ。今のところはね」
木波は石段を降り始めた。クマは慌てて、後ろをついていった。
☆☆
石段を降りた先にも、鋼鉄の扉があった。木波は鋼鉄の扉を開くと、中に入っていく。
木波に手招きされ、クマも扉の先に足を踏み入れた。
老若男女が床に寝転んだり、椅子に座って談笑している。壁際には食料や物資と思しき段ボール箱が積まれて置いてあった。どうやら、ここで生活しているようだった。
先程のゾンビとやらから、身を隠すために地下で生活しているのかもしれない。
「あっ、湊お姉ちゃん、お帰りなさい。って何でクマがいるの?」
木波の帰還に気付いたツインテールの女の子が、呆然とした表情でクマを見つめる。他の者たちもザワついていた。
何だか居たたまれなくなり、クマは思わず俯いた。
「ゾンビに襲われていたから、助けたの。相手がゾンビでも、傷付けない優しいクマなのよ。背中に乗っけてもらったし」
木波に頭を撫でられ、そっぽを向く。
「優しいクマさんか。まあ、湊お姉ちゃんは動物の言葉が分かるもんね」
女の子の言葉に周囲の者たちも頷いていた。木波の動物の言葉が分かる能力は周知の事実のようだった。
「ところで何で人里に?」
「グルルルルルル(山には木の実の類が見当たらなくて、餌を求めて人里に降りてきたんだ)」
クマはお腹を鳴らしながら、木波の疑問に応えた。
「お腹が鳴っているみたいだけど、餌が見当たらなくて、何も食べてないのね。ちょっと待ってて」
木波は立ち上がると、壁際に積まれた食料や物資の元に向かった。数十秒後、手に何かを持って戻ってきた。それはツナ缶と魚肉ソーセージだった。
「はい、どうぞ」
木波は缶切りで開けてから、ツナ缶と魚肉ソーセージを差し出してきた。
「グルル(ありがとう)」
クマはお礼を述べてから、ツナ缶と魚肉ソーセージを受け取る。ツナ缶を口元に持っていき、斜めに傾けた。ツナが口内に流れ込んでくる。
「ガオルル(美味い)」
クマは続いて魚肉ソーセージを頬張った。食感が好みで大満足だった。
「グルルルルルルル(ところで、この街で何が起きたんだ。どうしてゾンビが現れたんだ)?」
クマは食事を続けながら、木波に気になっていたことを聞いた。
「ああ、それはね。この街には研究所があるんだけど、そこからウイルスが漏れたのよ。爆発事故を起こしてね」
木波も食事をしながら、疑問に応えてくれた。他の者たちも、食事を摂り始めている。
「ガルルルル(何の研究をしていたんだ)?」
「その研究所の所長は変人で、理想のゾンビを作りたかったらしいのよ。ゾンビウイルスの研究をしているって自慢していたくらいだし。そのせいでこんな事態になったんだから、溜まったものじゃないわ」
木波は拳を握り締めて、軽く舌打ちした。所長のことをあまりよく思っていないようだった。
「所長は私の祖父なんだけど、昔から嫌いだったわ。人を小馬鹿にしたような態度が気に食わなかったのよね。最期は私を逃がして、ゾンビに食い殺されたけど、結局、好きにはなれなかった」
「グルルルルル(祖父が原因で、こうなったのは身内として辛いよな)」
クマは前足を伸ばすと、そっと木波を抱き締める。
「ありがとう」
木波はどこか照れくさそうに笑うと、両手を背中に回してきた。小さな手が背中に触れ、温かみを感じた。
「ついでに教えておくけど、私が動物の言葉を理解できるのは祖父に薬を注入されたからなの。動物をゾンビにしたかったらしくて、コミュニケーションを取れるように、薬を開発して、私を実験台にしたのよね」
木波の声はわずかに震えていた。目を伏せ、背中に回す手には力がこもっていた。爪が背中に食い込んだが、痛みを無視して、木波の頭を撫でる。
「もふもふして温かいわ」
木波は口元を緩ませた。その時、微かに腐臭を感じ取り、物音も聞こえた。
「グァルルルルルル(腐臭がする。物音も聞こえた。気を付けろ)!」
クマは臭いがした方向を睨み付ける。壁際の扉の向こう側から腐臭が漂っている。
「腐臭ですって? みんな気を付けて! ゾンビかもしれない」
木波は慌てて立ち上がると、ライフルを構えた。他の者たちも、武器を手に取って身構える。
扉の奥から、無数の足音が響き渡る。クマは急いで扉に近付く。よりいっそう腐臭が強まり、何かが扉にぶつかる衝撃音が聞こえた。扉を突き破ろうとしているようだった。
クマは慌てて、自分の体で扉を押さえた。
「グァルルルルルルルル(俺が扉を押さえておくから、お前たちはその間に逃げろ)!」
「でも、あなたはどうするの?」
「ガオルルルルルル(俺のことは気にするな。早く行け)!」
「……分かったわ。みんな行くわよ」
木波はみんなを連れて入り口に向かって駆け出した。次の瞬間、反対側の扉が壊れて、ゾンビが雪崩れ込んできた。
「なっ、こっちからも?」
木波はライフルを構えて、ゾンビを撃ち始めた。次々とゾンビが倒れていく。他の者たちも、各々の武器を用いてゾンビに応戦し始める。
その間も、クマはこれ以上ゾンビが入ってこないように、扉を押さえ続けた。
『ぐわぁっ』
叫び声が聞こえ、クマは反射的に視線を向けた。十数人の老若男女が、ゾンビに首や腕を噛まれているのが見えた。
「そこをどいて! これで押さえるわ」
木波が段ボール箱をいくつか抱えていた。クマは頷き、扉の前から退く。すかさず木波が、段ボール箱を扉の前に置いた。これでしばらくは時間を稼げるだろう。
「あなたが優しいのは分かっているけど、今度は躊躇せずに、ゾンビを倒して。時には心を鬼にすることも必要よ。みんなを無事に逃がすためにはね」
「グォルル(分かった)」
クマは決意を固めると、ゾンビに向かって駆け出した。鋭い爪でゾンビの顔面を抉り、体当たりで吹っ飛ばした。ゾンビは壁に激突し、動かなくなった。
次々とゾンビを切り裂いていく中、視界の端に、複数のゾンビに食い殺されるツインテールの女の子の姿が見え、胸が痛んだ。
「みんな、早く入り口に行って!」
木波がライフルに弾を装填し、ゾンビを撃退しながら、みんなに入り口に向かうように促していた。
生存者たちが木波の言葉に従い、入り口に向かって駆け出していく。その後をゾンビたちが追い始める。
「グァルル(行かせない)!」
クマは素早い動きで、生存者たちとゾンビの間に立った。唸り声を上げて迫り来るゾンビの脳天に、鋭い爪を突き刺して引き裂く。
集団の中に首や腕を噛まれてゾンビ化した老若男女の姿が見えた。
「あなたも早くこっちに来て!」
木波の叫び声が聞こえ、クマは一瞬、後ろを振り返る。木波が片足を石段に乗せ、手招きしていた。他の生存者たちはすでに石段を上がったようだった。
クマは前に向き直り、次々とゾンビを吹っ飛ばしていく。
「ガォルルルル(俺のことは気にせずにお前も早く逃げろ)」
「……分かったわ。死なないでね」
木波の声は震えていた。
クマはゾンビを薙ぎ倒しながら、チラリと背後を確認する。木波が石段を駆け上がっていくのが見え、ホッと胸をなで下ろした。
クマは入り口に向かって駆け出すと、開きっぱなしの鋼鉄の扉を閉めた。
☆☆
木波は石段を駆け上がっていたが、何かを動かすかのような音が聞こえ、後ろを振り返った。
クマが鋼鉄の扉を閉めようとしているところだった。慌てて駆け下りようとしたが、仲間に体を押さえ付けられた。
「離して! あの子を助けなくちゃ!」
「あいつの覚悟を無駄にする気か。あのクマは俺たちを逃がすために、鋼鉄の扉を閉めたに違いない。あいつのことを思うなら、意思を尊重してやれ」
木波は仲間に叱咤され、項垂れた。仲間の言うとおりだと思った。あのクマは優しいし、自分を犠牲にしてでも、木波たちを逃がそうとしたのだろう。
「……先を急ごう」
木波は袖で目尻を拭うと、仲間とともに再び石段を駆け上がった。
☆☆
クマは半数以上のゾンビを撃破したが、自身も満身創痍だった。体のあちこちを噛まれてしまい、徐々に意識が朦朧とし始めてきていた。
二足歩行で立つのも限界に近づき、クマは鋼鉄の扉にもたれかかる。
『うぅー』
唸り声を上げながら、ゾンビたちが一斉に襲いかかってきた。前足や後ろ足等を同時に噛まれたが、クマにはもう抵抗するだけの体力は残っていなかった。
自分の体がゾンビに食われるのを見ていることしかできず、やがてクマの意識は完全に途絶えた。
☆☆
木波は地下から脱出すると、アルミバンを見つけ、慎重に荷台の扉を開けた。中に誰もいないことを確認すると、仲間たちに荷台に乗るように告げる。
木波は仲間たちが荷台に乗り込んだことを確認してから、急いで運転席に座った。
エンジンをかけて、アルミバンを動かす。生存者はほんの数名しかいなかった。
木波はゾンビたちを轢き殺しながら、突き進んだ。アルミバンは順調に街中を走行する。
どれほどの時間が経っただろうか。ついにアルミバンは街を抜けて郊外に出た。
「あの子は無事かしら?」
木波はポツリと呟くと、当てもないまま、アルミバンを運転し続けた。




