三匹のカエル(1)
相手はメディチ家の宿敵とも言えるパッツィ家の私兵だった。
事が大きくなるのは問題だが、パッツィ家の兵士に侮辱されるのはもっと大きな問題だ。
剣を手にしてゆっくり近づいてきた兵士が、やがて目の前に立った。
「平民のくせに、構えはなかなかじゃないか。ふふ。」
兵士は興奮した様子で舌なめずりをすると、すばやく飛びかかってきた。
軽はずみに動かず、隙をうかがっていたところに突然の攻撃。
キィン―
ルチオが前世で長く学んでいたフェンシングのフルーレとはかなり異なる戦い方だ。
だが、こんなふうにリーチが長くて重いロングソードの剣術も学んでいたため、未知ではない。
とはいえ、まだ体力のないルチオの身体ではロングソードでの戦いはきつい。
カンッ―
連続して剣がぶつかると、兵士は熟練の手つきでルチオの剣を奪おうとした。
しかしルチオはすばやく剣を引き、兵士の手が届かないようにかわした。
『こんな鈍い剣じゃ、しっかり防具を着た兵士には太刀打ちできない。』
こうして時間を引き延ばすほど、体力がなく体格も小さいルチオには不利になる。
だから、方法は一つしかない。
『こんなポンコツな剣でも有効な攻撃は突きだけだ!』
スッ―
ルチオは姿勢を低くし、大きく一歩踏み出して腰と肩をひねった。
シュッ―
ロングソードがさらに遠くまで届き、兵士のヘルメットと胴体防具の隙間に突き入った。
フルプレートアーマーだったら防がれていただろうが、兵士の軽装備には隙が多い。
グシャッ!
「ぐっ!」
冷たい剣が首をかすめ、兵士は焼かれるような痛みに思わず剣を手放した。
キンカラ―ン!
兵士の首の側面に浅い傷ができ、血が流れた。
「くっ…なんだ?こんな突き方もあるのか?」
「もうお互い、このへんで引きましょう。」
兵士が首を押さえて退くと、ルチオは剣を下ろしてそう提案した。
見物していた数人が歓声を上げた。
「うわっ!子供が勝った!」
「一体誰だ?パッツィ家の兵士をこんなに簡単に倒すなんて。」
人々がわっと集まってきた。
『これ以上騒がしくなってはまずい。』
ルチオは慌てて剣を布で包むと、メディチ邸の方へ駆けだした。
『ロングソードは体格に合わないし無駄に長い。レイピア系の剣はまだ歴史に登場していないし…』
ルチオはむしろ護身用のサイドソード(片手剣)を持ち歩いた方が良いと考えた。
この日以降、ルチオは外出するたびにパッツィ家の人間がいないか注意して歩くようになった。
***
中世ヨーロッパでは15歳から大人として認められる。
だが、現実にはほとんどの子どもが「小さな大人」として扱われていた。
12歳のルチオが大人のように振る舞っても、誰も不思議には思わないのだ。
実際、メディチ邸の使用人たちの中にも子どもは多かった。そして彼らはとても忙しかった。
『大人の労働量とほとんど変わらないじゃないか。』
しかも、人数をかけて成し遂げる仕事がほとんどだ。
『人々の暮らしは、いまだに中世にとどまっている。』
文化と芸術を除けば、まだ中世から抜け出せていないということだ。
ルチオはルネサンス時代の生活を間近に観察することに大きな喜びを感じていた。
夕食の時間になると、父ロレンツォが夕食にルチオを招いた。
長女ルクレツィア、次男ピエロ、その次女マッダレーナが席に着いた。
そして末っ子のジョヴァンニは母クラリーチェの腕に抱かれていた。
ジョヴァンニは後に教皇レオ10世となり、免罪符発行の中心人物となる。
ルチオは歴史的な人物が目の前でにこにこしている姿に深い感動を覚えた。
『フィレンツェの有名人たちが次々と出てくる…このままじゃ幸せすぎて死んじゃいそうだ。』
この子を正しく導いて免罪符が発行されないようにすれば、宗教改革は果たして起こるのかどうか?
食器の形や夕食の料理の中にも珍しいものが多かった。
『全部カメラに撮っておきたいくらいだ。』
ソースを使った料理はほとんどなく、フォークやナイフのようなものも置かれていなかった。
この時代の食事はやはり手で食べるのが基本だった。
そのため、きれいに手を洗う水を用意するのに使用人たちは忙しく動いていた。
ロレンツォは食事をとる家族を見つめながら、元気よく話を始めた。
「こうして皆で夕食を囲むのも久しぶりだな。最近は忙しくて、時間が取れなかったからな。」
「あなた、いくら忙しくても、子どもたちのことはもう少し気にかけてくださいな。」
「うん、そうしよう。」
クラリーチェの不満げな言葉に、ロレンツォは一家の主として申し訳なさそうにした。
そして優しい目でルチオを見つめた。
「ルチオ、すっかり元気になったようだな。」
「はい。」
「ちょうど良い機会だから、この場を借りて家族と家の皆に伝えよう。」
突然のロレンツォの宣言に、使用人や執事たちが一斉に彼を見つめた。
「今日からルチオを、我が家族の正式な一員として迎えることにした。」
「えっ…?」
「ルチオ、お前はこれからメディチ家の一員として、健やかに育ってくれればそれで良い。」
ルチオ一人が注目されて、少し気恥ずかしかった。
そんな中、ピエロがルチオに微笑んだ。ルチオも笑みを返しながら思った。
『不運児ピエロ…幼いころはこんなにも純粋だったんだな。まさか自分がこの子の兄になるとは、妙な気分だ。』
歴史上では、ピエロはあまりにも運が悪く「不運児」というあだ名が付けられていた。
未来を知るルチオがいる以上、ピエロの不運はかなり軽減されるはずだった。
夕食が終わりに差し掛かったころ、「シルヴィオ」という執事が近づき、静かに声をかけてきた。
「坊ちゃま、裏庭で少しお話をしてもよろしいでしょうか?」
理由はわからなかったが、父ロレンツォに仕えている執事の頼みなので素直に従った。
そして、木々と彫像が並ぶ裏庭で、思いがけない話を聞かされた。
「亡くなった私の母が実は乳母だったんですか?」
「はい。」
「では、私の本当の両親は誰なんですか?」
「まだ誰にも知らせていない事実ですが、お父上はロレンツォ様です。」
「あっ…!」
ルチオは養子縁組の事情をすぐに理解した。
乳母が亡くなったから、ロレンツォが急いで息子を家門に引き取ったのだ。
自分の血縁であることを隠したまま。
「では、お母様は……?」
「それは申し上げられません。いずれ知る日が来ることをご理解ください。」
ルチオには記憶はあるが、実際のルチオの魂ではないからだろうか?
あまり怒りは湧いてこなかった。むしろメディチ家に隠された物語に興味が湧いた。
『ロレンツォがどうしてあれほど私に愛情を注ぐのか分かった。そして実の母はおそらくルクレツィア・ドナティだろう。』
ロレンツォは結婚前、ルクレツィア・ドナティとなんと8年間も交際していた。
二人の間に子どもがいたという記録はないが、未婚のまま出産したという事実が歴史に残れば、それがむしろ問題だ。
キリスト教的価値観が蔓延していた世界、中世ヨーロッパなのだから。
「分かりました。とにかく、こうして話してくださって感謝します。」
「感謝だなんて。ロレンツォ様の血縁にふさわしく扱えなかったことの方が申し訳ない限りです。」
シルヴィオは改めて周囲を確認してから、ルチオに低い声で話しかけた。
「昨日、ロレンツォ様が坊ちゃまをあらゆる面で支援するよう仰いました。困ったことがあれば、必ず私に仰ってください。近いうちに従者もお付けしますので、少しだけお待ちください。」
ルチオは行動の幅が広がることに満足した。
これでルネサンス時代をもっと広く深く楽しめそうだった。
***
ルネサンス期には、姓を持たない人がかなり多かった。
レオナルド・ダ・ヴィンチという名前も、ヴィンチ村出身のレオナルドという意味に過ぎない。
「おい、少年。なぜ私の出身や絵にそこまで興味があるんだ?」
「レオナルドは天才ですから。将来有名になる人の今が気になるのは当然じゃないですか?」
「私はまだ代表作すらないぞ。師匠や工房の仲間たちと一緒に描いた『受胎告知』くらいだ。」
レオナルドとボッティチェッリが経営する食堂は面白い看板を掲げていたが、路地裏にあって見つけにくかった。
それでもルチオはどうにかして、この二人の画家の店を訪ねた。
ボッティチェッリは栓を抜いてワインを注ぎながら元気よく笑った。
「将来有名になるって?何言ってんだ。俺たちはもうけっこう有名なんだぜ!」
アレッサンドロ・フィリペッピは、「小さな酒樽」という意味のボッティチェッリというあだ名らしく、さっそくワインを飲み始めた。
「サンドロ、酒は後にしたらどうだ?ボッティチェッリと呼ばれる理由を少年に見せたいのか?」
ルチオは気になって尋ねた。
「え?何か特別な理由があるんですか?」
「酒が強かったらマグナム(倍サイズの酒樽)って呼ばれてたかもな。ろくに飲めないくせに毎日飲むからボッティチェッリなのさ!」
ボッティチェッリは呆れたようにレオナルドを睨みつけ、手を振りながらイタリア風のジェスチャーを熱心にしていた。
食堂は相変わらず客が来ず、レオナルドが考案した奇妙な料理はまったく売れていなかった。
ルチオは笑みを浮かべて二人を見つめたまま、話を続けた。
「冗談じゃなく、お二人の絵から神の力を感じました。」
レオナルドは信じられないといったように苦笑した。
「はは、それは大げさすぎるだろう。」
ボッティチェッリも口を挟んだ。
「げほっ、急にやって来てそんなことを言うなんて、意図は何だ?」
「お二人は天才画家です。だから絵を描くべきです。こんなふうに食堂なんてやってる場合じゃありません。」
ルネサンスは、この二人をはじめとしたフィレンツェの天才たちの背に乗って始まる。
そんな天才たちが閑古鳥の鳴く食堂で時を無駄にしている姿が、ルチオにはもどかしく思えた。
食堂が繁盛するならともかく、2年後には潰れてしまうではないか。
レオナルド・ダ・ヴィンチは呆れた表情をした。
「食堂がどうした?俺は絵と同じくらい料理にも自信があるんだぞ。」
「…そのメニュー構成では料理の才能があるとは到底言えませんけど。」
「なぜ私の創造的な料理を食べてもいないのに否定するんだ?待ってろよ。」
レオナルドは食堂の片隅で何かを揚げ、黒ずんだ料理をルチオの前に出した。
「さあ、食べてごらん。パン粉をまぶして揚げた鶏のトサカ料理だ!」
ルチオは仰天した。
「こんなの誰が食べるんですか!」
カエルのスープ
ヘビのロース料理
羊の頭のケーキ
パン粉をまぶして揚げた鶏のトサカ料理
オタマジャクシ料理
冬眠ネズミ料理
これがこの食堂のメニューだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチの歴史的記録は冗談か、彼個人の実験だと思っていた。
それが現実だったと知ったときの衝撃といったら。
ボッティチェッリも言葉を添えた。
「俺が…げほっ、いつも酒に溺れてなかったら、こんな料理には手を出さなかったさ。」
「つまり、食べたってことですね?」
ボッティチェッリは煮え切らない表情を浮かべた。
「悪くはなかった。げほっ。」
ルチオはしばしボッティチェッリに同情し、再びレオナルド・ダ・ヴィンチに言った。
「レオナルド、あなたが創造的なのは認めますが、料理に創造性は持ち込まない方がいいですよ。」
「料理とは、世の中にない味を創り出す手段だというのが私の哲学だ。あのメニューは新しい味を創った証拠だ!」
「でも、人々がこの食堂に来ないということは、新しい味を求めていないということじゃないですか。」
「君は本当に口が達者で……」
レオナルド・ダ・ヴィンチは痛いところを突かれたように苦しげな顔でルチオを睨んだ。
「食堂を繁盛させたいなら、お客を引きつけるメニューが必要です。」
「私のメニューを変えるつもりはない。」
「はあ、それじゃあ新しいメニューを追加するのはどうですか?」
「それくらいなら許そう。でも何を追加すればいい?」
「人々がよく求める、普通の料理です。」
「つまり、私のメニューが普通じゃないって言いたいのか?神はすべてのものを人間が口にして食べられるようにされたのだ。」
「ウート・シント・ボビス・イン・エスカム(それらをあなたたちの食物とせよ)。創世記1章29節ですね。」
ルチオが突然ラテン語を唱えると、レオナルドは驚いた目で見つめた。
もちろん、ルチオは前世から覚えていた聖句だった。
『聖書の有名な一節くらいならいくつか覚えているさ。』
その事実を知らないレオナルドには、ルチオが非凡に見えた。
ラテン語を流暢に操り、聖書の句を暗唱できるとは、12歳ではなく22歳だとしても信じがたいことだ。
「お前はいったい何者なんだ?」
「言ったじゃないですか。メディチ家の私生児だって。」
「似たような境遇だから愛着が湧くな。ところで、本当に私のモデルになる気はないのか?」
「レオナルド、通りすがりの美男子にモデルを頼むから、変な噂が立つんですよ。このままだとあなたの将来に暗雲が垂れ込めるかもですね。」
「今や私に予言を授けるつもりか?」
「予言とは言いませんが、そう思っていただいても構いません。」
実際、レオナルドは同性愛の疑いで告発され、かなりの苦労を味わった。
その疑いのせいでフィレンツェでは一切支援を受けられなかったのも歴史的な必然だった。
そしてルチオは、歴史を変えてでもこの天才をフィレンツェにとどめたかった。