コーヒーチェーン (3)
日差しが強い季節がやってきた。
パオロがルチオにそっと耳打ちした。
「もう開店の時間です、ご主人様。」
外は人々でいっぱいだった。
遅れて開店したら、どんな不満を言われるかわからなかった。
『人が多すぎて、オープンイベントなんて夢のまた夢だな。』
21世紀の資本主義の力で客を呼び込もうとも思ったが、すでに集まりすぎて意味がなくなってしまった。
「わかった。開けよう。」
ルチオは入口の扉を開けた。
一番前に立っていた人々が興奮した表情でルチオを見つめていた。
その視線を受けながら、ルチオは宣言した。
「アンジェロ・ネロ、これより営業を開始します!」
こうして、コーヒー・カテナの最初の店舗が門を開いた。
「おおお!」
「どけ!俺が先だ!」
アンジェロ・ネロがオープンするとすぐに全ての席が埋まり、瓶にコーヒーを詰めようとする人たちが長い列を作った。
「感動的です、ご主人様。これまでの苦労が無駄じゃありませんでした。」
ルチオは感激した様子のパオロを見て不思議に思った。
「うまくいくのは目に見えていたじゃないか。カエル食堂だって成功したしな。予想をはるかに超えたが。」
レオナルドもルチオに近づき、感想を述べた。
「初日だからうまくいってるだけかと思ったけど、これからも大丈夫そうだな。また来たいと言ってる人が多いし。」
「レオナルドが手伝ってくれたおかげですよ。中を見れば、まるで精魂込めて作られた貴族の邸宅のようです。」
なんと、レオナルド・ダ・ヴィンチが積極的に手を入れたインテリアだ。
今後オープンする店舗も同じように飾る予定なので、成功は約束されたようなものだった。
***
ロレンツォは知人の招待で彼のコーヒーショップを訪れた。
それは、ルチオがコーヒー・カテナ形式で整えたアンジェロ・ネロの支店だった。
大規模なコーヒーショップの内部は、商業スペースとは信じられないほど華やかだった。
あちこちに置かれた彫刻や、壁にかけられた絵画は、ここがコーヒーショップなのか美術館なのか混乱させた。
実際、フィレンツェの華麗な芸術作品は公的機関や教会に偏っている。
商業スペースを芸術作品で飾るのは、ロレンツォにとっても初めての体験だった。
ロレンツォは知人にそっと尋ねた。
「君のコーヒーショップは開店したばかりと言っていたね?最近はどうだい?」
「話にもならんよ。毎日毎日、客の波と戦うのに必死だ。」
ロレンツォが訪れたのは営業終了後の夜だった。
これだけ見ても分からないが、数時間前までは大変な騒ぎだったらしい。
「そんなにうまくいっているのか?」
「君は家でコーヒーを飲むからわからないだろうが、営業時間中は空席が全くないほどだ。」
「それは良かったな。おめでとう。」
「ありがとう。全部君のおかげだ。」
「私が何をしたというのだ。」
「君の息子を紹介してくれたじゃないか。あれは本当に幸運だった。」
「私はただ一言伝えただけだ。」
「その一言がありがたいのだよ。君も私の事情を知っているだろう。」
「羊毛投資の失敗のことか?君が一度の失敗で潰れる人間ではないだろうに。」
「だが、再起の機会はなかなか得られなかった。そんな時に君がコーヒーショップを勧めてくれたのだ。」
知人はロレンツォを掴み、涙を浮かべた。
「君と君の息子が私を救ってくれた。私にとって救世主以外の何者でもない。」
「全く、馬鹿なことを言う。」
「このまま商売が続けば、二、三か月で借金を全額返済できそうだ。」
「それは本当に良かった。体の具合は大丈夫か?」
「大変だが大丈夫だ。家族全員が手伝ってくれているので、仕事をしながらも笑顔になれる。」
ロレンツォは知人の満面の笑みに安心した。
もともとルチオが成功するとは思っていたが、知人に気軽に勧めるのは簡単ではなかった。
万が一失敗したらどうするのか。崖っぷちにいる人を突き落とすようなものだ。
『息子のおかげでいい思いをしているな。』
なぜか澄んだ夜空の星が一層輝いて見えるロレンツォだった。
***
「ご主人様、アントワープからの緊急の伝令です。」
差出人は商人イブラヒム・ハサンだった。
「何事だ?支払い請求書なら全て発行済みだが?」
しかし、手紙を開いたルチオは呆れた表情になった。
『ついにブルッヘ支店がやらかしたか。』
手紙の内容はこうだった。
イブラヒムは他の貿易のために船をアントワープへ持って行った。そして交易品を購入しようとした。
だが、メディチ銀行ブルッヘ支店から金貨が支払われなかったという。
ルチオは瞬間的に怒りが込み上げるのを感じた。
「一体いくら要求したというんだ。何だ、たった1万フィオリーノか?」
1万フィオリーノといえば、現代の日本円に換算しておおよそ1億円に相当する金額だ。
いくら小規模な支店でも、この程度の金額を支払えないのは銀行として機能していないのと同じだ。
「いや、たった1万フィオリーノを用意できないとは……。」
現在、ブルッヘ支店の支店長はトマソ・フォルティナリという人物だった。
この人物はロレンツォの祖父にあたるコジモ・デ・メディチの家臣だった。
コジモは彼の人柄を考慮し、高い地位には就けなかったが、コジモの死後にブルッヘ支店の支店長まで昇進したのだ。
ルチオは憤慨しながら代表室を行ったり来たりした。
『ブルッヘ支店長があんな人物だとは知っていたが、まさかイブラヒムと関わるとは。』
パオロはルチオがここまで激怒する姿を初めて見たため、しばらく様子をうかがった。
そしてルチオが考え込んだ頃、慎重に口を開いた。
「ご主人様、1万フィオリーノは大きな金額ですが、他の支店の金貨を集めれば支払い不可能な額ではありません。」
「パオロ、それより大きな問題は銀行が信頼を失ったことだ。」
「そ、そうですね。信頼がなければ銀行の存在理由もありませんから。」
「我々の商会がメディチ銀行との取引を断っても構わない状況だということだ。」
しかし、今は状況を論じている場合ではなかった。
今すぐ何かをしなければならなかった。
「パオロ、ここからアントワープまで移動するには、どの手段が一番早い?」
「船が最速だと思われます。」
「行くのにかかる時間は?」
「最適な速度で行けば、2週間ほどです。」
馬に乗って早急に手紙だけを届けるなら別だが、金貨を1万枚運ぶなら船便が最善だ。
「そうするしかない。今すぐ1万フィオリーノをイブラヒム様に送ることが、信頼を守る道だ。」
「しかし船は危険な部分もあります。海賊も多いですし、風浪や嵐も心配です。」
ヨーロッパの気象が急変するのは主に秋と冬だ。
今は夏の始まりなので、嵐を心配する時期ではない。
ならば、海賊対策だけすればいい。
「軍艦を手配しろ。費用は気にするな。」
「ご主人様、それでは本当に船代より費用がかかってしまいます。」
「今信頼を失えば、数百万フィオリーノの損失を被るんだ!むしろこれで収拾できるなら安いものだ!」
「他の支店に手紙を送り、ブルッヘへ金貨を送らせる方がいいのでは……。」
常識的に考えれば、パオロの意見が正しかった。
しかしルチオは、この時期のメディチ銀行の支店がいかに脆弱だったか知っていた。
手紙を受け取った支店の中で、本当にブルッヘへ金貨を送るところがどれだけあるだろうか。
無駄な時間の浪費だ。
ルチオは決断した。
「それではだめだ。私が言った通りに準備しろ。一日でも早く行く必要がある。」
パオロに何度も念を押した後、ルチオはその足で父のもとへ向かった。
***
「何だと?ブルッヘ支店の不備?私の聞き間違いではないか?」
ルチオが怒る姿を見るのは、ロレンツォにとっても初めてだった。
しかし、その怒りの理由が銀行の件だとは夢にも思わなかった。
「はい。たった1万フィオリーノすら支払えない状態に陥っています。近いうちに破産する可能性もあります。」
メディチ銀行の支店は、この時期すでに財政的な危機を迎えていた。
そして結局、10~20年以内にすべて破綻してしまう。
「破産とは……。」
ルチオを全面的に信頼しているロレンツォだった。
しかし銀行の不備という話は唐突で、柔らかく対応することはできなかった。
「一体どういうことだ?ブルッヘ支店は問題がないと聞いていたのに、なぜ突然そんなことを言う?」
「問題があります。1万フィオリーノは確かに大きな金額ですが、支店が支払えない額ではありません。」
「お前の言う通り、1万フィオリーノは大きな額だ。なら、他の支店から協力を得れば済む話ではないか?」
ブルッヘ支店に金がないのは、支店長のトマソ・フォルティナリが横暴を繰り返したせいだ。
銀行の金で贅沢な生活をし、勝手に貸し付けをしていた。
特に、ブルゴーニュ公に担保なしで巨額の融資をしたことが決定的だった。
ルチオはさらに衝撃的な話を切り出した。
「正直、他の支店も無事だとは言い切れない状態です。」
「他の支店も?そう考える根拠があるのか?」
「根拠はありますが、今ここでお話しするのは控えます。」
父が銀行に無関心なのに、支店長たちが清廉に経営するはずがない。
それは、怒りが完全に収まってから話すべきことだ。
「ふむ、それほど深刻なのか……。」
養子に来て以来、一度も父に強く反発したことがない息子だった。
しかし、今回の銀行問題については頑なな姿勢を見せており、ロレンツォとしても軽視できなかった。
あの機転と優秀さで宗教裁判を逆転させた子だ。
この子の言葉を一度は真剣に受け止めるべきではないか、と思った。
「とりあえず、急ぎの1万フィオリーノはどうやって支払うつもりだ?」
「まず本店から金貨を引き出し、船でアントワープまで運ぶ予定です。」
「そこまで……それでは相当な輸送費がかかるのではないか?」
「商人の信頼を失うより深刻な損失はありません。」
ロレンツォは感慨深くなった。
彼の曽祖父ジョヴァンニは、当時の教皇に頑固に投資し、信頼を守った。
祖父コジモが数々の不文律を作ったのも、信頼を守るためだった。
ルチオはメディチ家のこの歴史を知っていたが、それ以上に前世の影響が大きかった。
21世紀の社会は信用社会であり、信用を失えば個人も法人も生き残れなかった。
だからこそ、顧客の信頼を失う行動は絶対に許せなかった。
ロレンツォは続けた。
「お前の望む通りにやれ。ただし、ブルッヘ支店の問題点もお前自身が証明するのだ。」
ロレンツォの言葉は、確かな証拠を集めよという意味だった。
「承知しました。代わりに支店を調査する権限もください。」
「よかろう。調査の際には私の名を使え。用途の広い命令書を用意してやる。」
本来ルチオは、今回の金貨輸送にパオロを責任者として送るつもりだった。
だが、ロレンツォが命令書を渡すと言ったので、軍艦に自ら乗るしかなくなった。
『ブルッヘ支店に行って、トマソ・フォルティナリの不正の証拠を必ず手に入れなければならない。』
忙しい父をブルッヘまで動かすほどの罪は大きい。
ルチオの心の中で炎が激しく燃え上がった。