5.優しく美しい伯爵令息
――花を咲かせて見せて欲しいんだ
――春になったら、咲くわ
――それまでに死んでしまうかもしれない。今見せてくれたら、奇跡を信じてもいい
――では、……ひとつだけよ。
高らかなコマドリの鳴き声で目が覚めた。
ぼんやりした視界に、いつもと違う景色が映る。ここは何処だったっけ……と、エレナは起き上がった。
教会でも王宮でも無い。朝の光が薄くカーテン越しに差し込み、清潔で品の良い室内を優しく照らしている。
そうだ、ここはフォンモール家の領地、ヴァル・フルールだ。
窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。ガウンを体に巻きつける。
眼下には美しく整えられた小さな庭。煉瓦の小道が門に続き、その周りは葉を落とした背の低い木々が凍えた地面の上を這っている。
門の向こうは、広大な畑と花壇のようだった。その中に、ぽつりぽつりと小さな家が見える。今いるモンフォールの別荘も小さな屋敷だが、見える限りこの建物が一番大きい。
集落の周りには森。もっと遠くを見ると左手に山が聳え、右手に煌めく水面が見えた。
エレナは大きく息を吸う。冷たい空気は微かに土の匂いがする。耳を澄ましても鳥の声と風の音しかしない。
不安と緊張で強張っていた身体も気持ちもゆっくり安らぐのを感じながら、エレナは目を細めてその静かな風景を眺めた。
コンコン、とノックの音が静寂を止めた。
「おはようございます、お嬢様。眠れましたかね?」
メアリーが顔を出した。
「はい、ありがとうございます」
本当は眠りが浅く、ずっとおかしな夢を見ていたような気がするのだが、彼女を心配させる事はないと思い、笑顔で答えた。
「それならよかった。この家は私しかいないもんでね、貴族のお嬢様には悪いんだけど、自分の事は自分でやってもらえますかね? お洋服はそのクローゼットに入っているから」
メアリーは気の毒そうに言う。意地悪で言っているわけでは無い事は声音から分かる。
「ええ、もちろん。屋敷のお手伝いもさせてください。その方が気も紛れますから」
「そんな事させたら、坊ちゃんに怒られちまう」
あはは、と、豪快な笑顔に、エレナもつられて笑顔になった。
「お嬢様は、お花が好きだと聞いていますよ。庭は自由に使っていただくようにって話です」
「ありがとうございます」
メアリーと話していると元気になる。そんな明るい空気を纏っている女性だった。
歳の頃はエレナの母親くらいだろうか。母の思い出は無いが、幼い頃によく面倒をみてくれた陽気な女神官を思い出した。
「随分楽しそうだね」
「おや、坊ちゃん。レディーのお部屋を覗くもんじゃないですよ」
部屋の外からセドリックの声がした。
「覗いてないよ……朝食をエレノア嬢と食べたいと思って」
「はいはい、じゃあお嬢様、お支度できた頃に坊ちゃんに持たせますね」
しばらくすると、軽い朝食とお茶が乗ったトレーを持ってセドリックがやってきた。この貴公子は随分と気さくで、客人の朝食の支度も厭わないらしい。
エレナは慌てて駆け寄ってトレーを受け取り、テーブルに準備する。セドリックも一緒になって準備し、お茶を入れる。
「おはよう、エレナ……あんまり寝られなかったみたいだね」
エレナの顔を見て眉を下げる。
「いえ、そんな事は」
「顔色が悪いよ、まずはゆっくりしてほしい」
暖かい日差しの中、ゆったりした時間を過ごす。
エレナは向かいに座ってゆったりと食事をとるセドリックに密かに見惚れていた。
柔らかい朝日を受けて、少し癖のある金髪が内側から輝くように光っている。
端正な顔立ちは人気の舞台俳優の絵姿のようで、柔和な面差しの中心にある綺麗な目は、薄くて冷たい青色なのに、どこか優しい雰囲気がある。
エレナは聖女となって以来、年ごろの男性は神官以外ダリウスしか会っていなかったので、その優美さや繊細な美しさに目を奪われていた。
もし、ダリウスがこんな顔をしていたら、婚約も楽しみにできたかもしれないな、と、エレナはひそかに失礼なことを思った。
それは、エレナの好みのタイプだということだったのだが、色恋ごとに疎いエレナは、そこまで思い至らなかった。
セドリックはあまり喋らずに落ち着いて食事を進めている。エレナは昨日から感じている疑問を聞いてみることにした。
「あの、ありがとうございます。何から何まで」
まずはお礼を言わなければ。今こうしていられるのはセドリックのおかげだ。
「こちらこそ。エレナがここに居てくれたらといつも思っていたから」
セドリックは微笑んだ。
「それで、その、どうしてここまでしてくださるんですか?」
「エレナは僕の恩人なんだよ。覚えてないかな? 歩けなかった男の子の事」
言われてエレナは記憶を辿る。そんな事あっただろうか。何となく、三人で冬の庭にいたような。一人は車椅子だったような。そんな朧げな思い出はあるが、記憶はぼんやりとしていて定かでは無い。
「君があの時奇跡を起こして見せてくれたから、僕は助かったんだ。だから遠慮なく僕に頼って」
そう言って目を細めるセドリックは本当に幸せそうで、エレナは戸惑う。
エレナがその時にあげたものと、今貰っているものは釣り合っているのだろうか。また奇跡を見たいと言っていた。何か起こしてもらいたい奇跡とか、頼みがあるのだろうか。
「あと、もう一つ気になっていることが」
「なんだい?」
「エレノア・アッシュフォード様という方はどのような方なのですか?」
「ああ……」
セドリックは少し考えるようにしてから口を開いた。
「知り合いの男爵家の御令嬢でね。少し前に事故でご両親を亡くされて、タウンハウスの方で一時期預かっていたんだ。その人をこちらに引き取ると話してあるよ」
「その方はどうされているのですか?」
「実はね」
セドリックは身を乗り出した。
「恋人と、駆け落ちしたんだ」
「え!?」
「だから、行方を知っている人はいないし、探している人もいない。君がエレノアを名乗っていても何も問題はないんだ」
秘密だよ、と、唇に人差し指を当てる。
朝食の後、セドリックは帰っていった。モンフォール家の領地の本邸は馬車で二時間ほどのところにあるらしい。
「坊ちゃんはここが気に入ってるみたいでよく来ますよ。あの様子じゃ、お嬢様に会いに毎日でも来ますね」
メアリーが言った通り、セドリックはそれから毎日やってきた。
◆◆◆
エレナはすぐにここの暮らしが気に入った。
今までずっと教会で共同生活だった。ここ一年は従者と言う名の見張りが付いていた。
だから、誰にも干渉されない一人の時間を持つことが、これほど穏やかに過ごせるとは知らなかった。
朝起きて、メアリーと朝食を食べ、集落を散策する。
ヴァル・フルールの住民は皆穏やかで少しシャイで、エレナを遠巻きに見ているが声をかければ暖かく受け入れてくれた。
集落には様々な草花が育っていた。高原と、平原と、森に囲まれ、湖も近い。そのためか、種類も多く生き生きとしている。それを観察したり、集めたり、写生したり。エレナの好きなことも思い切りできた。
セドリックは、だいたい昼前にやってくる。夕方までいる事もあれば、ほんの一時ほどエレナの顔を見に来るだけの事もある。
セドリックは供もつけずに一人で馬を駆ってくる。彼の愛馬は、身体が淡い色で鬣と尾が白い。
セドリックは堅苦しい恰好は好まないようで、シンプルなチュニックに乗馬ズボンでいることが多い。
それがまた本人の美しさを際立たせていて、ふらりと暗い森から出てくる様子は、まるで森で迷子になったお伽噺の王子様のようだった。
エレナを見つけるとほっとしたようににっこり笑って、誰にも聞こえないようにそっと「エレナ」と囁き、後は時間の許す限りエレナの後をついて回っていた。
そんな穏やかな日々が一週間ほど続いた。