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時代の始まり(1)

破れて裂けた場所に、元の色とは違う布が重ねられて縫い合わされた跡。


手塚は専門家らしく、一目でそれを見抜いた。


あれがコスプレや撮影用の衣装ではなく、実際に中世の市民が着ていた生活着だということを。


「すごい。まさか本当に15世紀のルネサンス時代とは。論文は確実に通るぞ。」


口にしてから、軽はずみな発言だったことに気づいた。


「現代に戻れるならの話だけどな。」


実際のところ、現代に戻りたいとも思っていなかった。


15世紀のフィレンツェで生きて死ぬのが手塚の夢であり、願いだったからだ。


「いや、こんなことしてる場合じゃない。」


街へ出ようとして、自分が簡単な下着のようなものしか着ていないことに気づいた。


その時だった。


ガチャ。


ドアが開き、誰かが入ってきた。


「ルチオ様、ようやくお目覚めになられたのですね?」


みすぼらしい格好をした男が、心配しているふりをして近づいてきた。


『この子の名前はルチオか?よくあるイタリアの名前だな。』


同時に、ルチオという名前に関連した記憶も思い出される気がした。


農民の私生児だったルチオ、最近亡くなった母親。


ここに来てからはおよそ一週間、名目は養子だった。


病にかかったまま運ばれてきた彼を一週間世話したのは、目の前の使用人アルドだった。


だが手塚にとって、そんなことは重要ではなかった。まずは上着を探す。


「アルド、外出着はどこだ?」


「外出だなんて、いきなり何をおっしゃるんですか?命の危機を越えたばかりで出かけるつもりですか?」


手塚は自分の体を少し調べた。


前世と比べると体力や力は弱くなっていたが、大きな問題はなさそうだった。


「体調は悪くないな。ああ、そうだ。荷物はそのままだろ。」


馴染みのあるように箱に近づき、服を取り出して着た。典型的な平民の服だった。


ドアを出て、階段を素早く駆け下りた。


「どこへ行かれるのですか?いきなり外に出たらどうするんです?」


「フィレンツェ大聖堂のドーム構造を確認しないと。現代ではあの構造は謎だったけど、完成して間もない今ならその秘密を解明できるかもしれない!」


「え?それはどういう意味ですか?」


素早くドアを出た。建物を出ると、まず緑あふれる庭園が目に飛び込んできた。


子供の記憶にも残っている風景だったので、出入口を見つけるのは難しくなかった。


出口を出ると、中央に大きく掲げられた紋章が目に入った。この建物を所有している家の紋章だった。


六つの丸い球が盾の中に円形に配置されたデザインだった。


「あれはメディチ家、しかもロレンツォ・デ・メディチ時代の紋章では?」


手塚は驚いた表情でつぶやいた。


「じゃあここはメディチ家の邸宅、メディチ・リッカルディ宮殿か。」


「リッカルディって何ですか?」


後ろからついてきたアルドが息を切らしながら尋ねた。


なるほど、リッカルディ家がこの邸宅を買ったのはずっと後のことなので、今はまだ単なるメディチ邸だ。


「アルド、今は何年だ?」


「今は1476年ですよ。本当に頭でも打ったんじゃないですか?」


アルドが怪しい目で見ようと、手塚は再びフィレンツェ大聖堂へと顔を向けた。


『フィレンツェ大聖堂が尖塔まで完成してから7年経った時期だ。ドームの内部はきっと新品同然だろう。』


手塚は素早く聖堂の方向へ歩き出した。


「何がなんだかよく分からないけど、とりあえずフィレンツェ大聖堂に行こう。」


「主に祈りを捧げるおつもりなら、すぐ近くにサン・ロレンツォ聖堂がありますが……。」


サン・ロレンツォ聖堂?あそこはメディチ家の家族しか入れない場所じゃないか?


『ということは、自分がメディチ家の一員だということか?でも服は完全に平民のものなのに。』


ルチオという子供の正体とメディチ家との関係を考えれば考えるほど、頭が混乱していった。


手塚はそうした考えを後回しにした。


今はフィレンツェ大聖堂のドームを見に行かなければ気が済まなかった。


***


「全部本物だ!しかもあれはドナテッロの彫刻に違いない。あんなものが街中にそのまま置かれてるなんて!」


フィレンツェ大聖堂に向かう道中、通りに見える彫像は壮大で美しかった。


さらにルネサンス期の実際の貴族や市民たちの姿。


「意外と一般市民の服装が質素というわけでもないな。そして街中に馬や馬車が少ないのも予想外だ。」


「何をおっしゃってるんですか。」


「それにこんなぬかるんだ道だなんて。フィレンツェほどの都市なのに、道を舗装していなかったのか?」


アルドは不満そうな顔で手塚の後をついて回った。


「この平民の私生児は悪魔に取り憑かれてるに違いない。全部ロレンツォ様に報告しなきゃ。」


フィレンツェ大聖堂に到着すると、手塚は嬉しそうに階段を上り始めた。


ここまで来ると、アルドは教会の入り口にある椅子に腰を下ろし、不機嫌そうに顔をしかめた。


「本当に頭でもおかしくなったんじゃないか?聖堂に来たなら祈らなきゃだろ、何で階段を上るんだよ?」


手塚がしばらく登っていると、黒服の神父が彼を呼び止めた。


「そこの者、誰だ?ここは一般人の立ち入りが禁止されているぞ!」


ルチオは梯子を登ろうとして、動きを止めた。


今はまだ神の権能と聖職者の威厳が絶大な時代だろう。


無理に行動すれば、不敬者とみなされるのが関の山だ。


「神父様、申し訳ありません。神の偉大なる栄光と恩寵を感じたくて、この素晴らしいドームに登ろうとしました。」


「何だと?は、まったく……。」


神父は呆れて舌打ちした。


「神が英知によって建てられた聖堂を、この目で確かめたいのです。許可をいただけませんでしょうか?」


15世紀は「神の知恵」や「恩寵」といった言葉を連発すれば、敬虔な者としてうまくごまかせる時代だった。


特に信仰もなく、罪悪感もあまりない手塚にとっては、都合のいい方法だった。


果たして、神父の口調はすぐに和らいだ。


「はは、その信仰心の深さゆえに、少しだけドゥオモに登ることを許そう。ただし階段は危ないから気をつけなさい。」


「ありがとうございます。寛大なる神父様のご恩は決して忘れません。」


神父の許可を得てしばらく登ると、ついにドームの二重構造にたどり着くことができた。


「そうだ、まさにこれだった。まさかこんなふうに支えを設置していたとは思わなかった。どうやって互いに触れないように絶妙に作ったんだ?」


手塚はフィレンツェ大聖堂のドーム構造を把握し、感嘆しながらあちこちを歩き回った。


「ブルネレスキはやはり天才だった。死んでから30年ほど経ったか?直接会えないのが残念だな。」


尖塔まで登る道は現代に比べて危険に見えた。


だが注意深く登っていくと、ついにはドームの尖塔の頂上に到達することができた。


そこからはフィレンツェの街全体が一望できた。


「わあ、ルネサンス初期のフィレンツェをこの目で見られるなんて。死んでよかった!」


ジョットの鐘楼、ヴェッキオ宮殿、シニョーリア広場、そして中央市場まで。


まだ現代ほど広くはなかったが、しっかりとした要塞と城壁に囲まれたルネサンスのフィレンツェの姿は本当に美しかった。


しばらくして、にこにこしながら降りてくるルチオを見てアルドはため息をついた。


「また体調が悪くなるかもしれません。早く邸宅へ戻らなければ。」


「あと一か所だけ寄りたい。アルド、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房って知ってる?」


アルドはルチオの行動にうんざりした顔で見つめた。


一週間ずっと邸宅の隅で咳をしていた子が、突然生まれ変わったように元気になった。


『元々こんな子だったのか?』


アルドがぼんやりした表情を浮かべ続けると、手塚は声を上げた。


「ヴェロッキオの工房を知ってるのかってば!」


「あ、はい。フィレンツェ市内にあります。この場所から南の方に。でも、なぜその工房に行かれるのですか?」


「会いたい人がいるんだ。」


15世紀のフィレンツェに来たなら、彼に会わなければならない。それは歴史オタクとしての使命のようなものだった。


30分ほど歩くと、それらしい建物が見えてきた。


密集した家々のひとつだったが、すぐにそれとわかった。


外に出されたイーゼルや画材、大理石などを見れば、画家と彫刻家のアトリエに間違いなかった。


その扉のそばで、二人の若者が雑談をしていた。


「わあ、もう思い残すことはない。レオナルド・ダ・ヴィンチとサンドロ・ボッティチェリに直接会えるなんて。」


現代にも残る肖像画が、実物とこれほど似ているとは思っていなかった。


レオナルド・ダ・ヴィンチ。


ルネサンスを代表する芸術家であり、多方面で活躍した天才中の天才!


彼を直接見ただけでも、手塚の胸は激しく高鳴った。


『でも何の話をしているんだ?もしかしてレストランの話?』


この時期、ダ・ヴィンチとボッティチェリはレストランを経営していた。


2年後には潰れてしまうレストランだが、そこに客として行けば、ゆっくり会話もできる。


手塚はレオナルド・ダ・ヴィンチに近づいて声をかけた。


「はじめまして。ルチオと申します。レオナルドさんですよね?」


「ハンサムな少年だね。モデルをしてみる気はない?」


「ありません。レストランをされていると聞いたのですが、場所を教えていただけませんか?」


「残念だな。レストランの場所は言葉で説明するより、これを見た方がいいよ。」


レオナルド・ダ・ヴィンチは、チラシのようなものを手渡した。


だがチラシと言うにはあまりに芸術的すぎる。地図まで描かれているのが不思議だった。


「三匹のカエルの旗。面白い名前ですね。」


「面白い料理がたくさんあるから、ご両親を連れて一緒においで。」


そう言ってレオナルドは、中から誰かに呼ばれる声を聞いて工房の中へ戻っていった。


アルドは不思議そうな顔をしながら、手塚に尋ねた。


「お知り合いですか?」


「いや、今日初めて会ったよ。」


アルドは怒ったようにぼやいた。


「はあ、こんなことをしていたら、また病気がぶり返すかもしれません。それじゃあ、私の責任になりますし。」


「ああ、わかった。責任は問わないからアルド、お前は先に家に帰ってくれ。俺は市場とシニョーリア広場をもう少し見てから帰る。」


その言葉を聞いたアルドは、すぐにため息をついた。


「本当に責任を問いませんか?」


「もちろん!邸宅への帰り道もちゃんと覚えてるから心配しないで。」


「それなら……」


アルドは様子をうかがいながら、仕方なくそっと去っていった。


シニョーリア広場を回っていたルチオは少し道に迷ったが、難なく見つけることができた。


フィレンツェ大聖堂がどこからでも見えるというのもあり、また多くの建物が現代にもそのまま保存されているおかげだった。


手塚は子供の記憶をたどって、元々寝ていた3階の部屋へ戻ることができた。


***


窓の外の街を眺めていると、廊下の遠くから多くの足音が聞こえてきた。


しばらくして、ノックの音と男の声が響いた。


「ルチオ様、お部屋にいらっしゃいますか?」


思いがけず丁寧な問いに、手塚は少し戸惑った。


「あ、はい、います。」


その返事に、丁寧な声の主が慎重にドアを開けた。


そしてある人物の影が部屋に入ってきた。


がっしりとした均整の取れた体格だった。


かなり高位に見える人物で、それにふさわしい高価そうだが過度に派手ではない服を着ていた。


『あの人は!』


ロレンツォ・デ・メディチ。


顔を見た瞬間、自然と名前が浮かび上がった。子供の記憶だった。


だが手塚自身の記憶もまた、さまざまな知識を呼び起こしていた。


『ロレンツォ?メディチ家のロレンツォってことか?』


メディチ家の最盛期の時代を築いた主役。


戦争直前の状況で、たった一人で敵陣に飛び込んで外交によってフィレンツェを救った英雄。


その偉大なロレンツォに会うことができたのだ。


手塚があれほど称賛していたルネサンス期フィレンツェ、その中心人物である。


目には動揺が走った。


ロレンツォは、金属音を帯びながらも重々しく威厳ある声で手塚を咎めた。


「この寒い冬に、どこをそんなに歩き回っていたのだ?咳の病がぶり返したらどうするつもりだ。」




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 すごく期待して読み始めました。このテーマで書こうとされたセンスと意欲と知識に心からの拍手を送ります。調べなければならない内容も多岐にわたるでしょうし、この小説を書き始められたことに感謝します。この後…
こんな時代に良いところの坊っちゃんが共も連れずに郊外を歩いてたら捕まって売り飛ばされませんかね? そういう風習は日本だけのものだったのかな?
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