第三話 桜鏡(デュセス・ド・ブラバン):感謝、あるいは幸福
「コーネリアス、あなた『空気を読む』って言葉、知ってる?」
「何だ、藪から棒に? 多少なら格闘技の覚えもあるが、俺はそこまでの使い手ではないぞ?」
涼しげな顔でコーネリアスはそう言った。答えになっていないが答えになっている。つまりは知らないのだ。ラミアは深く溜息を吐いた。せっかくジョシュアとの出逢いに感銘を受けていたのに、呼び出しの連絡で催促され、仕方なしにシアトルまで戻ってきたところ。
(もう少し話をしてみたかった。あの子とも……)
暗殺には関わらせたくない。連絡先は教えずに出てきた。会いたくなったら、こちらから出向けば済む話。そもそもやたらと教えるべきものでもない。闇に潜む暗殺者なのだ、ラミアは。
「まあいい、本題に入ろう。救出した子供たちだが、あの場にいたマフィア経由の人身売買で手に入れたようだ。組織の方にも捜査の手を入れる口実が出来たと、FBIが感謝していたぞ」
「そう。天国からのペニーといったところかしら」
単なる偶然による幸運。そう感想を漏らしたラミアだが、計算高いコーネリアスのことである。それだけなわけがない。氷青色の瞳を半眼にして睨むようにしながら、ラミアは問う。
「最初から知ってたでしょ? ついでに他の標的も、社会的に抹殺出来るんじゃないの?」
「希望的観測の一つに入ってはいた。――が、確証はなかった。現場でのお前の行動まで制御は出来ないしな。初めからその可能性を示唆していたら、救出を前提に動いたか?」
ラミアは答えられなかった。とても口には出したくなくて。標的が不審死すれば、警察は必ずあの別荘に入る。そうすれば結果的に、あの子たちは救出されるはずだと考えただろう。
初めからその前提で動いたら、人質に取られて逆に救出成功率が下がる可能性や、肝心の標的を取り逃してしまう可能性も考慮する。逃げられた上に子供などいなかったらと考えて、密かに標的の始末だけをしただろうとは、コーネリアスが相手でも言えない。
「我々は正義のために動いている。だが犯罪捜査や人助けが目的なわけではない。お前の判断は正しい。そういう冷徹な行動をとれるからこそ、お前を雇った」
聞かずとも答えはわかっていたのだろう。ニコリともせずコーネリアスはそう言い放った。
二人の仕事は、大統領選において、バーナード有利に運ぶこと。そのためにダグラス陣営の有力支援者を始末する。向こうが送り込んでくる間諜も見つけ出して処分する。闇社会で展開される、もう一つの、そして非合法な大統領選。それがコーネリアスとラミアの戦いだった。
「誉め言葉と受け取っておくわ。とりあえず、今回の件はバーナードとは無関係と思ってもらえるわね、あれなら。けれども、あまり彼にとって都合のいい死ばかり続くと良くない」
「そこが難しい。どんなにうまく偽装しても、続きすぎる偶然は必然に変化する。特に標的とその郎党だけが死ぬ今のやり方ではな。しかしそれ以上の方法は、バーナードは認めまい」
それ以上の方法。本物の偶然にしか見えない死。つまり、他の者を狙った、説得力のある動機による破壊行為に巻き込まれるという形。無関係の者を一緒に殺すということである。コーネリアスですら曖昧にしか言わない以上、当然バーナードが許すわけはない。
「彼はどこまで把握しているの? 私たちのやっていることの実態を」
「報道を見てわかる範囲でだけ。発覚した際に俺の独断ということに出来るよう、全権を委ねてもらっている。どこで聞かれているかわからない。具体的なことは一切報告していない」
慎重で献身的なコーネリアスらしいとラミアは思った。活動資金はバーナードから出ているが、それすら不正な方法での横領を偽装しているという。これならば、魔法的な手段でも使わない限り、バーナードの関与は証明出来ない。そしてそれは、裁判では証拠にならない。
「あなたは彼に直接会ったことあるの? 公式資料にある私設秘書の一覧には載ってないけど」
「一昨年、原因不明の死を遂げた秘書がいる」
まるで他人事のようにコーネリアスは言うが、その真意はラミアにもわかる。彼もまた偽名。
(コーネリアス・コールドウェル。イニシャルがCC。カーボンコピーとかけたのかしら?)
バーナードへの忠誠心だけを複製した別人。死んだことにして、闇に潜んだのだろう。コーネリアスほどの人物にそこまでさせるバーナード。実際に会ってみたいと思った。演説は何度も聞き、心を打たれたが、あくまでも表の姿に過ぎない。素顔の彼は、どんな人物なのだろう。
「さて、次の任務だが、まだ確定していない。とりあえず明日ということはないだろう。一日ゆっくりと休め。もっとも、お前に休息が必要なのかどうかは知らんが」
コーネリアスはそう言うと、大型端末を取り出した。その場でなにやら仕事を始めてしまう。次の作戦の検討に入ったのだろう。有能かつ精力的な、秘書の鑑と言える人物だと思う。
彼はラミアが夢幻の心臓だと知っている。ネクロファージが身体をすぐに修復し、疲労の原因物質も速やかに取り除く。だからその気になれば、不眠不休で働くことも可能な体質だとも。
(でも心には休息が必要なのよ、コーネリアス)
言葉には出さず、心の中でだけ呟くと、ラミアは軽く手を振りながら貸し会議室を去った。エレベーターの中で携帯端末を操作して呼び戻し、ビルの前で自分の車に乗り込む。
(また花束が置いてあるのかしら? 今日の花は何だろう)
任務の後、毎回仮の住まいに届けられる花束に思いを巡らせた。誰からのものか、明記はされていない。しかし、任務の内容や結果に応じた、手の込んだ選択であることから推測はつく。素っ気ない態度をとってはいても、コーネリアスなりの気遣いなのだろうと。
ワシントン湖に架かる橋を渡り、シアトル対岸のベルビューへと向かう。商業地域からそう遠くない高級住宅街の中に、コーネリアスが借りてくれた小さな一軒家がある。
(これは、皮肉なのかしら?)
玄関脇にピンクの薔薇が一輪だけ置かれていた。手に取ると、紅茶のような爽やかな香りがする。恐らくは、デュセス・ド・ブラバンという品種。ピンクの薔薇の花言葉は感謝。
子供たちを救出したことに対するものなら、人数と同じ数の花束にするはず。しかし一本だけ。白薔薇と赤薔薇両方を使う羽目になったことへの皮肉と捉えた。混ぜればピンクになる。
充分に香りと見た目を楽しむと、生体認証で扉を開けた。玄関ホールに置いてある花瓶が丁度空になっているのを見て、包装を剥がして薔薇を差し込む。
そのまま奥に進んで、寝室にしている部屋へと入った。そこはパステル調で統一された色彩。淡いピンクが多く、フリルのついたベッドカバーなど、ガーリッシュな感じの内装。
ベッドやテーブルの上に、いくつもの動物のぬいぐるみが置いてある。後ろ手にドアを閉めると、ラミアはその一つに駆け寄った。
「ただいま、アデル。シャーロット、少し埃被ったかしら? ――コニー、そこにいたのね」
ラミアはぬいぐるみ一つ一つの名前を呼んで頬ずりし、挙句の果てにはベッドにダイブして、大きなクマのぬいぐるみに飛びついた。
その氷の瞳は、春の陽射しで融けかけた氷河のようになっている。これがラミアにとっての精神安定剤のようなもの。そのままコニーを抱きしめて仰向けに寝転がる。
今日は特別に疲れた気がする。イレギュラーもあったが、特別な出逢いを感じたからだろうか。もっと違う形で知り合いたかったと思う。まだ穢れていなかった頃に。
(目が覚めたらすべて夢だったらいいのに。あの頃と変わらない、見た目通りの歳のままの、幸せな乙女であれば……)
そう思いながら、瞼を下ろす。血塗れの格好だが、シャワーや着替えは明日にして、眠ってしまおうと考えた。身体はネクロファージが治してくれるが、心を癒すには睡眠が必要だ。