第五話 菖蒲(アヤメ):希望
「……お母様?」
ラミアの気配に、祓魔師の少女が振り向いた。第一声が何故かその内容。
「ショックだわ……私、そんなに老けて見えるかしら?」
思わずラミアの口から不満の言葉が漏れる。少女は大きな眼で何度か瞬きしてから訂正した。
「ごめんなさい、なんでそんなこと言ったんだろ。歳は上みたいだから、お姉様ならいい?」
「それなら構わないけど……。身体の方はどう?」
少女は思い出したかのように自分の身体を眺め回しながら、再びあちらこちらをペタペタと触り始める。そしてやはり何度も首を傾げた。氣の流れ的には、完全な健康体に戻っている。それが不思議なのだろうとラミアは考えた。
「んー、ここって天国? もうちょっとロマンティックな場所かと思ってたんだけど……。もしかして地獄に堕ちちゃったのかな?」
周辺に散らばったままの首無したちの方を見て、眉をひそめる。次いで鼻をつまんだ。
「さすが地獄。酷い光景。それに死と血の臭いだらけ」
当たり前のことではあるが、状況を全く飲み込めていないようだった。
「おいで。一階へ下りましょう」
ここは場所が悪いと考え、ラミアは手を差し出す。少女は一切の躊躇も見せずに握り返してきた。地下の子供たちが気になるが、あれを見せたらもっと大変なことになりそうと思える。
そのまま引き起こして、リビングの外に連れ出した。図面では正面玄関がロビーのようになっていたのを思い出し、階段を下りる。予想通り、壁際にソファが置いてあった。
使用人たちはまだ各自の部屋の中で震えているようで、すぐには出てこないだろう。警察の到着も待たなくてはならない。大人しく付いてきた少女に手振りで促し、ソファに座らせた。
「周りを見てわかると思うけれど、ここは天国でも地獄でもないわ。あなたが何らかの任務で襲撃したロック歌手の別荘。たぶん吸血鬼を狩りに来たんだろうけど」
吸血鬼という単語を聞いて、ソファに身体を沈めたばかりの少女が跳ね起きる。
「そうだ、吸血鬼! あの吸血鬼どうなったの?」
ラミアは少女の両肩に手を当てソファへと押し戻しながら、努めて落ち着いた声で告げる。
「大丈夫、私がきちんと処分したわ。ごめんなさいね、もう少し早く私が動き出してれば、あなたは死にかけなくて済んだのに」
「お姉様があの吸血鬼を? 祓魔師じゃないみたいだけど」
少女の視線がラミアの身体を上下した。黒一色というところは共通しているが、祓魔師の制服ではないから、不思議なのだろう。その瞳が、右手のブレスレットのところで止まった。
「あれ……それ、マスカレイド?」
「そうよ。これで倒したの」
祓魔師という件には触れず、そこだけ肯定した。右手を持ち上げ、ぶら下がった十字架を少女の顔の前に持っていく。そこに視線が吸い寄せられながら、少女はまた首を傾げつつ問う。
「……それであたし、どうして生きてるの? もしかしてお姉様は、凄腕の治癒魔法使い?」
(そういうことにした方がいいのかしら……?)
どう答えるか、ラミアは迷った。頷けばこの場は収まるが、一時凌ぎでしかない。この先、怪我でもすれば、身体の異常に気付く。そのとき側にいて、説明してあげられるわけではない。
「私は治癒魔法は使えない。それに、使えても助からない状態だった。あなたの身体を治したのはネクロファージ。人を不老不死にする霊的寄生体。私があなたに血を分け与えたの」
少女の顔がみるみる青ざめていく。しかしラミアは、自分の左胸を両手で押さえ眼を閉じている最中。心の中で感謝していた。少女を救ってくれた、心臓の中のマザーネクロファージに。
「ネクロファージに完全適合する人間はごく稀なんだけど――ってちょっと、何してるの!?」
不審な動きを感じラミアが眼を開けると、どこから取り出したのか、少女はルナタイト製のダガーを手にし、自分の左手首を切る寸前だった。慌てて少女を組み伏せ、動けなくする。
「ミイラ取りがミイラになるって、このことなんだね。あいつに咬まれて、吸血鬼にされちゃったんだ。もう生きていけない。自分で自分を処分しなきゃ、神の敵として。だから放してー」
(なんか面倒くさい子、助けちゃったかしら?)
組み伏せたままダガーを取り上げながら、ラミアは深く溜息を吐いた。とはいえ、やったのはラミア自身。きちんと説明して、理解させる義務がある。
「落ち着いて聞いて。あの吸血鬼じゃなくて、私の血。私は夢幻の心臓。ネクロファージに完全適合した人間。真の不老不死。血は吸わないし、神の敵でもないわ」
「夢幻の心臓……? 完全適合……?」
「そう。あなたもよ。百万人に一人いるかどうかという奇跡のような確率だけれど、あなたは私のネクロファージに完全適合したの。だから吸血鬼とは違うし、将来堕ちることもない。半端に適合しただけの真祖とは違うの」
「このあたしが……そんな奇跡のような血を……?」
「だからリストカットなんてしても無駄。傷はすぐに治ってしまう。切ってもただ痛いだけよ」
その発言を聞くと、大人しくしていた少女が藻掻きだした。何とか自分の左手首を見て呟く。
「ホントだ、前に付けた傷、全部消えてる……」
(前に付けた傷? この子、常習犯なのかしら……?)
先程の動き、余りにも躊躇いがなかった。神の敵に対する信仰心だけでは、説明がつかないほどに。それなら都合良かったのかもしれない。これでそう簡単には自殺など出来なくなった。
「ネクロファージにはね、人としてあるべき姿を維持しようとする性質があるの。だから古傷も消える。手術でボルトやら人工臓器やら埋め込んでたら、そこも再生されて、あとで自然に排出されるわ。出てきてもびっくりしないでね?」
「すごい……お姉様は、牧師様と同じ奇跡の力を?」
「牧師様? あなた、夢幻の心臓の知り合いがいるの?」
「あたしがお世話になってる教会の牧師様。ジョシュア様っていうんだけど、あのお方が血を分け与えると、瀕死の人でも復活するの。まるで奇跡の御業のように。あたしも昔、そうやって助けてもらったんだ!」
夢幻の心臓の知り合いというだけでかなり胡散臭い。完全適合する確率は元より、死の間際に夢幻の心臓が側にいること自体も、奇跡に近いのだから。
牧師の行為は、ネクロファージを使っているように取れる所業だが、夢幻の心臓とは決めつけられない。むしろ神の敵の可能性がある。
(確認した方がいいかしら? でも何か矛盾してるわね……)
「あなた、本当に血を分け与えて助けてもらったの? その時どういう状況だった?」
「あたし、人生に絶望してリストカットして、失血死しかけてたの。何度もやって失敗してたけど、その時だけは上手く出来て。意識が遠くなっていって、ああ、やっと楽になれるんだなあ、って思ったら、牧師様が現れて助けてくれたの」
少女は嬉しそうに語った。しかし、やはり大きな矛盾がある。先程ラミアが与えるまでは、少女の身体にネクロファージは棲んでいなかった。
夢幻の心臓であるラミアには、自身のマザーネクロファージを通じて、他人のネクロファージを感じ取る力がある。あれだけ近付いて気付かなかったわけがない。
もしラミアの見落としだとしても、ネクロファージがいたのなら、少女は死にかけてなどいなかったのだ。リストカットの傷跡があったという話とも矛盾する。
ただしそれは、あくまでも牧師にネクロファージがいるという仮定に基づいた話。単なる宗教的パフォーマンスとして、血を振りかけているのかもしれない。牧師なら治癒魔法が使えてもおかしくはない。実際にはそれで治していると考えれば、納得はいく。
そもそも、助けたい相手が都合よく適合者であるわけがない。ネクロファージを使い、狙って人助けをするなどということは不可能。やはりパフォーマンスと考えるのが妥当。
「あの……あたしいつまでこうしてれば……? めっちゃ痛いんだけど……」
「あら、ごめんなさい。考え事してて、力が入り過ぎたみたい」
その言葉の通り、かなり強く締め付けてしまっていた。今は吸血鬼退治の職ではないが、ネクロファージが人を害するのは見過ごせない。深い思考に陥りすぎていたようだった。
既に落ち着いてはいるようだが、少女を解放する前に、ラミアは念のため確認した。
「もう自分を傷付けるなんてことしない? あなたは吸血鬼じゃないわ。生きてていいのよ」
「牧師様のために生きないと。あのお方の理想を叶えるために」
はっきりとした口調で少女は答えた。余程恩義を感じているらしい。これなら無駄に生命を散らすことはしないと判断すると、ラミアはその手を放して立ち上がった。少女は痛めた関節を擦りながら身体を起こす。ラミアが手を差し伸べると、笑顔でそれを取りながら言った。
「お姉様にもちゃんとお礼をしないと。生命の恩人みたいだし」
引っ張って立ち上がらせると、両手を前にしてペコリとお辞儀をしながら少女は続ける。亜麻色のツインテールが一緒に垂れ下がった。
「あたし、リリス・ブーランジェ。でもこれはコードネーム。恩人相手に失礼だから、本名も教えてあげる。フルール・ド・リス。国籍はこのNAEだけど、祖先はフランス系なんだって」
フルール・ド・リス。菖蒲を様式化した意匠の名前。かつてフランス王家の紋章に使われていたもの。欧州では広く普及し、ラミアの故郷イングランドでも、国章に使われていた時期があった。このNAEでも州の旗にあしらっているところがある。
(本名……なのかしら?)
思わず首を傾げつつ考えた。フルールという名前の人間は他にも知っているし、フルネームとしても成立しているようには感じる。しかし、そちらの方がコードネームに聞こえてしまう。とはいえ、詮索しても仕方がない。そのまま受けとめることにして、自己紹介を返した。
「私はラミア・クリステア。これもコードネームなんだけど、IDもそれで登録されてるし、ずっとその名前だけで生活してきたから、今では本名みたいなものよ」
「ラミア・クリステア……? んー、ルーマニアの人?」
「生まれはイングランド。ルーマニア系移民という設定で任務をこなしたときに付けられた名前なの。気に入ってるから、それをずっと使ってる」
嘘だった。そのときと同じ任務をこなしているから、同じものを選んだ。初めて暗殺を手掛けたときのコードネーム。暗殺者として生きている今、これ以外に名乗る名前を持たない。
「じゃあ、ラミアお姉様! よろしく!」
フルールはその名の通り、花が咲いたかのような明るい笑顔で元気よく答えた。ひとまず落ち着いたように見え、大丈夫と思える。次のことに着手しなければならない今、とても助かる。
なかなかラミアが戻らないからか、下の子供たちの間に不安が広まってきているのが、氣の揺れ方でわかる。一度戻ってなだめなくてはならない。
「ねえ、フルール――って呼んでいいかしら? 私ちょっと地下に用事があるから、ここで番をしててくれない? もうそろそろ警察が来る頃だと思うの」
「警察!? 大変、逃げなきゃ!」
フルールは慌てて玄関の外へと走り出そうとした。その首根っこを掴みながらラミアは言う。
「大丈夫よ。私は多分、人質救出に来た特殊部隊ってことになってるから。あなたは私の部下だって名乗って。警察が来たら、『隊長は地下にいるから、そちらに行ってくれ』とでも言って誘導して。私が戻るまで、あなたはそこで大人しく待っていること」
壁際のソファを指してラミアはそう命じた。下に連れていったら、大騒ぎしそうな性格と思える。置いていくのも、それはそれで心配ではあるが。
大きな眼を瞬きながら、フルールは驚きを顔全体で表現して訊ねてきた。
「特殊部隊なの? お姉様が? 人質って……あ、地下になんか人がたくさん……あの吸血鬼、大量誘拐でも? 身代金目当て?」
「そんな感じ。もし警察より前に変なのが来たら、相手しないで私との合流を優先してね」
単身乗り込んだことから予想されるフルールの性格だと、マフィアの仲間が来たら、一人で相手をしかねない。釘を刺しておくに越したことはなかった。
フルールが首を何度も縦に振るのを確認すると、ラミアはまた地下の子供たちの元へと舞い戻った。入り口から覗かせたラミアの顔を見て、子供たちの氣に明らかな安堵の色が浮かぶ。
「ごめんね、待たせて。もう一人、助けなきゃいけない子がいたから。よく泣かないで待っててくれたわね」
駆け寄ってきた子供たちを一人一人抱きしめていく。コーネリアスならば、この子たちの心のケアも考え、適切な人材を警察に同行させていることだろう。彼は頼りになる。考えるのはコーネリアスの仕事、動くのがラミアの仕事だった。
いくらも待たずにサイレンの音が多数聞こえてきた。警察が使っているタイプのもの。子供たちの耳にも入る大きさになると、小さく歓声が上がる。だがラミアはまだ肩の荷は下ろさず、警戒を解かなかった。サイレンの音くらい、いくらでも偽装出来る。
眼を閉じて集中し、氣と魔力を探る。もしあれがマフィアの偽装だった場合、最初に危険に晒されるのはフルール。玄関前に車が止まるころになって、やっとラミアは深く息を吐いた。
(コーネリアス、ありがとう)
氣の感じからして、本物の警察と思えた。救急隊らしき者たちも来てくれている。
フルールが何やらやり取りしている動きが伝わってくる。うまく説明してくれているか不安になって自分も上がろうとする前に、地下に向かって人々が下りてくるのを感じた。
「助けが来たわ。良かったわね、みんな」
「お姉ちゃんのおかげだよ」
そう言ってくれた男の子の笑顔に、自然と微笑を返していた。自覚はしていなかった。子供たちの誰一人として、ラミアが暗殺者だなどと思っていないだろうことにも。
自分は永遠の刻を生きる暗殺者。氷の瞳の黒薔薇姫。今も、これからも、それでいい。そう思っていた。愛も幸せも要らない。失うくらいなら、初めからない方がいいのだから。




