1.
いつもの通学路を、いつもと同じように自転車で駆け抜ける。
今日は早起きをして、いつもより早く家を出た。
とはいえ、冷たい空気も、街の様子も、これといった違いはない。
ただ、ひとつだけ懸念点がある。
それは今日の日付だ。
2月14日。
僕はこれほど忌々しい日を他に知らない。
あえてなんの日かは考えないようにしているけれど、それでもどこかで意識してしまう。
思えば、昨日のクラスの空気はどこか異様だった。
男子たちは落ち着きがなく、そんな様子を知ってか知らずか、女子もなんだか盛り上がっていた。
まぁ、なんにせよ、僕には関係のない話だ。
関係のないというか、関係を待てないというか。
……モテないというか。
何を隠そう、僕は生まれてこの方17年間、家族以外からチョコをもらった試しがないのだ。
なんて。
誇らしげに言うことじゃないし、実際非常に残念な事実なのだけれど、かといって悲観しているわけでもない。
そういうのは、中学生で卒業した。
世の中、望んでも叶わないものがある。
臨んでも敵わないものがある。
だから期待なんてしていないし、今日というこの日は、浮き足立ったクラスの空気感が鬱陶しいだけだ。
「……寒い」
自転車のペダルを強く踏み込んだ。
別に、たいした理由はない。
暖房の効いた教室で、早く暖まりたいだけだ。
* * * * * *
今日はいつもより早く家を出て、いつもより速く自転車を漕いだせいか、昇降口にはほとんど人影がなかった。
いつもなら下駄箱の前でクラスメイトと挨拶を交わすが、今日は誰もいない。
「すぅ――はぁ」
自分の下駄箱の取手を掴み、深呼吸をする。
特に理由はない。
そう、まったく理由なんかないので、僕は勢いよく、下駄箱を開いた。
「…………」
そこには、上靴だけが入っていた。
それを取り出して、下駄箱の中を覗いたが、中は見事に空っぽである。
試しに上靴を振ってみても、うんともすんとも言わない。
「そりゃそうだよ。下駄箱だもんな」
誰にでもなく、そんなことを呟いていた。
別に。
なんだよ。
は?
これは毎日やっているルーティンであって、今日があの日だからとか、そういうことじゃない。
上靴を乱雑に放り、外履きから履き替えた僕は足早に教室へと向かった。
階段を駆け上がり2階の教室前にたどり着いたが、すぐには中に入らない。
僕の目的は教室前の廊下に並んだロッカーである。
上下二段でいくつもの扉がついた腰ほどの高さのロッカーの上には、いつもなら運動部員たちのスポーツバッグが大量に並んでいる。
しかし今日は時間が早いせいか、たった一つしか置かれていない。
僕は文化部だから、普段ならロッカーを介さず自分の席に直行する。
でも今日はほら、早く登校しちゃったからさ。
たまにはロッカーの整理でもしようというわけだ。
「すぅ――はぁ」
廊下に跪き、呼吸を整える。
そして勢いよくロッカーを開いた。
「…………」
数冊の辞書と資料集、そしてお気に入りの小説が数冊。
ロッカーの中は、いつも通りに整頓されていた。
全くもって歪みないロッカーの中をくまなく確認して、僕はそっと扉を閉めた。
「そりゃお前、ロッカーだもん。僕のものが入ってるに決まってるじゃんか」
ここは不可侵領域である。
知らない物が入っていてたまるか。
当たり前じゃん。
うんうん、正常正常、至って正常。
「……はぁ」
何かを期待したわけじゃないし、何があるとも思ってなかったけど、この感覚は毎年必ずやってくる。
虚しいというか、気恥ずかしいというか。
「まぁうん、知ってた知ってた」
「なにブツブツ言ってんの?」
「うわっ!」
体が跳ね上がった僕に、彼女は訝しげな目を向けていた。
「いやいや、ビビりすぎじゃない? ウケるんだけど」
「なんだ、佐伯か」
いつのまにか僕の背後に立っていたのは、クラスメイトの佐伯杏樹だった。
彼女は自他共に認める陽キャであり、学校で唯一金髪を許されている日本人とイギリス人のハーフである。
「なんだってなんだよぉ」
僕の反応に気分を損ねたようで、佐伯はわざとらしく口を尖らせた。
「いや……ごめん。おはよう」
「おはよ。それでなに? 朝からご機嫌斜め?」
「別に、びっくりしただけだよ」
「ふーん」
彼女はそういうと、白いスポーツバッグをロッカーに置き、跪いたままの僕をまじまじと見つめた。
そして何かを閃いたかのように「ああ」と手を打った。
「チョコ、入ってた?」
「うっ……」
ニヤニヤと小馬鹿にしたような笑みを向けられて、思わず顔を背ける。
すると彼女は、僕の肩にポンと手を置いた。
「橘、どんまい」
「うるせぇ!」
「あははははっ!」
佐伯は文字通り腹を抱えて、落ち込む僕を笑っている。
それはもう楽しそうで、そこはかとなく憎たらしい。
「いいんだよ別に、最初から期待してないし」
「ふーん、そっかそっか。ぷぷぷ」
「あーもう、うざいうざい」
その場から逃げるように教室に入り、窓際にある自分の席に腰を下ろす。
視界の隅では、席についた佐伯が相変わらずニヤついた顔でこちらを眺めていた。
今日の佐伯は本格的に鬱陶しいな。
「なんだよ」
「んー? どんな顔で机の中を確認するのかなって、気になってさ」
「ほっとけや」
そういえば机の中を忘れていた。
出来ることなら両手を突っ込み、隅から隅まで確認したいところだ。
しかし、あのギャルが小馬鹿にした目で見てくるものだから、プライドがそれを許さない。
「てかさぁ、だったら早く来ちゃダメじゃない?」
「だったらってなんだよ」
「フツーに考えてさ。もし橘の机にチョコを入れるつもりの子がいたとしても、橘が座ってたら無理じゃん?」
「…………」
完全に盲点だった。
もしもチョコを発見したとして、その現場をクラスメイトに見られるのが恥ずかしいから早く登校したのに、これじゃあただの徒労じゃないか。
策士策に溺れるとはこのことだ。
「だから……そんなんじゃないっての」
「ふーん。そうなんだぁ」
「そ、そうなんだよ。……てか佐伯こそ、なんで今日は早いんだよ。いつもはもっと遅いじゃん」
「べっつにぃ。特に理由はないでーす」
話題を変えようと苦し紛れに言ってみたが、そういえば佐伯も普段より随分早い。
朝練がない日はホームルーム直前に登校してくるのに、今日に限って50分前登校だ。
「ああ」
ふと閃いた僕は、先ほど佐伯がそうしたように、わざとらしく手を打った。
「チョコ、誰に渡すんだ?」
「は、はぁ!? 別に誰にも渡さないし!」
「…………」
佐伯はバツが悪そうに顔を逸らすと、金髪の毛先をくるくるといじり始めた。
分かりやすく挙動不審である。
少しからかっただけなのに、まさかのドンピシャだったらしい。
なんだかんだ言っても、年頃の女子というわけだ。
「なぁ、佐伯」
「……なに?」
「ナイスアオハル!」
「マジでウザいんですけどっ!」
親指を立ててウインクをすると、佐伯は顔を真っ赤にして声を荒げた。
まぁ、いじるのはこれくらいにしてやろう。
悪友として彼女の恋路は応援してやりたいが、生憎僕にできることはないし、口出しする権利もない。
なにはともあれ、朝からいいものを見れた。
さっきまでの沈んだ気持ちも忘れて、僕は上機嫌で鞄から教科書を取り出した。
席に着いたらまず忘れ物がないか確認する。
これは本当にいつものルーティンだ。
「て、てかさぁ、橘さぁ」
「んー?」
「その……チョコ、好きなん?」
「そりゃまぁ、甘いものは大体好きだよ」
「甘いのよりしょっぱいのばっか食べてるイメージだけど……惣菜パンとか」
「まぁ、どちらかといえばしょっぱい方が好きだけど、甘いのも好きだよ」
「……ふぅん。じゃあ良いじゃんバレンタイン。チョコ貰えてさ」
「よかないわ。僕にとってバレンタインなんて、家族からちょっと良いおやつを貰う日でしか……って、古典のノート忘れたわ」
「部活の女子に貰ったりとかさ、そういうのはないの?」
「僕が? ないない。あるわけないだろ。去年まではほぼ幽霊部員だったし……っと、ルーズリーフもあるし大丈夫か」
話半分に会話をしながら鞄の中身を取り出しらいつも通り机にしまう…………ん?
「あれ?」
毎朝のルーティンは、いつものようにはいかなかった。
束にした教科書が何かに引っかかり、思うように入らない。
机の中は空にしてるはずだが。
「なんだ?」
確認するため両手を机の中に突っ込むと、指先に何かが触れた。
それを掴んでみると、小さな箱だということがわかる。
「どしたん?」
「なんか箱みたいなのが机の中に……」
取り出したそれは、茶色の小箱だった。
一片が4センチほどの立方体で、上面と側面をすっぽり覆う蓋が被せられている。
「これって……」
そう言いながら佐伯を見ると、彼女は驚いたような顔をしていたが、すぐさま席を立って僕のもとへ歩み寄った。
「なにこれ? 誰から?」
佐伯は顔を寄せて、僕の手にある小箱をまじまじと見つめる。
美人の真顔は怖いというが、なるほど、これは確かに迫力がある。
てかなんで真顔なんだよ。
「手紙とか入ってないの?」
「えっと……」
改めて机の中をまさぐったが、それらしいものはない。
箱の表面を確認しても、贈り主を特定できそうなものは一切なかった。
というか、これはもしかして……いや、もしかしなくても……。
「開けて」
「……え?」
「開けてって言ってんの」
「は、はい……」
美人の真顔、超怖い。
てか、どうしてこの箱の行く末を佐伯に指示されているんだろう。
どうせ開けるから別にいいけど……。
「じゃ、じゃあ開けるぞ」
僕はそう言って、蓋に手をかけた。
それをゆっくりと持ち上げるにつれ、鼓動が早くなるのを感じる。
そして蓋を開き切った時、僕は自分自身の目を疑った。
「これ……チョコだよな……?」
箱の中には桃色の紙パッキンがもっさりと敷かれていて、その中央に茶色の艶やかな塊がある。
震える指でその小さな塊を摘み上げると、それは歪な形をしていた。
まるで大きなチョコを砕いたカケラのような様相だ。
そして、よく見るとチョコの表面に、白い文字が書かれていた。
『VE』
欠けてしまっているが、それが何を表しているのか、僕には分かる。
それはやはり、紛れもなく……!
LOVE!
「バレンタインチョコだ!」
それは人生で初めて、家族以外から贈られたバレンタインデーのチョコレートだった。
どうしよう、ドキドキする。
これはつまり、この高校のどこかに、僕を好きな女子がいるということだ。
誰だ?
一体誰が僕にこれを……?
「見ろよ佐伯! 貰えたぞ! 僕でも! どうだ!」
「どうだって、これおかしくない?」
「は? 僕のチョコに文句でもあるのかよ」
「別に文句じゃないけどさ。年に一度のバレンタインに、そんな失敗作みたいなのフツー渡さないって」
「そんなこと言うなよ」
確かに形は悪い。
でも、何か事情があるに決まってる。
落として割れちゃったとか、単純に作り慣れてなくて形が歪になったとか。
「見た目が不恰好だって良いんだよ、別に不味くても気にしない。こういうのって気持ちが大事だろ?」
「その気持ちが『VE』なわけ?」
「だから良いんだって、てかマジでうざいぞ」
「あっそ。じゃあウザいアタシは消えまーす」
「お、おい」
佐伯はそう言い残し、振り返ることなく教室を出て行った。
「なんだよ……」
ついさっきまで浮かれていたのに、気分が悪い。
手元に残った歪なチョコを摘み上げ、それを口に放り込む。
「…………」
夢にまで見たバレンタインチョコなのに、ぜんぜん味がしない。
佐伯のせいだ。
ああ、クソ。
早起きは三文の徳と言うのに、なんだか酷く損をした気がして、僕は机に突っ伏した。
まさかこの後、あんな事になるなんて思いもせずに。