プロローグ―中世の終わり
「つまり、私たちが中世と呼ぶ時代は、西ローマ帝国が滅亡した西暦476年頃からルネサンスが始まった1400年代までだと考えればよいでしょう。」
「教授!」
「ああ、質問は講義が終わってからにしてください。」
「教授、中世の時期をそのような一つの見解だけで決めるのはおかしいと思います。」
教養授業の講師を務めていた手塚はため息をつきながら学生を見つめた。
「いいでしょう。それでは、学生が考える中世の基準とは何ですか?」
分厚い角フレームの眼鏡をかけた学生は、一冊の本をめくりながら興奮気味に話を続けた。
「私はマルクスの時代区分を支持します。産業資本主義が胎動した18世紀以降を資本主義時代と見るならば、それ以前は中世封建制として捉えるのが正しいです。」
「それでは、学生はルネサンスの時期を認めないということですか?」
「ルネサンスは中世の一部だと見るのが正しいと思います。」
「なぜですか?かなり多くの歴史学者たちがルネサンスを一つの時代として区分していますが?」
「中世封建制から抜け出していなかったからです。資本主義の萌芽と見なせる動きはいくつかありましたが、基本的な政治体制が変わった時代ではありませんでしたから。」
「ルネサンス時代のイタリア北部の都市が現代の民主主義に近い民主制を始めたことは知っていますか?」
「えっ?民主主義という形式は古代ギリシャにもありましたけど……」
「限られた市民しか参加できなかった古代の民主主義のことではありません。そしてマルクスの時代区分は、現代においては意味のない分類ですので、その話はこれで終わりにしましょう。」
角眼鏡の学生は慌てた様子で早口になった。
「私は資本主義の終わりの後に共産社会が来るというマルクスの時代区分を主張しているわけではありません。実際、資本主義の時代の後に民主主義が始まったという点は私も認めています。」
「経済体制で時代を分けたり、政治体制で時代を分けたり……マルクスはそんな誤りは犯さなかったはずですが?」
「えっと……私は……」
時計を見ると、講義終了時間はすでに過ぎていた。
「今日はここまでにして、次回からはルネサンス人文主義革命に移ります。」
学生が何かを言いかけてためらっていると、手塚はひと言助言を残した。
「学生が個人的な主張を強く展開するのは結構ですが、中間試験以降の個人発表の時間を活用した方がいいでしょう。他の学生に迷惑です。」
「あ、私は……」
「もういいです。今日の授業は終わりです。」
手塚は学生の言い訳を聞く必要もないというように講義室を出て行った。
『基本的な礼儀くらい守ってくれればいいのに。』
ちょうど新学期が始まり、若葉が芽吹き始めた時期だった。
しかし、そんな新学期には一番似合わない人物こそが手塚だった。
一生研究だけに没頭した結果、いまや芽を出すのが難しい古木のように老いてしまったからだ。
学生食堂で食器を持って席に着くと、ちょうど同僚の講師仲間が手塚の向かいに座った。
「今日の新入生歓迎会、行くのか?」
いきなり聞いてくる友人に、手塚はつまらなそうに返事した。
「行ってどうするんだ。」
「お前に食ってかかった奴、史学科の復学生なんだって?あいつも来るかもしれないぞ。」
「何だよ、お前。さっきの講義にいたのか?」
「通りかかった時に見ただけさ。とにかく史学科の後輩だから、厳しく叱ってやるべきじゃないか?」
「叱るって……だから余計に行きたくないんだよ。」
「お前さ、フィレンツェの話になるとすぐムキになる癖、直せよ。」
「ルネサンスの話をしただけだった。」
「俺がお前を知らないとでも思ってるのか?論文が通らなくて神経が尖ってるの、全部見えてるぞ。」
「くだらないこと言うなら、俺は行く。」
手塚は食べ終わらないうちに立ち上がった。
「ああ、もう。分かった、分かった。じゃあ新入生歓迎会は置いといて、集まりには来るのか?」
「さあな。」
「絶対来いよ。」
友人の言葉どおり、手塚は博士論文の件でピリピリしていた。
ルネサンスの衰退と関連するメディチ家の没落に関する考察。
メディチ家が銀行業をあまりにも軽視したために没落し、フィレンツェの弱体化が加速してヨーロッパ全体のルネサンス黄金期が衰退したという意見を主張した論文だった。
一理あるが行き過ぎた主張だという反応が多く、論文の通過に苦戦している。
友人はこれについてこう評した。
「フィレンツェ一つのせいでヨーロッパ全体の文化が衰退したなんて、それって“万物フィレンツェ説”じゃないか?」
すべての現代西洋文明はフィレンツェから始まったという手塚の考えを皮肉った言葉、“万物フィレンツェ説”。
滑稽ではあるが、手塚はそれが事実だと思っていた。
実際、彼はルネサンスこそが15世紀のフィレンツェそのものだと考えていた。
いっそイタリアがフィレンツェを中心に統一されていれば、西欧はより安定して発展し、歴史に残る強大な帝国となっていたはずだとまで考えていた。
もちろん仮定に仮定を重ねた個人の思いに過ぎず、特に意味はなかった。
***
フェンシング場で運動を終えた後、手塚は若手学者たちの集まりへと向かった。
“若手学者の会”とはいえ、実際はヨーロッパ史を専攻するオタクのような連中の集まりである。
約束されたワインバーに入ったときには、すでに何人かが酔っていた。
「お、手塚が来たか? 今日もフェンシング場に行ってたのか?」
昼に一緒に食事した友人が、またしても嬉しそうに出迎えた。
「年を取ったから俺も運動くらいはしないとね。」
「運動なんて言ってるけど、戦争史と武器が好きで通ってるんだろ?」
「まあ、それもあるけど。とはいえ、剣術の発展も15世紀に市民の数が増えて、個人の剣術が必要になったからだとも言える。」
「また15世紀のフィレンツェが起源って言いたいんだろ?」
「何言ってんだ? ロングソードの剣術発展はドイツだよ。」
「珍しくフィレンツェじゃないんだな。」
「歴史的事実をねじ曲げるのはやめようぜ。それより“あの頭”は何してる?」
「ほら、あそこに。」
この集まりの主催者を、俗に“頭”と呼んでいた。
主催者はすでに酔っ払って、バーテンダーの女の子に興味も持たれずに知識を語っていた。
メンバーたちもすっかり酒に酔っている様子だった。
「なんだよ? 大して遅れてないのに、みんなどうしたんだ?」
「ああ、議論が始まってさ、口角泡を飛ばして喧嘩してたのが酒に変わったんだよ。」
「はぁ……こんな未開人がいるかよ。口論中に酒ってなんでだよ。」
突然、主催者が酒に酔って舌が回らない状態で叫んだ。
「酒! 酒こそがすべての文明の起点だ! 最初の都市・ギョベクリ・テペがなぜ作られたか知ってるか? 酒を飲むためだ! 農業がなぜ始まったか知ってるか? 酒を造るためだったんだ!」
手塚は苦笑して答えた。
「また証明もされてない仮説を押し通してるな。それで、何の議論であんなに酔っ払ったんだ?」
「ヨーロッパ史の話さ、もちろん。第一次世界大戦の悲劇を避けるにはどうすべきだったか、それが発端だった。」
ちらりと見たところ、手塚が興味を持ちそうなテーマだった。
彼はそっと話に加わった。
「どうすべきもなにも、最初からハプスブルク家が台頭しなければよかったんだよ。」
すると突然、主催者が血相を変えて反論してきた。
「お前、何わけのわからんこと言ってんだ!」
「言ってる意味、わかるだろ。20世紀に入ってもハプスブルク家が旧時代の帝国として存在していたからこそ、新帝国との衝突が起きたんだよ。」
少し強引な論理ではあった。
だが、ちょっとムカつくハプスブルク帝国礼賛者に向けて、わざと喧嘩を売ってみたのだ。
案の定、バーテンダーの女の子にちょっかいを出していた主催者は再び怒って食いついてきた。
「ハプスブルク帝国がなければヨーロッパの歴史は成り立たない! じゃあ最初から神聖ローマ帝国も存在すべきじゃなかったって言うのか!」
「それより正直、ルネサンス時代のイタリアが統一されてた方が混乱はなかったと思うよ。」
「て、てめえ……イタリア賛美主義者のやろう……!」
「言ってることは間違ってないだろ。イタリアが統一されてたら、すぐにヨーロッパの列強の仲間入りを果たしてただろうし、ヨーロッパの歴史も安定して流れてただろうさ。」
実際の歴史的考証も論証も、まったく当てはまらない言葉で押し通しているだけだった。
それは二人ともわかっていた。
ただのプライドのぶつかり合いに過ぎなかった。
ルネサンス時代のフィレンツェを好む手塚は、イタリアが統一された強国であったらという妄想をいつも抱いていた。
クラシック音楽が好きな主催者は、クラシックの本場オーストリアが永遠の列強であってほしいと願っていた。
なんて馬鹿げた論争で、馬鹿げた喧嘩だろうか。
だが、幼稚なオタクたちの喧嘩とは、本来そういうものだ。
「おいおい、このままだとマジで喧嘩になるぞ。お前が酔う前に切り上げよう。」
無意味な言い争いで声が大きくなってきたのを見て、友人は適当に手塚をなだめた。
そして手塚をタクシーに乗せて家に帰らせた。
手塚は酒を一滴も飲んでいなかったため、タクシーの中で深く物思いにふけっていた。
「イタリアには統一のチャンスがあった。メディチ家は文芸復興だけでなく、軍事力の強化と政治勢力化にも力を入れるべきだった。」
メディチ家が莫大な資本を無駄に使ったという考えに至った。
しかし、彼はすぐに考え直した。
「はぁ、死んだ歴史を掘り返したところで何の意味があるんだ。」
すでに過去の歴史だ。
手塚とは無関係の。
隅田川の橋に差しかかると、遠くに都市の灯りが美しく輝いていた。
「学期が終わったらフィレンツェにでも行ってみるか。ひょっとすると、論文を補強する根拠が見つかるかもしれない。」
責任を負う人がいない自由な身の上なので、いつでも思いのままに旅立つことができた。
時々寂しさを感じることもあったが、手塚はこうした生活も悪くないと思っていた。
始まったばかりの学期をどう乗り切るか、ひとりため息をついたそのときだった。
突然、タクシーの運転手が大声をあげた。
「お、おい!なんてバカなやつだ!」
どこかの外国車が、酔っ払っているのか、タクシーに向かって逆走してきていた。
ブォォォォン――キキィィッ!
タクシー運転手が慌ててハンドルを切ったが、間に合わなかった。
ガシャーン!
あの忌々しいドイツ車は、タクシーの側面に突っ込んできた。
タクシーは宙を舞うようにひっくり返り、黒く濁った隅田川の水面へと落ちていった。
ドボン――
大きな衝撃で意識が遠のいていった。
『なんだよ……こんな呆気なく死ぬのか? 最期はフィレンツェで過ごしたかったのに……』
そのとき、得体の知れない声が手塚の脳内を打ち抜いた。
【フィレンツェに送ってあげようか?】
『なんだ、この声は……?』
事故で頭がおかしくなったのだろうか。
しかし、再びその声が響く。
【私の体をあげるよ。好きなように生きてごらん】
これはいったいどういうことだ?
深く考える暇もなく、手塚は完全に意識を失った。
***
手塚は、死後には何もない“無”だけがあると思っていた。
だが、彼に訪れた死後は、少し奇妙だった。
手塚はゆっくりと意識を取り戻し、見知らぬ天井が視界に入ってきた。
もし交通事故で九死に一生を得たのなら、見えるはずなのは病院の天井だが、そこには華やかな装飾があった。
『これは……ルネサンス様式じゃないか? こんなクラシカルな病院が日本にあったっけ?』
飛び起きて周囲を見回した。
「えっ?」
手足の肌があまりにも青白く、骨ばっているのがわかった。そして胴体もひどく痩せ細っていた。
事故のせいで植物状態になり、長期入院していたのだろうかと思った。
だとしても、自分の姿があまりにもおかしい。
「ケ・ディアボロ・スタ・スチェデンド(いったい何が起こったんだ)?」
『えっ? 今、俺、イタリア語でしゃべらなかったか?』
その瞬間、手塚は驚いて戸惑った。
するとさらに異様なことに気づいた。
金色の巻き毛、妙に短い足元との距離。
今の手塚は、小学校高学年くらいの金髪の少年になっていた。
「オウ―、ケ・コーゼ・クエスト(うわっ、これは何だ)!」
今回もイタリア語がまるで母国語のように自然と口から飛び出した。
あたりを見回した。
確かにここは病院ではなかった。これは、手塚が日々検証してきたルネサンス時代のイタリア建築のように見えた。
「違う、夢に決まってる。これはきっと、今病院で寝ていて見ている夢だ。」
しかし、止まることなく流れ出るイタリア語を聞いていると、夢にしてはあまりにもリアルすぎた。
いくら手塚がイタリアを研究していたとはいえ、イタリア語はネイティブレベルではなかった。
突然、寒気が走り、鳥肌が立った。
「いったいこれは、どんな狐のいたずらだ?」
素早く近づいて、濃い色のカーテンをめくり、窓を開けた。
一目でわかる巨大な建物。
あの大きく堂々たるドームは、ブルネレスキによって設計された構造。
それはまさに、フィレンツェ大聖堂だった。
だが、目に映るフィレンツェの街並みは、研究のために何度も訪れた風景とはかなり異なっていた。
「な、なんてことだ!」
周囲の高層建築がすべて消え失せていた。そして、本物の中世の服装を身につけた人々が大勢歩いていた。
これが意味するのは、ただ一つ。
『フィレンツェ……何百年も前のフィレンツェだ。間違いない!』
フィレンツェオタクの魂が沸き立った。