第4話 静かなる異常【過去】第4話「長い旅路へ」
光莉は幼い頃から「世界が二重に見える」ような感覚を持っていた。
デジタルが浸透しきった社会で、人々の感情がデータに置換されていく過程で生じる「隙間」を、本能的に察知する能力。それは、父から受け継いだものかもしれない。母から受け継いだものかもしれない。彼女にはわからなかった。でも、その「隙間」を見つけることが、彼女の役割だと、ずっと思っていた。
彼女はそれを、ずっと「違和感」と呼んできた。でも、今は違う。それは「使命」なのだと、ようやく気づいた。ただの違和感ではない。それは、彼女にしか見えない「何か」なのだ。
友人は皆、AIの推奨する幸福に疑問を持たない。就職先も、住む場所も、結婚相手も、AIが「最適」と判断したものを選ぶ。誰も文句を言わない。誰も不満を持たない。それが「正しい」ことだから。
でも、光莉は違った。彼女は「正しい」ことよりも「自分で選ぶ」ことを、大切にしたかった。正しさは、誰かが決めるものではない。自分で選ぶから、そこに意味が生まれる。
「私は、旅に出る」
昨夜、家族にそう告げた時、父は黙ってうなずいた。母は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「そう。行ってらっしゃい」
それが、すべてだった。彼らは光莉が「そういう子」だと知っている。止めない。それが彼らの「愛し方」だった。言葉よりも、沈黙で伝える。それが、父と母のやり方だった。
長い旅立ちに向けた宿の朝。
光莉はノートをバッグに詰めた。端末も。それだけだ。これが、彼女の旅の始まりだった。
鏡の中の自分を見た。ストッキングの伝線は、まだ消えていない。彼女はその伝線を指でなぞった。それが、彼女の「始まり」の印だった。
光莉は列車で北へ向かう。駅のホームから見える風景には、まだ「人間の手触り」が感じられた。ホームのベンチは冷たい。誰かが座った跡が、かすかに残っている。その跡は、誰かが「ここにいた」という柔らかな輪郭だった。彼女はそのベンチにそっと手を触れた。冷たい。でも、その冷たさの中に、誰かの「温もり」が混ざっているような気がした。
ベンチには、ついさっき置き忘れたと思われるハンカチが置かれていた。薄紫色の、小さな花の刺繍が入ったハンカチ。彼女はそれを手に取った。布の感触。洗濯の匂い。誰かの「生活」が、そこにあった。彼女はそのハンカチをバッグに入れた。彼女の「旅の記録」の、最初の一つだった。
光莉はそれをノートに描き写した。絵は下手だ。でも、写真よりずっと「そこにある感じ」がする。彼女は思う——これが、私の「記録」の形だ。データじゃない。数字じゃない。私の手が触れたものだけが、私の「真実」なのだ。
列車が走り出す。窓の外の景色が動き始める。彼女はふと、母の言葉を思い出した。
「特別じゃなくていい」
それは、自分自身に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。光莉はそう思った。
父の言葉も。
「わからない、でもそれでいい」
彼は答えを出さないことで、答えを出していた。そのことに、光莉はずっと気づかなかった。
列車はトンネルに入る。視界が一瞬、暗くなる。その闇の中で、光莉ははっきりと感じた——自分の心臓の鼓動が、規則的ではないことを。時々、跳ねる。それが、彼女が「人間」であるということだ。
トンネルを抜ける。光が差し込む。窓の外には、見たことのない風景が広がっている。
光莉はノートに書き込んだ。
「私の旅は、ここから始まる。まだ何も見つけていない。まだ何もわかっていない。このまま何も見つけられないかもしれない。それでも——それでいい。ただ『この世界にいた』という証を、誰かの指先に残せたら。それが、私の旅の意味だから。」
彼女はペンを置き、窓の外を見た。雲がゆっくりと流れている。その向こうに、何があるのか。わからない。でも、それでいい。
父の端末の電池残量は、まだ97%だった。彼女はそっと端末を撫でた。父の「温もり」が、まだそこにあった。
※第二部へ。物語が動き始めます。




