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交易の時代(3)

空の雲がとてもきれいに流れている。


「お兄ちゃん、あれ食べたい。」


「え、雲?あれは食べられないよ。」


ピエロはルチオによく懐いていた。


クラリーチェは敬虔なキリスト教徒だったため、私生児の存在自体を快く思っていなかった。


しかし、4歳のピエロにとって母と兄の関係は難しすぎて、ただ兄が大好きだった。


「ピエロ、寒いのに外で何してるの?」


案の定、クラリーチェがすぐ現れてピエロを連れて行こうとした。


「僕、お兄ちゃんと遊ぶの。」


「お母様、僕もピエロと一緒に遊びたいです。」


だが彼女はピエロの手を強く引っ張った。


何も言わずにピエロを連れていこうとするクラリーチェは、振り返ってつぶやいた。


「…無理に子どもと仲良くしようとしなくてもいいわ。」


そう言って、クラリーチェはピエロと共に屋敷の中へ入っていった。


ルチオは気まずさを感じた。


『どう見ても俺のことが嫌いそうだな。まあ、そう思う理由もたくさんあるけど。』


クラリーチェは保守的なキリスト教徒であるため、私生児を本能的に嫌悪するのも仕方なかった。


それに、ピエロがメディチ家を継ぐうえで障害になり得る存在でもある。


クラリーチェが冷たくするのも当然だったが、今のルチオには彼女の心を変える手段がなかった。


そんな中、ルチオはさっきピエロが言ったことを思い出してひらめいた。


『雲!そうだ、わたあめって雲にそっくりじゃないか?』


比較的製法が簡単なわたあめは、すでに15世紀のイタリアに存在していたとされている。


調べてみようかと考えているところに、午前中に使いに出ていたパオロが戻ってきた。


「ご指示のあった商会の設立条件について調べてきました。年齢が問題になるのは本当です。15歳以上でないといけないそうです。」


「そうか。それならレオナルドに頼まなきゃね。でもパオロ、糸でできたキャンディーみたいな食べ物って知ってる?」


わたあめはヨーロッパではコットンキャンディー、または妖精の糸とも呼ばれていた。


「知っております。貴族たちが遊びで食べるものですが、高価です。」


「だろうね。今の時代だと砂糖を手に入れるのも大変だし、あっても高価だろうし。」


ある程度精製された砂糖は、15世紀からヨーロッパに広まり始めた。


もともとイスラム圏を通じてのみ輸入されていたが、大西洋の島々でサトウキビの大量栽培が始まり、ヨーロッパでも供給できるようになったからだった。


パオロは不思議そうに聞き返した。


「何をおっしゃいますか?この時代に限らず、砂糖は常に貴重で高価なものでした。むしろ最近は、以前よりは手に入りやすくなったくらいです。」


ルチオの失言だった。


1476年を生きる人々にとって、砂糖が安かった時代は存在しなかった。


「数ヶ月前より値上がりしたって話さ。とにかく、その砂糖、手に入る?」


「もちろんです。」


パオロはそう言うと、すぐに走って出ていった。


しばらくしてパオロが持ってきたのは、少し奇妙な見た目の食べ物だった。


しかも予想以上に高価で、自作農の2〜3ヶ月分の収入に相当するものだった。


「これがわたあめ?」


「わたあめ?それは何です?これは糸飴ですが。」


パオロから作り方を聞くと、溶かした砂糖を皿に注いでひっくり返し、伸びた砂糖の糸を棒に巻きつけて作るのだという。


『わたあめというより建材みたいな見た目だな。あれだ、グラスウールの断熱材。』


母の姿が見えなくなったせいか、ピエロがまたルチオの元にちょこちょこと走ってきた。


「ピエロ、ちょっと変な形だけど、雲に似てると思わない?」


ピエロは糸飴を数回バリバリと噛んで食べたが、すぐに不満そうに言った。


「やだ!これ雲と違う!硬すぎるよ!雲じゃない!」


「でも甘いだろう?」


「おいしくない!」


いくら砂糖でもまずいということはないはずだが。


ルチオが食べてみると、確かに甘さはあるが、焦げたような苦味が混ざっていて子どもには難しい味だった。


『これじゃダメだ。本物のわたあめを作らなきゃ。』


そのとき、良いアイデアがひらめいた。


『そうだ!レオナルドに原理を話せば、設計図をすぐに描いてくれるはず。』


わたあめ機はおもちゃになるほど単純な原理なので、この時代の技術でも再現可能なはずだった。


***


「雲飴か……確かに、糸飴とはだいぶ違いそうだ。」


「とても軽くてふわふわした感じにしなきゃいけません。たぶん、コーヒーともよく合いますよ。」


レオナルドはその原理をじっくり考えた。


「砂糖を溶かした後、高速回転させて極細の糸を作り出す。それが基本の原理だな。」


「作れそうですか?」


「うまくいけば面白いものができるかもな。やってみよう。」


レオナルドはまたもや一瞬で設計図のようなものを描き上げた。


『この人は画家というより技術者って感じだな。』


レオナルドが描いた数枚の設計図をパオロに渡した。


「どう思う、パオロ?」


「これくらいなら鍛冶屋たちにも十分理解できるはずです。」


パオロはすぐに食堂を飛び出していった。


コーヒーミルとドリッパー、それにわたあめ機まで作らなければならない。


メディチ家と取引する鍛冶屋は大儲けすることになりそうだった。


酒に酔ったボッティチェッリが隅で居眠りしているのを見て、レオナルドは別の話題を切り出した。


「それにしてもルチオ、家庭教師の話だが。」


「はい。」


「一体、君に何を教えればいいんだ?絵や彫刻とか、何か習いたいことでもあるのか?」


家庭教師の件を引き受けたものの、詳しい内容については何も話していなかった。


メディチ家の屋敷を訪ねる前には、それを決めておかなければならなかった。


だが、ルチオの考えは違っていた。


「レオナルド、家庭教師っていうのは口実なんです。僕は何かを習いたくてお願いしたわけじゃありません。」


「何?じゃあ僕をなぜ雇ったんだ?」


「一緒に仕事をしてみたかったからです。レオナルドは機械や工学に関心があるとおっしゃっていましたよね?」


レオナルド・ダ・ヴィンチは後世には芸術家として知られるが、技術者としても多大な功績を残した人物だ。


今まさにコーヒー器具やわたあめ機の設計図をさっと描いてみせたことからも、彼のレベルは一目瞭然だった。


「ルチオ、僕は新しい概念や新しいものを生み出すことに関心がある。料理もそうだし、機械や工学もそうだ。」


ルチオは顔にかすかな笑みを浮かべた。


「僕がこれからレオナルドと一緒にやってみたいのは、そういう“新しいもの”を作ることです。」


「ふむ……ルチオ、君が持ってきたコーヒーは十分に面白かったし、雲飴の機械も楽しかった。」


「レオナルドは、工学的な原理を活かした道具や機械を作るのに才能があると思います。」


レオナルドは苦い表情を浮かべた。


「才能?どうかな。僕はそういうことをやるのは好きだけど、得意かと聞かれると答えにくいね。」


「十分、上手にやっておられると思いますよ?」


「そうか?でも俺は学も浅く、見聞も狭い。これ以上見せられるものがあるか分からないな。」


レオナルドという偉人をよく知るルチオの立場からすると、それはとんでもない謙遜だった。


『あれは本気だ。レオナルド・ダ・ヴィンチは私生児だから正規の教育を受けるのが難しかったんだ。』


平民の私生児が正式な教育を受けるなんて、想像もできない時代だった。


だからレオナルド・ダ・ヴィンチは長い時間をかけて独学するしかなかった。


膨大な知識を蓄え、天才と称えられるようになったのもかなり年を取ってからだった。


「でも、私はレオナルドの才能を確認しました。私の思い描くものを、レオナルドなら形にできるという確信が生まれたんです。」


「そうか。すでに家庭教師を引き受けた以上、お前と一緒に働くのは決定だ。どうか長く続けられるといいな。」


そう言うレオナルドの表情は、さほど明るくなかった。


長く働きたいが、大きな期待はしていない――そんな心情が顔に滲んでいた。


「レオナルド、一緒に働いていれば分かるようになりますよ。成功ってどういうことか。」


「それなら知ってるさ。生活が安定して、将来を心配しなくてよくなることだろ。」


「そんなものじゃないですよ。コーヒーとわたあめ機はすぐに大成功します。レオナルドも大金を稼ぐことになりますよ。」


レオナルドは疑わしげな表情で問い返した。


「そうなるのか?どうしてそんなに確信してるんだ?」


「見なくても分かります。」


レオナルドは手を広げて肩をすくめた。いかにもイタリア人らしく身振りが大きい。


「……とにかく、そこまで確信してるなら信じてみよう。」


「ただ一つ残念なのは、レオナルドが画家として大成する道が絶たれてしまうかもしれないことです。」


「そう思ってくれるのはありがたいが、気にはしていない。絵でも工学でも、新しくて楽しいことならどちらでもいいんだ。」


レオナルドはそう言ったが、ルチオのほうは気になっていた。


『もしかすると俺のせいでモナ・リザが描かれなくなるかもしれないと思うと、それはそれで残念だな。』


だが、水はすでにこぼれており、レオナルドが技術者に転向するのは確実となった。


その代わり、元々の歴史には存在しなかった新しい発明品が誕生することになるだろう。


***


翌日すぐに。


「本を書きたい?それも私との共著で?」


アンジェロ先生がメディチ家の屋敷を訪れてそう言ったとき、ルチオは驚いた。


「君の言ったことをよく考えてみたんだ。自分だけで抱えておくには惜しいと思ったよ。」


ルチオは頭痛がしてきた。


『ちょっとデカルトっぽい話をそれらしく語っただけなのに、その概念にハマるなんて……。』


人間が持つ知識だけでイデアに至れる。


その話は新プラトン主義とデカルトの哲学をほどよく混ぜて適当に作ったものだった。


まさかアンジェロ先生がそれを感動どころか啓示のように受け止めるとは思いもしなかった。


「その概念を広める方法として、本を出すということですか?」


「そうだ。私にはそれが一番良い方法に思える。」


「私にその資格があるでしょうか?たかが十二歳の言葉を誰が信じてくれるのか……」


「ルチオ、本に君の年齢を書く必要はない。それに君には十分資格がある。」


「私は大学にも入っていませんし、本を書くにはラテン語も全然足りてません。」


「君のラテン語が足りないだって?それは面白い冗談だな!」


「えっ?」


「君のラテン語は十二歳のレベルじゃない。大学者のラテン語でなきゃいけないのに、学生レベルしかできません、って言ってるようなもんだ。」


「でも、本を書くレベルにはまだ……」


「だから共著なんだよ。もちろん、概念のほとんどは君の考えだから、私の名前を載せるのが申し訳ないくらいだがね。」


呆れてものも言えなかった。


人間の思考で理性を認識し、より正しい判断ができるようになる――これは現代では当たり前の常識だ。


だが中世では、これはキリスト教に反する恐ろしい思想とみなされかねない。


『これ、下手したらローマ教皇庁に睨まれて首が飛ぶんじゃ……』


久々に中世の恐怖が襲ってきた気がした。


「まだ私の理論が、神が創られた世界を冒涜するのではないかと恐ろしいです。」


「そんなこと言うな。君はすでに素晴らしい概念を築き上げているじゃないか。」


「……?」


ルチオは自分がいつそんな概念を語ったか、うろ覚えだった。


「主が見守っておられるだけで、人間にはそれだけの力がある! なんて素晴らしくも隙のない論理なんだ!」


そのとき、少し記憶がよみがえった。


『ああ、ローマ教皇庁に目をつけられないようにおべっか使った話か。あれが効いたのか?』


ルチオは戸惑いつつも、同時に興味も湧いてきた。


中世の哲学はまだ古代ギリシャの時代からさほど進歩していない状態だった。


そんな時代に現代の哲学常識を持ち込めば、まるで核爆弾のような威力を発揮するだろう。


『もう始めたことだし、今さら引くのは難しい。だったら……楽しもう!』


避けられないなら楽しめ、それはまさに真理である。


どうせ神や教皇庁にはおべっかさえうまく使えば、異端として処罰されることもない。


「分かりました、アンジェロ先生。せっかく本を書くのなら、私も協力させていただきます。」


「うむ、よく決心してくれた。世に天才を公表することを思うと、今から胸が高鳴るよ!」


ルチオは未来を知っているだけで、天才ではなかった。


だがアンジェロ先生の言葉を否定しても、話が長くなるだけだった。


ルチオは心の中でそっと謝った。


『デカルトにはちょっと悪いな。だから“我思う、ゆえに我あり”という命題だけは絶対にいじらないでおこう。』


そこまで手を出すのは、さすがに良心が咎める。




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― 新着の感想 ―
中性に目の覚めるような新しい概念を持ち込めば、天才と言われちゃうよね しかし、本を出版すれば教皇丁と揉めるのが心配
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