2.
事の発端は、朝のホームルームが終わり、1時限目の準備をしている最中だった。
「橘、はいこれ」
「ん? えっ!?」
隣の席の女子、真ん中分けのボブヘアがトレードマークの小倉紗耶香。
彼女が差し出していたのは、金色のリボンで結ばれた真っ赤な小袋だった。
その袋には金のハート模様が入っており、それはどこからどう見ても――
「……チョコ?」
「うん」
「マジ!?」
「マジマジ」
あまりにも予想外だった。
僕の知る限り、彼女はバレンタインにチョコを配るタイプの女子ではないからだ。
むしろその逆だ。
陸上部に所属するスポーティな彼女は、容姿性格共に爽やかであり、去年も大量のチョコを受け取っていた。
女子にモテる女子、それが小倉紗耶香である。
そんな彼女が僕にバレンタインチョコをくれるだなんて、昨日の僕に言ってもギリギリ信じないだろう。
「……ああ」
そう、ギリギリ。
あくまで義理義理。
流石にね、僕だってそんなに馬鹿じゃない。
女子特有のチョコ大量生産と、無差別チョコ爆撃は何度も目の当たりにしてきた。
これまではご相伴に預かれなかったが、今年はたまたま僕にもその恩恵が降り注いだのだろう。
なんにせよ、義理チョコだろうとかなり嬉しい。
「まさか小倉がチョコをくれるなんて……マジでありがとな。めっちゃ嬉しいわ」
「喜びすぎでしょ」
「いやいや、喜ばないバカはいないだろ」
「そう? なら良かった」
受け取った小袋は見た目に反してずっしりとしていて、改めてバレンタインの重みを実感する。
これからは彼女のことを小倉様と呼んだ方が良いだろうか。
「それにしても、包装とかしっかりしてるのな」
「でしょ? チョコも手作りなんだ」
「マジかよ、気合い入ってるな」
「うん、結構頑張ったよ」
「あー。やっぱり沢山作るのは大変だよな。どれくらい作ったんだ?」
「作ったのはそれだけ」
「へぇ……え?」
間抜けな声を上げる僕を、彼女は横目で見つめている。
そして、ぽつりと言った。
「だから……手作りしたの、橘にだけだよ」
え?
ん?
なんだ、どういうことだ?
ギリギリじゃなくてガチガチってこと?
いや、落ち着け。
流石に冗談だよな。
チョコ一つでバカみたいに喜んでいる小市民をからかってるだけ……だよな?
「は、ははは。なんだよ小倉、それじゃあまるで……」
向き直ると、彼女は頬杖をついて正面を見つめていた。
唇を固く結び、紅潮した頬には一筋の汗が流れている。
いや、なにその感じ。
てかなんだ、誰だこの美少女は?
確かに彼女は整った顔をしているが、こんなに可愛いとは今の今まで気づかなかった。
「ははは……は」
心臓がうるさい、落ち着け。
こんな時こそ冷静に、ステイクールだ。
などと、自分を落ち着かせようとしてみるが、チョコの甘ったるい香りが思考を鈍化させる。
小倉は明らかに僕の言葉を待っている。
ならば僕は男らしく、はっきりと答えなければならない。
「……小倉、僕は――」
「橘くん!」
その時だった。
誰かが突然僕の名を呼んだのだ。
朦朧としていた意識が現世に戻り、声の方に目を向ける。
そこには小柄な眼鏡っ子、海上弥生が立っていた。
クラスメイトではあるが、彼女のことはあまり知らない。というか、この2年間でプライベートな会話をした記憶がない。
そんな彼女が、突然どうしたのだろうか。
「あの、橘くん」
「はい?」
「これ、受け取って!」
気の抜けた返事をした僕に、彼女は白い紙袋を手渡した。
「海上さん、これは?」
「チョコレート……あの、バレンタインの……」
「え? ああ。あ、ありが――」
「本命だから!」
彼女はそう言うと、踵を返して自分の席へと戻った。
そして、ここにきて初めて気がついた。
クラス中の目が、僕に向いている。
前の席の木島も、廊下側の最前列に座る浅井さんも、みんなが僕を見ている。
その中には、いつも通りの冷めた表情をしているおさげ頭の眼鏡女子――委員長こと片桐由依や、先程一悶着あった佐伯も含まれていた。
「ねぇ、橘……?」
震える声に、ハッと我に帰る。
縋るような上目遣いで、小倉は僕を見つめていた。
いや、まぁ、そりゃあ、みんな見るよな。
僕だって見る。
クラスで修羅場が出来上がっているのだから、見ない手はない。
「お、小倉。僕は――」
「橘!」
「はい!?」
デジャブかな?
ついさっき、こんな場面を見た気がする。
小倉に返事をしようとしたところで、女子が僕を呼ぶのだ。
しかし、デジャブなんてのはただの勘違いだったようで、その後の光景は想像を絶していた。
「橘くーん」
「たちばなー」
「橘」
「おーい、橘」
ぞろぞろと、次々と、クラスの女子が僕のもとへ押し寄せたのだ。
一人や二人ではない。
クラス中の女子という女子が、ひっきりなしにチョコを持ってくる。
そして彼女たちは、口々にあの言葉を投げつけた。
『本命』
それは紛れもなく、好意を表す言葉。
そして彼女たちの表情からは、苦しいほどの真剣さが伝わってきた。
* * * * * *
トイレの個室で、僕は頭を抱えていた。
モテ期の到来か、クラスが催した盛大なドッキリか。
どちらにしてもやり過ぎだ。
1時限目の授業は古典だったが、クラスの空気は異様だった。
女子の視線も男子の視線も黒板にはなく、窓際に座る僕の元へと向いていた。
常に誰かがチラチラと自分を見ている居心地の悪さは、想像に難くないだろう。
そんな中、いつも通り黒板を注視する委員長の後ろ姿には感動すら覚えてしまった。
そういえば、委員長からはチョコを貰っていない。
佐伯もそうだ。
逆に言うと、他の17人からはチョコを貰った事になる。
それも本命の。
「はぁ……」
思わず溜息が出る。
僕は1時限目が終わった直後、教室を抜け出しトイレに駆け込んだ。
いや、逃げ込んだと表現した方が正しいだろう。
確かに僕はチョコを欲していた。
浮ついていた。
だけど、こんなに沢山なんて、それも本命だけなんて、誰がそんな事を願ったというんだ?
男子高校生なら誰もが妄想する可愛い欲求が、どうしてこんな結果になってしまったのか、それがどうにも分からない。
気づけば、腕時計が2時限目開始の1分前を指している。
このままサボる手もあるのだが、次の教科は苦手科目の英語だ。
授業について行けなくなったら、困るのは自分自身である。どんなに居心地が悪くても、教室に戻る他ない。
「……行くか」
意を決して、僕はトイレを出た。
そして目を疑った。
「あ、橘くんだ」
「橘、これ」
「橘先輩、急にすみません」
十数名の女子がそこにいた。
顔だけ知ってる隣のクラスの女子や、見覚えすらない奴もいる。
それによく見ると、彼女たちの制服のリボンは色とりどりだ。
赤は1年生、緑は2年生、青は3年生である。
同級生のみならず、知らない先輩や後輩までもが男子トイレの前で待ち構えていたのだ。
「あ、あの、僕、急いでるので!」
差し出されたチョコを受け取らず、僕はその場を駆け抜けた。
背後から嘆くような声が聞こえてきたが、今はそれに答える余裕がない。
逃げ出したはずの教室に逃げ込み、力一杯扉を閉めると、全ての視線が否応なく僕に向けられた。
嫌な感じだ。
出来るだけ視線を交わさないよう、不自然にならない程度に下を向いて席に戻った僕は、眼前に広がる光景に息を呑んだ。
「な、なんで……?」
チョコが増えているのだ。
クラスメイトから貰ったチョコは全て整理した。
鞄と机の中、机の横のフックに、なんとかして収めた。
それなのに、机の上に大量のチョコが置かれている。
思わず周囲を見渡した。
どこに視線を向けても、誰かしらと目が合う。
なんなんだ、これは。
怖い。
妖怪や、悪魔や、幽霊。
怖いものは沢山ある。
けど、今は人間が怖い。
女子が僕に向ける甘ったるい視線が、男子が僕を睨むあの視線が、粘液となって絡みつき、剣山となって突き刺さる。
「み、見るな……」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
「僕を見るなっ!」
言葉は叫びに変わり、クラスの空気が一瞬にして凍りつく。
直後、2時限目開始のチャイムが鳴り、初老の英語教師が教室の扉を開いた。
「授業始めるぞー。教科書出せー」
そして、何事もなかったかのように授業は始まった。
机の上を占領していたチョコを床に下ろして、じっと黒板に集中しようと試みる。
それでもやはり、視線を感じて集中出来ない。
こんなことならサボった方がマシだった。
絶え間なく感じる視線から意識を逸らし、授業に集中しようと悪戦苦闘していると、不意に二の腕をつつかれた。
横を見ると、小倉は自身のノートを指差している。
《ごめん》
こちらに寄せられたノートの隅に、達筆な文字でそう記されていた。
顔を上げると、小倉はこちらを見ておらず、ただ真っ直ぐに黒板に視線を送っている。
僕は少し悩んでから、彼女を真似てノートに返事を書いた。
《小倉が謝ることなんてない》
彼女はただ、僕にチョコをくれただけ。
本当に嬉しかったし、心臓が飛び出るほどドキドキした。
なのに彼女が謝罪をするような状況に至ってしまったのは、何が原因なのだろう。
小倉に次いでチョコをくれた海上さんか?
それとも、その後にチョコをくれたクラスメイトか?
もしくは、トイレの前まで押しかけてきた他のクラスの女子達か?
いや、誰も悪くない。
好意を伝えることが悪いなんてあり得ない。
強いて言うなら、
《謝るのは僕の方だ。逃げたり、大声を出したりして、ごめん》
《へたれ》
謝罪の言葉を書き込むと、小倉はすぐにそう返した。
それは確かに、今の僕にピッタリの言葉だろう。
《でも正直驚いた。橘って意外とモテるんだね》
《「意外と」は余計だ。僕はモテモテだよ》
「ぷっ」
小倉は吹き出し、肩を小さく振るわせる。
僕のせいでクラスがおかしな雰囲気になっている自覚があるからか、その微かな笑い声に救われた気がした。
《知ってる》
一通り笑い終えると、小倉はそう記した。
《だから、けん制のつもりだったんだけど、なんか変な事になったね》
変。
正しくその通りだ。
悲しい話だが、どう考えても僕にそんなポテンシャルがあるとは思えない。
こんなにモテるはずがない。
よく考えたら、いや、よく考えなくても、クラスメイトのみならず、顔も見たことのない女子達が僕を好きだなんて、そんなことあり得るのか?
《なんか、おかしいよな?》
《うん。おかしい》
はっきりと、小倉は言い切った。
《弥生ちゃんの好きな人は知ってるけど、橘じゃないもん》
《マジ?》
《マジ。つい先週恋愛相談されたから、間違いないよ》
その話が本当なら、海上さんは別人にチョコを渡すつもりだったのだろうか?
それとも、その僅かな時間で僕に鞍替えしたとか? いや、会話すらしてなかったのに、それはありえないか。
《弥生ちゃんだけじゃないよ。橘くんにチョコをあげた子の中で、私の知る限り橘くんを好きな人はいない。彼氏持ちの子も沢山いたし》
橘くんを好きな人はいない。
その一文に心を貫かれたのは置いておくとして、だとすればやはり、現実離れしたこの状況は、何かしらの異変に巻き込まれていると考えるべきなのだろう。
女子の恋心が僕に移し替えられている。
そう仮定すればしっくりくる。
そして、そうなると当然の疑問が脳裏を過ぎる。
《小倉が本当にチョコを渡したかったのは誰なんだ?》
その問いに、小倉は戸惑ったようだが、
《橘》
と、そう答えた。
まぁ、それ以外ないのか。
他の女子同様、意中の相手が僕にすげ替えられているらしい。
この状態だと、何を聞いても状況は進展しないだろう。
《何考えてるか大体察しはつくけど、私は本当に橘が好きだよ》
「ぐっ」
これには大分くらってしまった。
くらいすぎて変な声が出た。
そんな性格だからお前は女子にモテるんだ。
思えば今日は色んな女子に『本命』とは言われたが、『好き』とは言われてなかった気がする。
なかなかどうして残酷な話だろう。
《ありがとう》
それだけ書いて、僕はノートに綴った小倉との会話に消しゴムを押し当てた。
これ以上は本当に勘違いしてしまいそうだから。
そういうのは、中学生で卒業したんだ。
《バカ》
最後に小倉が書いたのは、その二文字だった。