第45話 物理的呪い【過去】第3話「最後のコーヒー」
光莉は、テーブルの上にぽつんと残されていたマグカップを、もう一度愛おしむように両手で包み込んだ。誰もいないカフェ「あおい」の静寂の中で、自らの手で淹れた最後の一杯となるコーヒーを、ゆっくりと、時間をかけて飲み干していく。
ごくり、と喉を鳴らして最後の一滴が胃の腑へ落ちていったとき、陶器のマグカップの底には、細かな黒いコーヒー豆のカスがわずかに残っていた。
彼女は、熱の引き始めたカップを覗き込み、ためらいなく右手の指先を底へそっと入れた。
指の腹で、ざらついた豆のかけらをそっとなぞり、その感触を指先に移した。そしてその指先を、自分の青白い唇へと静かに運んだ。
ダイレクトに舌を刺す、濃厚な、容赦のない焦げた苦味。
だが、その後にじんわりと広がる確かな温かさ。
それこそが、彼女にとっての「私は確かにここにいた」という、紛れもない『人間』としての最後の記憶、最後の味覚だった。
AIの演算がどれほど世界を無味無臭の平穏で満たそうとも、この不完全な苦味だけは、私の肉体から奪うことはできない。
「これが、私の人間の味。……忘れない、絶対に」
彼女はカップを優しくテーブルへ置いた。
カタン、と小さく響いた音は、静かな店内の空気を揺らしながら、どこか遠い未来へ細く続いていくようだった。
光莉は静かに立ち上がり、旅の荷物が詰まったバッグを片方の肩へと掛けた。そして、外の世界へと繋がる、錆びついた廃墟のドアを、ゆっくりと押し開けた。
キィ、と甲高い音が店内に響き渡る。
一歩外へと踏み出すと、夏の終わりの強烈な日差しが容赦なく降り注いでいた。
光莉は眩しそうに細い目を細め、どこまでも青く、しかしどこか遠い空を真っ直ぐに見上げた。
「私は、ここから消える。私の存在も、私の名前も、システムの記録からは一切消去されていく。……でも、このテーブルの奥の傷と、今も脈打つこの右手の熱と、この部屋を満たしたコーヒーの香りは、物質として、呪いとして、この場所に残り続ける」
彼女の唇に、もう未練はない。透明で美しい微笑みが浮かんだ。
彼女は、前を向いて歩き出した。
アスファルトを踏み締める彼女の足音が、静まり返った廃墟の中に小さく、しかし確供たる歴史の鼓動として響いた。
彼女が歩を進めるたびに、限界までほつれきったストッキングの伝線が、夏の終わりの熱い風に吹かれて軽く、誇らしく揺れていた。
光莉はもう、その破れ目を振り返ることはしなかった。直そうともしなかった。そのままの歪さで世界と対峙することこそが、彼女がシステムを拒絶し、一人の人間としてこの世界から「卒業」していくことの、何よりの証明だから。
主を失ったカフェ「あおい」の薄暗い光の底で。
歪んだテーブルの裏側に、彼女の魂の筆圧で深く、深く刻み込まれた「stocking_night_0612」の文字は。
自らが放ち続ける百年の熱源を抱えたまま、未来のいつか、その熱に触れて自らの呪いを受け取る宿命に選ばれた、あの七人の指先を、静かに、ただ静かに待ち続けていた。




