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アカデミア (1)

ルネサンス期のフィレンツェでは、フィオリーノ(金貨)とピッチョロ(銀貨)が共に使われていた。


1フィオリーノの価値は、70ピッチョロから140ピッチョロの間で大きく変動していた。


金と銀の相場や、貴族たちによる庶民通貨の価値引き下げなど、さまざまな理由があった。


だから、おおよそ1フィオリーノ=100ピッチョロと考えるのが無難である。


コーヒーが初めて紹介されたときの価格は10ピッチョロで、建設労働者の一日の賃金に相当した。


しかし、徐々に価格は引き下げられた。


ルチオが流通マージンを抑えて豆を供給したので、価格を下げても利益は十分あった。


そのため、レオナルドの食堂には一般庶民や労働者が溢れかえった。


『我々は薄利多売を基本としたからな。考えてみれば、薄利ですらないが。』


貴族たちの優雅な趣向は、庶民や一般商人、さらには農奴たちにまで広まっていった。


しかも今日はダ・ヴィンチの綿菓子機が新たに設置される日だった。


「どいてください、どいて。綿菓子機を入れますよ。」


機械は食堂の一角に設置され、多くの人々がその作動を期待して集まった。


ルチオが店員に尋ねた。


「新しい機械の練習は十分にできたか?」


「はい!一人でも全く問題ありません。むしろいちいち指示を受けなくていい分、ずっと楽です。」


綿菓子機には、19世紀の手動ミシンのような足踏みペダルが付いていた。


ペダルを踏むと、中央の小さな金属容器がくるくると回転する構造だった。


これもルチオが簡単に説明しただけで、レオナルドはまるで魔法のようにすぐに理解して作り上げた。


機械の使い方を習得したという店員が、手際よく試運転を見せた。


キイイィンキイイイィン—


高速で回る金属容器に砂糖を入れると、綿のような砂糖の糸が吹き出してきた。


「うわああ!」


「雲だ!雲だ!」


見物していた人々の間から歓声が上がった。


綿菓子を作る様子は何度見ても新鮮で不思議だったようだ。


店員は出来上がった綿菓子をじっくり観察しながらルチオに尋ねた。


「ところで、綿菓子の価格をだいぶ下げましたよね。これじゃ赤字になりませんか?」


「人を二人減らしたから、その分の人件費を引けばいいさ。」


この時代には砂糖の価格が非常に高かったので、現代の綿菓子のように安価とはいかなかった。


しかし、庶民でも少し気を大きく持てば一度は味わえる程度には下がっていた。


「では、これより綿菓子の販売を開始します!」


店員が宣言すると、人々は整然と列を作って並んだ。


『おお……ついに列に並ぶ文化が根付いたのか』


ルチオは感無量の面持ちで綿菓子の販売を見守った。


見る限り、食堂にはもう心配はなさそうだった。


あとはメディチ家の邸宅に戻り、ピサのアンジェロ先生の元へ行く準備をすればよかった。


今日はルチオが書いた文章について、アンジェロ先生が講評と感想を述べる日だった。


***


アンジェロ先生はじっくりとルチオの書いた文章に目を通していた。


<数学はイデア界の代表的な表象であるが、理性もまたイデアの表象といえる。


数理的演算で計算を行うように、知識を蓄積し再構築していけば、どんな問題も合理的に解決できる。


理性の働きはそれだけでは終わらない。


あらゆる要素を正確に観察し、全てを計測するならば、ついに人間は数を計算するかのように未来を正確に予測することも可能となるであろう。


これこそが理性の働きである。


神が許したものである。


そうして神の被造物たる人間は、あらゆる世界を観察し、あらゆる知を統合する資格を持つ。


そのようなものこそが……>


ルチオの文章は博識ではあったが、一方でこの時代には到底受け入れられない考え方でもあった。


「言いたいことは分かるが、正直お前の文章は神学的素養がまるで感じられんな。」


もっともな指摘だった。


彼は神学については大まかにしか知らず、ルネサンス人のように深く理解してはいなかった。


「その点は認めます。」


「だが、哲学的にも論理的にも完璧な論証の流れで、捨てるには惜しい文章だ。」


ルチオは返す言葉がなかった。この時代の論証ではなかったので、不安もあった。


『本当にこの主張を本にして発行してもいいのか?教会の目が怖すぎる……』


アンジェロ先生が口を開いた。


「文章の冒頭、アリストテレスの質料形相論に対する批判は、トマス・アクィナスの発展的継承として気に入ったが、絶対者たる神の存在を前提としないようにも見える。」


「その点は修正してみます。」


だがアンジェロ先生は眉間にしわを寄せ、何かを考え込んだ後、首を横に振った。


「……それではいかんな。お前の普遍妥当な論理展開が、私の主張になってしまうと、まるで違う論証になってしまう。」


「神の世界が目に見えないからといって、実際にも存在しないとは言えませんよね?神の現実態たる世界が、確かに存在しているのですから。」


要するに、ルチオは神が見えないと論証したつもりだったが、中世の常識では神がいないとは到底言えないということだった。


最大の理由は、教会が恐ろしいからだった。


「それでも学問というものは、自分自身を納得させることができねばならない。」


ルチオは心の中で不満を漏らした。


『神が関与しないこの世界に、神が関与しているという嘘の証明をしろって?』


もちろん、表には一切出さずに。


「方法はないでしょうか?」


神が世界の中で人間の自由を認めているというのは、あくまで一つの論証に過ぎなかった。


結局ルチオの本心はそこにはなく、それが文章に如実に表れていたことが問題だった。


論証を深めれば深めるほど、中身のない空虚な言葉になってしまうだろう。


「一つ、あるかもしれん。」


「それは何でしょうか?」


「お前はまだこの大学に入学していないがな。」


「はい……」


「学生たちと私が共催している集まりで討論をしてみるのはどうだ?」


「と、討論ですか?」


ルチオは驚いた。


『前世では大学生を教えていたのに、今度は大学生たちと口論しろって?』


想像するだけでも恐ろしかった。


まるで罰ゲームのようだった。


「先輩たちの考えを聞いて討論をしてみなさい。学ぶことが多いはずだ。」


...


「その・・・私は学生でもないし、年齢もまだ・・・」


「私の見るところ、お前は年齢を超えた天才だ。ただ、神の知識が少し足りないだけさ。」


「あ、はい・・・そうですね。私にはまだ足りないところが多いです。」


ルチオは次第に顔をしかめたが、正体がばれないように必死で顔を直した。


『これ、なんかどんどんおかしな方向に巻き込まれてる気が・・・』


だがアンジェロ先生は、何か面白いことを思いついたかのように満面の笑みを浮かべた。


「私が主催する『アカデミア』という会合は、大学外の人物も来る学術の場だから、大学生でないことを心配する必要はない。」


「そ、そうなんですか?」


ルチオは地獄に落ちたと思った。


点数を辛くつけすぎた罪で、延々と学生たちと意味のないテーマで討論させられる地獄。


『もう死んじゃおうかな? ルネサンス期フィレンツェまで来て、やってることが大学生と口論だなんて……』


ルネサンス時代に来て以来、初めて人生が罰のように感じられた。


***


家督を継ぐ長男なら、大学に行くために何年も勉強する必要はない。


一方、爵位や財産を継げない次男以下にとって、大学は成功のチャンスだった。


そのことはルチオにもそのまま当てはまった。


『大学に行くまであと3年はあると思ってたのに……』


ロレンツォがフィレンツェ大学への入学を勧めてきたときには、こんな日が来るとは思ってもいなかった。


前世で一生を大学で過ごしたというのに、また大学生と関わることになるなんて。


御者の隣に座っていたパオロが馬車の中に入ってきた。


「もうすぐピサ市内の大学地区です。準備はしなくて大丈夫ですか?」


「準備?何の?」


パオロが口元を丸く描く仕草をした。


ひげをつけろという合図だった。


「ああ、そうだ。つけるよ。この辺が見覚えあるってことは、もうすぐ着くだろう。」


「あっ、あそこにアンジェロ先生の講義室の建物が見えます。」


現代の西欧の多くの大学がキャンパスを特に設けていないように、フィレンツェ大学にもキャンパスらしきものはなかった。


アンジェロ先生の講義室も、教会の説教堂を借りて使っている最中だった。


到着すると、講義室にはかなり多くの人が集まっていた。


アンジェロ先生の午前の講義が終わった直後だったため、学生たちはそのまま残っており、教授と思しき人物も多くいた。


「ようこそ。早かったな。主役が遅れるんじゃないかと心配したんだ。」


ルチオは自分の耳を疑った。


『え?主役?プレッシャーがすごすぎる……』


だがアンジェロ先生は、他の人々に向けて手際よくルチオを紹介した。


「以前お話しした友人です。来て挨拶をしなさい。我が大学を支援してくださる各界の方々だ。」


「はじめまして。お会いできて光栄です。」


ルチオはまた頭が痛くなった。


こうした状況は、前世で学会発表やシンポジウムなどで何度も経験した。


挨拶ばかりで終わる、疲れるばかりのイベントたちだった。


年配の老教授のような印象を持つ人物が話しかけてきた。


「私はクリストフォロ・ランディーノという者だ。アンジェロが君の天才性について大げさに褒めていたよ。」


思い出した。


『叔父ジュリアーノの家庭教師だった人文学者だ。この人の顔もギルランダイオの絵で見たことがあるな。』


ルネサンス期フィレンツェに来てからというもの、こうした歴史上の人物に出会うことがとても面白かった。


こんな厄介な状況の中でも、オタクとしての本能が刺激されていた。


「はい、大げさな褒め言葉だと思います。私はアンジェロ先生の期待に応えるにはまだまだ未熟です。」


淡々と話すと、クリストフォロは面白そうな顔で短く返した。


「それは討論会を見てみれば分かるさ。」


するとアンジェロ先生はルチオの肩を叩いた。


「この討論会を通して多くのものが得られるだろう。」


「はい、たくさん学ばせていただきます。」


だがルチオの心の中では、生意気な考えがむくむくと膨らんでいた。


『正直なところ、学ぶものなんてないだろう。後世の学者たちが何百年も整理し研究した理論に比べたら、ここで交わされる討論のレベルは……あまりにも低すぎる。』


ルチオの考えは生意気ではあったが、事実でもあった。


ルチオが知らないとすれば、ルネサンス期の学者たちが神学と哲学の関係をどう設定していたかくらいだろう。


アンジェロ先生は真剣な顔で忠告した。


「神学の立場と、それを哲学がどう受け止めるかを理解するのは大事なことだ。それが分かってこそ本が書けるのだ。」


正確には、本を書いても神学者たちの批判から逃れられるということだろう。


アンジェロ先生がそう考えていたからこそ、討論会には多くの神学者たちが顔を揃えていた。


神学の素養が足りないルチオのための配慮だった。


ルチオはアンジェロ先生の配慮に、真摯な態度で応じた。


「先生のお言葉、確かに理解しました。まずはよく聞くことにします。」


「そうだ。よく聞いていればすぐに慣れるし、徐々に討論にも加われるようになるだろう。」


ルチオは討論会に参加しただけで、討論に加わるつもりはなかった。


『ただ聞いてるだけにしよう!』


そう思っていた。


最初のうちは、確かにそのつもりだった。




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