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新作SF長編【彼女の時空】「ずれ」は、人類最後の武器である。「静かなる最適化への、人類最後の反逆。カフェ「あおい」から連なる一本の伝線から始まった」  作者: Taku
『彼女の時空「1巻」:卒業』

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第34話 継承者たち【過去】第4話「すれ違い」

東北の女性が、光莉のノートに記されていた「次の継承者」の家へと辿り着いたとき──その男は、すでにこの世を去った後だった。


「……一ヶ月前でした。父は、静かに息を引き取りました」


玄関の薄暗い電球の下、応対した息子の男はそう言った。50代半ばぐらいだろうか、深く静かな目をした男だった。

彼は、雨で濡れた女性の衣服と、彼女が愛おしそうに抱きしめている小さな木箱をじっと見つめ、そのかすかに震える声に確信を込めた。


「父は生前、光莉さんから一通の暗号化されたメールを受け取っていました。……あなたが来ることを、いつか必ず、この家を訪ねてくる者がいるのだと、何度も私たちに話していました」


男はそう言って、奥の部屋から一枚の古びた紙のメモを丁寧に差し出してきた。黄ばんだ端が、彼の指先で小刻みに震えている。


女性は張り裂けそうな胸を抑えながら、それを受け取り、文字を指の腹でゆっくりとなぞった。強い筆圧の凹凸が皮膚に食い込む。その瞬間、紙の繊維から、あの懐かしい疼くような温かさが立ち上ってきた。心臓の奥が、ざわっと激しく締めつけられる。


紙には、死者を裏付けるかのような確かな筆跡で、こう書き残されていた。


──『「stocking_night_0612」を持つ者が訪れる。その者を信じろ。私が約束した──百年先の誰かのために、絶対に守り抜くことを』


女性の目から、堰を切ったように熱い涙が溢れ落ちた。彼女は黄ばんだ紙を自身の胸に強く押し当て、声を詰まらせた。


「……私は、光莉さんから直接、あの廃墟の夜に、この種を託された者です」


震える手で、彼女はこれまで何があっても手放さなかった小さな木箱の蓋を開けた。中には、光莉のオリジナルのメモと記憶媒体が、あの夜のまま収まっている。長い年月を経たはずの木の表面は、今触れても、まるで誰かの体温が宿っているかのようにかすかに温かかった。


息子の男がそれを受け取った瞬間、彼の指先がにわかに熱を帯びた。焼けるような痛みではない。ただ、肉体の奥深くで、静かに、しかし力強く脈打つ熱。父が亡くなる直前、白いベッドの上で虚空を見つめながら、うわ言のように繰り返していた言葉が、男の耳の奥で鮮烈に蘇った。


『静かに守れ……音を立てるな。この熱を隠すんだ。でも……いつか、受け取る者が現れる。そのときこそ、声を上げろ……』


男はそっと目を伏せ、長く、重い息を吐き出した。


「父は、最後の瞬間まであなたを待っていました。ですが……体が、持ちませんでした。すれ違ってしまった」


女性の喉が、くうっと小さく鳴った。彼女は木箱の縁を白くなるほど握りしめたまま、消え入るような声で言葉を探した。


「私は……遅すぎました。光莉さんが命をかけて託してくれたものを、ちゃんと生きたご本人に届けたかったのに……私が、遅かったばかりに……」


だが、男は静かに首を振った。その瞳には、諦めではなく、不思議な確信が宿っていた。


「いえ。父は、生前こうも言っていました。『もし間に合わなくても、すれ違っても、熱は必ず繋がる』と」


女性はその言葉を反芻するように、涙の向こうで自分の指先を見つめた。熱は、消えていなかった。むしろ、目の前の男の体温と共鳴するように、じりじりとその熱量を増している。


「『すれ違っても、熱は繋がる』──本当に、そういうものなのかもしれませんね」


二人は、薄暗い玄関先でしばらく言葉を失った。


いつしか降り出した雨が、トタンの屋根を静かに、規則正しく叩き始めていた。その冷たい雨音が、二人の間に流れる時間の静寂をさらに深めていく。


女性はようやく顔を上げ、男の目を真っ直ぐに見据えた。


「あなたの指先も……、熱いのですね」


男は、自分の右手をゆっくりと開いて見せた。無骨な指の腹が、ほのかに赤らんでいる。


「……ええ。父が息を引き取ってから、ずっとこうです。父の遺品や、このメモに触れるたび、肌がじりっと熱くなる」


女性は小さく、慈しむように微笑んだ。頰にはまだ、涙の跡が白く残っていた。


「それが……光莉さんの『伝線』です。私も、全く同じ熱を、この皮膚で感じ続けてきました」


男は木箱を愛おしそうに胸に抱き、雨の冷気を深く吸い込んだ。


「父は、守り方を少し間違えていたのかもしれません。『静かに隠せ、誰にも見つかるな』と教わったから。でも、光莉さんが本当に望んでいたのは、ただ隠すことじゃない。──『誰かに渡せ』ということだったんだ」


女性は深くうなずいた。胸の奥をずっと支配していたあの冷たいざわつきが、ゆっくりと、しかし確実に、他人の体温という確かな温かさへと変質していくのを肌で感じていた。


「これからは……一緒に、守りましょう。時には音を立ててもいい。世界から目立ってしまってもいい。ただ、預かったこのバトンだけは、絶対に、手放さない」


男は、この薄暗い玄関で出会ってから、初めて静かに、人間らしい笑みを浮かべた。


「……ええ。それこそが、父の本当の最後の願いだったのだと、今なら分かります」


二人は、屋根を叩く激しい雨の音を聞きながら、しばらくその場所に立ち尽くしていた。


百年の闇の中で、すれ違い、見失いかけていた二つの「託し」が、一世代の時間を超えて、ようやく一つの太い線へと重なり始めた瞬間だった。


──これで、やっと、始められる。


女性は胸の奥で静かに確信した。


百年の旅は、まだ何も終わっていない。しかし、彼女たちはついに、暗闇の中で孤独に凍えることのない「次の駅」へと辿り着いたのだ。


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