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時代の始まり(2)

ロレンツォ・デ・メディチが目の前に立っていた。


手塚はスターを目の前にしたファンのように胸が高鳴った。


『ロレンツォ・イル・マニフィコ。偉大なる者、ロレンツォと呼ばれた偉人。』


ルネサンスそのものを始めた家、それがメディチ家である。


この家がなければ、ルネサンスそのものが存在しなかったかもしれないほどだ。


手塚が何度も調査し、たびたび参考にし、生涯にわたり文献で研究していた家門。


『その中でも最も大きな足跡を残した者が、今目の前にいる。』


手塚は感激のあまり、言葉を発することができなかった。


「大丈夫か、ルチオ? 危機を乗り越えてすぐに外出したと聞いて、驚かなかったか。」


「ご心配をおかけして申し訳ありません、ロレンツォ様。」


口癖のように「ロレンツォ様」という呼称が自然と口をついた。


しかし、ロレンツォは意外なことを言った。


「ルチオ、私のことを父と呼ぶように、何度も頼んでおらんかったか。」


手塚は何と答えてよいかわからなかった。


『ロレンツォにルチオという息子がいたのか?』


その時になってようやく子どもの記憶がよみがえった。子どもの養父はロレンツォだった。


『いなかった。この子は歴史に記録されていない。』


思い返せば、子どもは病気のままメディチ邸に来て、おそらくすぐに亡くなったようだ。


その子が死んだからこそ、自分が憑依することができたのではないか。


養子縁組が公表される前に亡くなったなら、史実に記録されていないのも当然だ。


『だが、なぜ病弱な子を養子にしたのだろう?』


どうにも頭の中が整理できない。


ロレンツォはルチオの頭を撫でながら話を続けた。


「お前が悩みが多いことはすべて分かっておる。今は何も心配せず、しっかり休むのだ。」


「はい……。」


「ところで、急に外出した理由はなんだったのだ?」


その強い顔つきとは裏腹に、ロレンツォはとても穏やかで心配そうな口調だった。


「寝室にずっと横になっているだけではあまりにも退屈で、少し街を見に行きました。」


「アルドから聞いた。フィレンツェ大聖堂のドーム、そして彫刻家たちの工房にも行ったそうだな?」


「はい。」


「もともと芸術に興味があったのか? 病気のまま来たので、私もお前のことをよく知らなかったな。」


「え? ああ……。」


子どもは母親と同じ病を患っており、一週間前にメディチ邸へと移された。


その間、ルチオは感染病の疑いで隔離されていた。


だからロレンツォも見舞いに来ることができなかった。こうして会話を交わすのも一週間ぶりだ。


手塚は咄嗟に思いつくままに話を作った。


「ドナテッロの彫刻や、サンドロ・ボッティチェリやレオナルドのような有名画家たちの作業が気になったのです。」


「ボッティチェリ、レオナルドか……将来有望とはいえ、有名とは言い難い画家たちをどうして知っておるのだ?」


「すでにボッティチェリはメディチ家の依頼を受けており、彼の友人であるレオナルドは『受胎告知』で名を上げています。」


ロレンツォは興味深そうな目でルチオを見つめた。


「いつから彫刻や絵に興味を持ったのだ? 芸術教育を受けたことがあるのか?」


これもどうごまかせばいいか……。


『いっそ母親のせいにしよう。』


彼らはルチオの母親をよく知らないようだったからだ。


「以前から母が画家たちの仕事について話してくれていました。」


ロレンツォはルチオの目を見て、しばし考えてから言葉を続けた。


「そうか。芸術に興味を持つのは良いことだ。早く体を治すのだ。お前に見せたいものがたくさんある。」


ロレンツォは執事にあれこれと指示をして、部屋を出ていった。


手塚は何とかうまく切り抜けたようで、ほっと息をついた。


子どもの部屋を出たロレンツォは、執事のシルヴィオに話しかけた。


「あの子は年齢の割にとても大人びているな。」


「はい、まるで大人のようでした。」


「そうだ、私も成人と話しているような気分だった。貴族の教育を受けたようには見えないが、妙に落ち着きがあって、不思議な子だ。乳母が平民の子のように育てたと聞いているが?」


「もしかすると生まれ持った才能かもしれません。血筋が血筋ですし。乳母は出生については語っていなかったようです。」


ロレンツォは少し考え込んでから口を開いた。


「出生か……人々はどう思っているのだ?」


「農民の私生児だった子を、ロレンツォ様が哀れに思って養子にされたと聞いております。」


「そうか。あの子は賢く、素質もあるようだから、近いうちに私の息子として認められるだろう。」


「出生については今後も隠すおつもりですか?」


「そのつもりだ。しかし、あの子には君から少し伝えてくれ。生母に関することは除いてな。」


ロレンツォはルチオの生母を思い出しながら、しばしの間思い出に浸った。


***


数日が過ぎ、手塚はルチオとして生きることにほとんど適応した。


どうせ現代には戻れないのだから、ルネサンス時代のフィレンツェを満喫して生きたいと思った。


ルチオは今日も市内に出かけた。


フィレンツェの街中を歩きながら、華やかな彫刻や建築物を見ては感嘆した。


『一生研究してきたのが無駄だったな。やはり実際に見るのが一番だ。どこを見ても歴史資料だ。』


しかし、時にはフィレンツェを歩き回ることに疑問を感じることもあった。


もはや手塚には論文を書く必要もなく、観光の気分も数日で色あせてしまった。


『そうだな、もう俺も歴史の中の人物にならなくちゃな。この時代をどう生きていくか考えなきゃ。』


40代の教授手塚ではなく、12歳の少年ルチオとして生きていかねばならない。


まずは、少し歩いただけで息が上がるこのひどい体力から鍛える必要があった。


アルドに頼んで肉を増やした食事を持ってこさせ、朝晩に自重トレーニングをした。


数日でルチオの体にはかなり肉がつき、皮膚の下にはうっすらと筋肉もついてきた。


「そして、まさにこういうときに父上がくれたお小遣いが役に立つんだ。」


ロレンツォは執事を通じてお小遣いを支給してくれた。そしてメディチ家らしく、その額はかなり多かった。


鍛冶屋で、そこそこ良い鉄の剣を一振り購入した。


この時代の治安を甘く見てはいけない。


文化や芸術では華やかなルネサンス時代に入ったが、生活面ではいまだ中世のままの世界だ。


貴族や金持ちであっても、兵士の目が届かない場所では自分の身は自分で守らなければならなかった。


今まさにそういう時だ。


「おい、そこの少年。パッツィ家の屋敷の工事があるから、さっさと来て手伝え。」


パッツィ家だと?


『メディチ家に暗殺者を送る家のために、なんで俺が?』


ルチオはしかめっ面をして、声をかけてきた男たちを睨みつけた。


「私は奴隷ではありません。他人の家の工事をなぜ手伝わなきゃいけないんですか?」


ルチオはごく常識的な反応をしたが、この中世社会の常識はそれではなかった。


「何だと、奴隷? このイカれたガキが何言ってやがる!」


一緒にいた体格のいい男が口を挟んだ。


「パッツィ家という名前が聞こえなかったのか? 耳でも悪いのか?」


だがルチオは危機感を抱いていなかった。


「私はメディチ家の人間です。」


「なるほど、なぜそんなに反発するのかと思ったら、メディチ家の下僕だったか。ならば、簡単には帰せないな。」


小説『ロミオとジュリエット』によく出てくる、家同士の争い。


中世イタリアの都市国家では、こうした争いが日常茶飯事だった。


公権力は弱く、治安レベルも低いため、十中八九は喧嘩に発展する。


時には人が死ぬことすらあるが、罰せられることは稀だ。


これが中世の日常というもの。


ルチオはルネサンスのすべてを愛したかったが、このような日常までは無理だった。


体格の良い二人の男が、農具のような棒や武器を手にして少年に近づいてきた。


ルチオは布に包んでいた鉄の剣を取り出し、二人に向けた。


「おやおや、平民のくせに剣なんか持ってるのか?」


「使いっ走りだろう。気にすんな、お前は引っ込んでろ。」


「いや、俺はな、こういう偉そうな奴を見ると一発殴ってやりたくてしょうがなくなるんだよ。」


しばらく自分たちだけで話していたが、再び近づいてきた。


「これ以上近づくと、剣を使わざるを得ません。怪我をする前に引き下がってください。」


「ははっ、もう言葉は要らねぇな。」


突然、鉄のフォークをルチオに振り下ろしてきた。


ルチオはロングソードで受け流し、そのまま一人の男の太ももに剣を振った。


ブスッ――


「うわっ、このクソガキ!」


しかし、鉄の棒で殴られたような鈍い音と、浅い傷だけで血が噴き出るようなことはなかった。


『まだ力が足りないのか、剣が鈍いのか、それとも両方か?』


それでも、一人の男は完全に戦闘不能になった。地面に崩れ落ちて、太ももを押さえたまま立ち上がれなかったのだから。


残った男は、無骨な棒を力強く振り下ろした。


カンカンッ――


剣で何度も受け止めたことを見ると、しっかり鍛えた効果はあったようだ。


ただ、棒とぶつかっても刃こぼれしない剣だったのが、せめてもの救いだった。


『刃も研がれてないゴミを大金で買ったか。』


剣というより鉄の棒に近い代物でも、突き刺すぐらいはできるはずだ。


ズブッ――


剣の先が男の腕に突き刺さり、血が噴き出した。


「ぐっ……!」


ガシャン――


棒を落とした男は、血が流れる腕を押さえながら地面を転げ回った。


「だから怪我をすると言ったでしょう?」


そのとき、遠くから軽装の鎧を身につけた人物が駆け寄ってきた。パッツィ家の私兵だった。


「この野郎ども、仕事もせずになんでまた喧嘩してるんだ!」


「あ、いや、それは……。」


現場に駆け寄った兵士は、すぐに状況を把握し、倒れている男たちを叱った。


「市民には手を出すなと何度も言っただろう! なんでこんなにトラブルを起こすんだ!」


「いえ、その……メディチ家の奴が先に絡んできたので……」


「何だと? この少年が大の男二人に絡んできたって話を、俺に信じろと?」


兵士はしばらく目を光らせたあと、周囲で見物していた人々に尋ねた。


「最初から見ていた人がいれば答えてくれ。この二人の話は本当か?」


「嘘だ!」


「もっともらしいこと言ってるけど、最初に少年を脅したのはあの二人だ!」


兵士は頷いてから、二人の男を振り返った。


「よくも嘘をついたな? 命が惜しくないと見えるか?」


「あ、いえ、そんな……。」


「貴様らのせいでパッツィ家の威信が損なわれるところだった。その代償はしっかり払ってもらうぞ。」


そう言うと、兵士は周囲にいた数人の農民に命令した。


「おい、この連中を担いで、向こうの工事現場まで運んでくれ。」


農民たちは兵士の顔色をうかがいながら、仕方なく倒れた男たちを担ぎ上げた。


やはり平民は武装した者には逆らえない。これが中世の現実だった。


ルチオがそっとその場を離れようとしたとき、その兵士が再び声を上げた。


「お前は何者だ? 本当にメディチ家の人間か?」


やはり面倒な事件には最初から巻き込まれないのが一番だった。


下手に知られたら、ルチオの立場がさらに厄介になるところだった。


「はい。しかし、ご覧の通り通りすがりの者にすぎません。」


「そうか。うちの者が絡んだことについては謝ろう。ただ、お前がどんな奴か分からんから、一緒に来てもらうぞ。」


こういうことだ。


メディチ家の人間を連れて行って、何をするのか。どうせ殴って嘲笑するつもりなのだろう。


「もうお互い誤解は解けたと思ってましたが、私はついて行く気はありません。」


「そうか。態度も不遜だし、いかにもメディチの連中らしくて鼻につくな。」


額に刀傷のある奴だ。傭兵として転々としていた跡なのだろう。


だが、ルチオは特に怯えていなかった。


再び剣を手に取った。


15年間、趣味でフルーレを学んできたわけではないのだ。

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