三匹のカエル(2)
ルチオの部屋にロレンツォが訪ねてきた。
今日は珍しく、家門の会計担当であるマルコも一緒に来ていた。
「何かご用でしょうか?ロ...いえ、お父さん。」
ルチオは口癖のように出そうになった「ロレンツォ様」を飲み込み、「お父さん」と呼んだ。
ロレンツォは無表情だったが、心の中では感激していた。
その「お父さん」という言葉が、養父に対する呼び名ではなく、実の父への呼び名であることを知っていたからだ。
シルビオ執事を通じてこっそり話しておいた甲斐があった。これからは親子の情が築かれていくだろう。
「ルチオ、お前の将来について話をしようと思って少し立ち寄った。」
「僕の将来とおっしゃいますと……。」
「少し早いとは思うが、私はお前にフィレンツェ大学に行ってほしいと思っている。」
「フィレンツェ大学ですか?」
現代のフィレンツェ大学はフィレンツェにあるが、この時代ではピサに位置していた。
フィレンツェから馬で三〜四時間かかる距離だった。
「そうだ。私はお前に大学を卒業して芸術家の後援の仕事を担ってほしいと考えている。そのために大学準備の家庭教師をつけよう。」
中世の大学は15歳前後で入学するのが一般的だった。
ロレンツォはまだルチオのことをすべて理解してはいなかったが、人文学や芸術に相当な見識があることは確認していた。
だからこそ、ルチオの適性に合った道を早く開いてやりたかった。
依然として私生児への差別があり、大学進学に苦労するケースも多かったが、メディチ家であれば不可能ではなかった。
『家門の継承は今四歳のピエロに任せて、私は芸術家の後援や家門の作品購入などで暮らせということか。』
不幸なことに、ピエロはメディチ家の没落の大きな元凶となる。
家門を率いる器ではなく、力量も野心もすべてが不足している人物。
だから父ロレンツォの考えに従うだけというのは、よい選択ではなかった。
「お父さん、私は学問や芸術よりも、銀行業や交易にもっと関心があります。」
「銀行業だと?」
一瞬ロレンツォの目に期待感がよぎったが、すぐに諦めの表情に変わった。
ロレンツォ自身は銀行業に関心がないので、ルチオが代わりに引き受けてくれれば心強いことは確かだった。
『しかし家門の主要財産を管理する仕事だ。クラリーチェが反対するのは目に見えている。』
だから父ロレンツォが助けられる部分ではない、ということだ。
『ならば、自分の力で資本を興し、正当な資格を得てみせるまでだ。』
ロレンツォが残念そうにしていると、ルチオはそっと口を開いた。
「その代わり、大学入学のために家庭教師の授業は真剣に受けます。あわせて少し資金を支援してくだされば、私なりに収益を上げてみせます。」
「お前はまだ十二歳だ。体格が大きいからといって、大人の真似をして金を稼げるわけがなかろう。」
ルチオが同年代の子供たちと違い、大人びているのは事実だ。
だがロレンツォは、やはり心配だった。
「できることだけをやります。そして家門に迷惑をかけるようなことはしません。」
すでに決意の固まった目をしていたため、ロレンツォもそれ以上止めるつもりはなかった。
ため息をついて話を続けた。
「お前の進取の気性は見ていて気持ちがいい。だが授業の成績が悪ければ、父として叱るつもりだ。」
「授業の成績も疎かにしません。」
前世で現代の学問を学んだルチオにとっては、問題のない話だった。ただしラテン語は真剣に学ばなければと思った。
「学業の成果は家庭教師を通じて随時確認するつもりだ。ただ資金については、後でこのマルコと相談するようにな。」
そうして父が出て行ったあと、ちょうど召使いから伝言が届いた。
レオナルド・ダ・ヴィンチが「例の物」をすべて作ったので食堂に来てほしいという連絡だった。
***
食堂はめちゃくちゃになっていた。
剣を持った若者たちがレオナルドを囲んで大声を張り上げていた。
「このホモ野郎め!もう市役所に告発したぞ。お前は地獄の炎で裁かれるべきだ!」
「一体なぜこんなことを?私は神に誓って恥ずべきことはしていない!あなたたちは誰で、なぜ私にこんな脅しをするのですか?」
ルチオが路地に入ると、その騒ぎが目に飛び込んできた。
そこには以前ルチオと揉めた兵士の姿もあった。彼は私服を着て群衆の中にいた。
『パッツィ家?間違いない、パッツィ家だ。』
彼らは大声で叫んだ。
「我々はフィレンツェを悪の泥沼から救い、罪と悪業を焼き払って浄化しようとする青年たちだ!」
「出ていけ!私はそんなことはしていない!」
万一の武力衝突に備えて、剣に手を添えた。
『レオナルド告発事件の被告の中には、メディチ家の人間もいたな。パッツィ家の奴らの仕業だったのか。』
1476年、レオナルドを含む4人の青年が同性愛の嫌疑で告発された。
この4人の中には、メディチ家の人間も含まれていた。
後世になって、レオナルド・ダ・ヴィンチが実際に同性愛を好んだという仮説が唱えられたが、馬鹿げた話だった。
学界がPCの立場から、些細な証拠をつなげて作った小説だと、彼は一蹴した。
そしてフィレンツェに来てレオナルドに直接会ってみると、さらにその確信が強くなった。
この騒動は、自由な空気が広がるフィレンツェを不快に思っていた旧貴族勢力の陰謀だったということ。
特にパッツィ家が主導して仕組んだ事件だという確信だった。
「お前が言い逃れしても無駄だ。お前のようなやつはこの街から追放されるべきだ!」
「出ていけ!」
若者たちはテーブルや椅子を蹴飛ばし、投げつけた。
ルチオがこのままではまずいと立ち上がろうとした瞬間、若者たちはやることを終えたかのように、すっと引き始めて姿を消した。
食堂に駆け寄ってみると、レオナルド・ダ・ヴィンチは絶望的な表情を浮かべていた。
「レオナルド、大丈夫ですか?」
食堂の隅に隠れていたボッティチェッリがひょっこり現れて言った。
「お前は本当に予言者か?」
「ですよね。結局、私が懸念していた通りのことが起きました。」
ボッティチェッリはルチオを不思議そうに見た。
「つまり、こうなるってどうしてわかったんだ?」
ルチオは倒れた食堂の椅子を引き寄せて座った。
「そんな噂が広まれば、結果は見えているじゃないですか?だからモデルの依頼は慎重にすべきだったんですよ。」
「くっ、言い返す言葉もないな。」
「それはともかく、お二人。この事件、何かおかしくないですか?」
「何がだ?」
「さっき来た連中の中に、見覚えのある顔はありませんでしたか?」
そのとき、ボッティチェッリが訝しげな表情を浮かべながら言った。
「そ、そういえば……かすかに思い出せるような……。」
「え?」
「イーモラ市役所で働いていた使用人を見たような気がするんだけど?」
「確かなんですか?」
「よくわからない、私も。以前、後援の件でイーモラ市に行ったことがあって、そこで見た人に似てたんだ。」
イーモラ市といえば、教皇庁と関係のあるジロラモ・リアーリオ伯爵の都市だ。
ちょうど2年後、メディチ家に刺客を送った事件の背後でもある。
レオナルドは沈んだ表情でルチオを見つめた。
「とにかく、それが問題じゃないようだ。あの連中が俺を同性愛の容疑で告発したらしい。」
もちろん、ルチオはすでに知っている状況だった。
「潔白なら心配することはありませんよ。」
事件はうやむやになって、証拠不十分で無罪判決が下される予定だった。
「もちろん潔白だ。でもフィレンツェで貴族たちの支援は期待できないと思ったほうがいい。誰が同性愛の嫌疑をかけられた者に仕事を任せるか。」
「それでも、まだ絶望しないでください。何か方法はあるはずです。」
「絶望?俺は現実を話しているだけだ。こんな馬鹿げた噂で法廷で争うなんて。これではフィレンツェを離れて他の都市へ行く方がマシだ。」
本来の歴史でも、レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ公国へと渡り、そこで後援を受ける。
その時、ルチオは静かにレオナルドの言葉に返事をした。
「それなら、いっそ裁判自体が開かれない方がいいですね。」
「少年、それは夢みたいな話だ。」
「そんなことないですよ。父さんなら無実として終わらせられると思います。」
「父さん?お前の父は誰だ?」
「ロレンツォ様です。」
「なに?お前がロレンツォ閣下の息子だったのか?」
「ご存じなかったんですか?」
ボッティチェッリも驚いた目でルチオを見て、言った。
「どこかの分家か、家臣の私生児かと思ってたよ。」
「はい、私は私生児であり、現在ロレンツォ様の養子です。」
「ロレンツォ閣下が最近養子を迎えたという噂は聞いていたが、それがお前だったとは……」
「だから私を信じて、少しだけ待っていてください。父には難しいことではないはずですから。」
「子どもに無理なお願いをする恥知らずにはなりたくなかったが……今回は仕方ないな。少年、今回だけ頼ませてくれ。」
レオナルドの力のない声にも、ルチオは依然として元気よく応じた。
「そのお願い、引き受けました。あまり落ち込まずに待っていてください。近いうちに良い知らせを持ってきます。」
ルチオは何かを思い出したように慌てて立ち上がった。
「あっ、いけない。髭を完成させたって言ってましたよね?今日はそれを受け取りに来たんでした。」
「あそこにあるよ。持っていきな。」
レオナルドが作ったという「物」は、ルチオを大人に変身させるための髭だった。
ルチオは前回の剣の一件以来、顔をさらして歩くのが不便になり、特別にお願いしていた。
「おお!本物の髭みたいですね。作るの大変だったでしょう。」
「難しくはなかったよ。耳にかけて、リングを髪の毛でうまく隠せば完璧に見えるはずだ。うまく使いな。」
「ありがとうございます。これで少しは楽になりますね。それでは、行ってきます。」
そう言って、パタパタと走って出て行った。
「あの子はいつも風のように現れて、風のように去っていくな。」
ボッティチェッリがルチオの後ろ姿を見つめながらつぶやいた。
「まさか本当に神の予言を伝えに来たやつじゃないだろうな?」
***
ルチオはすぐさまロレンツォの執務室を訪ねた。
執務室には数人が集まり、何かを議論していた。
しばらくして人々が帰ると、ルチオは父の執務室に入った。
「ルチオ、どうしたんだ?」
「お父さん、お話ししたいことがあります。」
「ん?なんだ?」
「私にとっての師匠にしたい方がいますが……」
「お前の人文学とラテン語の師匠は、私がすでに考えてある。アンジェロ・ポリツィアーニという立派な学者だ。」
「あっ、フィレンツェ大学にいらっしゃる方ですね?フィレンツェでは賞賛されている詩人ですよね。」
ロレンツォと親しい人文学者なら、ルチオはすべて知っていた。
ボッティチェッリが描いたアンジェロの肖像画もよく見ていたので、顔にも見覚えがあった。
しかしロレンツォはかなり驚いた表情を見せた。
「お前がアンジェロをどうして知っているのだ?」
「彼の思弁的でプラトン主義に基づいた教えについてはよく存じています。彼の詩の世界も、清涼感に溢れていると評されていますよ。」
「アンジェロの教えをすべて知っていると?どうやって触れたのだ?」
「邸宅に先生の本がかなりありましたよ?でも父さん、アンジェロ先生も良いですが、師匠が一人でなければならない決まりはありませんよね?」
ちょうど執務室に、設計図のようなものを持った誰かがシルビオ執事と一緒に入ってきた。
しかしロレンツォはすぐに来客を下がらせた。
「シルビオ、その件は後にしよう。」
そう言って執務室の扉を閉めると、古びた本がぎっしり詰まった本棚にもたれかかった。
「お前が師匠にしたいというのは誰だ?」
「ヴィンチ村出身のレオナルドです。」
「お前が有名な画家だと言っていたあの者か。彼をお前の先生として雇えばいいのか?」
「はい。でも父さんが知っておくべきことが一つあります。」
「知っておくべきこと?それはなんだ?」
ロレンツォは穏やかで真面目な人柄だったが、決して甘い人物ではなかった。
レオナルドを雇う前に、教師としてふさわしいかどうかを綿密に調査するつもりだった。
「その方は現在、同性愛の容疑で起訴されています。」
ロレンツォは顔をしかめた。
「ルチオ、なぜそんな者を……」
「レオナルド先生の才能を妬んだ者たちの仕業に違いありません。」
「どうしてそれが分かる?」
「今回、同性愛の容疑で起訴された青年たちの中には、我が家門の者もいます。」
「なんだと?」
「ヴィンセンチオ、父がジョヴァンニのヴィンセンチオも被告人です。」
この時代の裁判は、あらゆる人々が見物に集まる中で行われた。
そのため、無罪判決を受けても長く噂に苦しめられ、人々の口に上り続けることになる。
レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェで名声を失って去らねばならなかったのも、こうした理由によるものだった。
「ヴィンセンチオが同性愛だと?そんな子ではない。私は保証する。」
「私も、レオナルド先生がそういう方ではないと思っています。」
その瞬間、ロレンツォはルチオが言わんとしていることを理解できた。
レオナルドもまた、事実とは関係なく陥れられたに違いないという確信だった。
「ふう、そうか。この件は無罪に終わらせよう。しかし、レオナルドの無罪が神の前で証明されたわけではない。」
「でもこの事件が、競争相手の家門によって意図的に仕組まれたものだとしたらどうでしょう?」
ロレンツォは呆れたように、ふっと笑った。
「お前が十二歳の子供とは思えんな。そんな話はどこで聞いたのだ?」
「レオナルド先生を責め立てていた中に、パッツィ家の私兵がいました。」
「パッツィ家だと?兵士にすぎない者をどうしてお前が知っている?」
「少し前、市内でその者といざこざがありました。」
ロレンツォの顔に驚愕が広がった。
「まさか、パッツィ家の作業員や兵士を手玉に取ったという少年が、ルチオ、お前だったのか!」
ルチオはそっと微笑むだけだった。