第105話 【伝線の結晶】 第9話 「結晶」(9/10)
カフェスペースに、沙織は一人だった。
机の上にはスケッチブック。開かれたページ。金色の線が幾重にも重なっている。何度も描き直した跡。指先の脂が染み込んだ跡。
彼女はペンを握ったまま、動けなかった。完成しない。何かが足りない。何が足りないのかは、自分でもわからなかった。
背後で足音がした。振り返らない。誰かはわかっていたから。
「まだ、描いているのか」
康介の声。沙織はうなずいた。
「完成しない」
次に来たのはEだった。彼女は沙織の隣に座り、スケッチを見つめた。何も言わない。ただ、そこにいる。その沈黙が、なぜか沙織の指先を熱くした。
瞳が来た。田中が来た。純が来た。拓が来た。誰も言葉を発しない。でも――その沈黙は「何もない」のではなかった。誰かの熱が、誰かの震えが、その場に確かにあった。
悟が最後に来た。
彼は沙織の向かいに座り、スケッチを見つめた。冷たいはずの彼の指先が、今日は少しだけ温かい。理由はわからない。でも――それが、この場所の「いつも」になっていた。
沙織はもう一度ペンを走らせた。金色の線。震えている。指先から熱が染み込む。その熱を、誰かに届けたい。誰のためでもない。ただ――自分が感じたものを、形にしたい。
線が重なる。重なるたびに、誰かの指先の震えが重なる。Eの。瞳の。田中の。純の。拓の。康介の。悟の。そして――この場所に残る、名前も知らない誰かの。
「……これか」
沙織は呟いた。足りなかったもの。それは「線」ではなかった。「熱」でもなかった。誰かの「そこにいた」という事実。それが、このスケッチにまだ足りなかった。
彼女はペンを置いた。
完成した。でも――「完成」という言葉は、少し違う気がした。結晶した。その言葉が、なぜかしっくりきた。
「タイトル、つけるなら」
康介が言った。
「『伝線の結晶』」
沙織は答えた。誰も異論を唱えなかった。
悟が口を開いた。
「……あったかい」
それは、この場の空気を表す言葉だった。誰かがうなずいた。誰かが微笑んだ。誰かが自分の指先を見つめた。誰もが、その感覚を共有していた。
沙織はスケッチブックを閉じた。まだ描き足したくなる気持ちはあった。でも――それでいいと思えた。だから閉じた。
その夜、沙織のスケッチはカフェスペースの壁に飾られた。
誰もいない。でも――そのスケッチを見つめる誰かの視線を、彼女は感じていた。気のせいかもしれない。でも――もし気のせいじゃなかったら。
「伝線は、続く」
誰かが呟いた。
誰が言ったのか、覚えていない。でも――その言葉は、確かにそこにあった。




