第一話 糸繰草(イトクリソウ):怯え、そして決意
「こんな時間にもやってるの、ミサ?」
サウス・タコマでハイウェイを下りるべく進路を変えながら、隣でそわそわしているフルールに向かって、ラミアはそう疑問を口にした。今日はミサのある日曜日。なのに、あいにく昼間の任務が舞い込んできて、こなしているうちに夕方になってしまった。
「うん、最後のミサなら間に合う。みんな色々と忙しいから、一日に何回もやるんだよ。今度ね、平日にもやろうかって案もあるんだって」
「そうなのね。日曜日が安息日なんて、もう昔のことだものね」
社会の発展とともに、曜日など関係のない仕事の方が増えた。昼夜逆転も当たり前。シアトルの街も、明かりが絶えることはない。もちろんラミアの仕事も、曜日時間問わず。
「お姉様は今日もサボり?」
「いつも通り裏の林で待ってるわ。あの場所、リラックス出来てなかなか居心地いいのよ」
「あたしもよくあそこでお昼寝してたよ。樹の上で!」
(樹の上って……この子の場合、熟睡する前に落ちるのが目に見えてるんだけど……)
加速力を活かして他の車を縫うようにして追い越し、教会へと急ぐと、ギリギリ時間には間に合ったようだった。フルールは車が完全に止まる前にドアを飛び越え、道路に降りる。
「行ってくるー!」
相変わらず忙しなく礼拝堂へと走り去った。ラミアはそれを微笑ましく見送ってから、車を近くの駐車スペースに回送させる設定をする。横着せずにドアを開けて地面に降り立つと、夕方とはいえまだまだ高い陽の下、裏の林へと回っていった。
以前感じた、銀の手らしき者たちもいるようだ。いずれ自らも吸血鬼と化す真祖たちで構成されている。手がけるのも吸血鬼相手とはいえ殺し。故に、敬虔な人物というのは知らない。
ミサそのものが目的というよりも、ジョシュアへの依存なのかもしれないと考えた。将来処分される側に回ることになる。その恐怖に苛まれて、心を病む者は多い。
梢が鳴らすサラサラとした音を聞きながら、初夏でも涼やかな風に吹かれて瞼を閉じた。靡く髪が少し長すぎる気がする。任務が入ったせいで、切ってもらう時間がなかったことを思い出した。その辺りはフルールの方がしっかりしていて、ここ最近はずっと任せっぱなし。
しばらく料理もしていない。今夜は自分で作ろうと思い立ち、フルールが好きなものをいくつも頭に浮かべた。そのうちどれが一番うまく作れるかを考える。他人のために作る料理の献立を考えたのなど、今世紀初めてかもしれない。
ミサが終わり、人々が帰っていく。ラミアはまだその場を動かない。毎回ジョシュアがここへ来て、話しかけてくる。案の定今日もフルールは礼拝堂から動かず、ジョシュアの神々しい氣だけがこちらに向かってきた。
「どうしてあなたは、いつもミサには出席なされないのですか?」
ラミアのところまで来ると、ジョシュアはそう問いかけてきた。初めてのことである。毎回ここでずっと待っていることは知っているのに、この疑問は口にしなかった。ラミアは氷の瞳のまま、何もないところを見つめて言う。
「私には出る資格がないわ」
「資格などという概念は存在しません。あるのは権利だけ。神の前ではすべての人は平等です」
「平等……ね。なら神なんていないわ。この世界の人々は、平等になんて扱われてないから」
「神はあなたを見捨てません。例えあなたが神を見捨てようとも。……今からもう一度ミサを開きましょう。あなたのためだけのミサ。平等を否定するのなら、特別を受け入れなさい」
気付くとフルールは礼拝堂からいなくなっており、無人となっていた。彼女が頼んだのかもしれない。気が進まないが、哀しむ顔を見るのは、もっと躊躇われる。
返事を待たず、先に歩き出していたジョシュアのあとを、ラミアは仕方なくついていった。裏口からではなく正面に回って中へ入る。その視線がふと右手の方へと向いた。
礼拝堂の隅に告解室、いわゆる懺悔を行う小部屋がある。ここには教派はないというフルールの言葉を思い出した。使いたがる人がいて、あとから設置したのだろう。
「ねえ、ミサの代わりに、あの部屋を使わせてくれないかしら?」
ラミアの視線の先にあるものを見て、ジョシュアは無言で頷き、先に神父が入る側のスペースへと足を踏み入れる。少し待ってから、仕切ってあるもう片側の部屋へとラミアは入った。
「どのやり方をお望みですか?」
ジョシュアは様々な教派に通じているのだろう。相手に合わせてやり方を変えているのだ。しかし今のラミアは、どのやり方にも従う気はなかった。
「ここには教派はないって聞いたわ。私はただ独り言を言いたいだけ。あなたも独り言を言いたければ言ってもいいわ」
「今は何も喋りたくない気分です。しばらく大人しくしていましょう」
かなりの時間、沈黙が流れた。ジョシュアはしびれを切らすこともなく、輝くばかりの氣は穏やかなリズムで優しく揺れている。それを心地よく感じながら、ラミアはついに口を開いた。
「私は、殺してはならない方をこの手にかけました。時の法王聖下です」
三十年前。まだラミアが夢幻の心臓となる以前の話。本物のうら若き乙女だったころ。
最も敬愛すべき大切な人物。信者たちのもう一人の父。列聖までされた本物の聖人。そんな人物を、ラミアはその手に掛けた。陰謀に巻き込まれた結果とはいえ、赦されるものではない。
「文字通り世界を守る要となられていたお方。結果として、私は世界を危機に晒しました」
ラミアの衝撃的な告白を聞いても、ジョシュアの氣はまったく動揺を示さない。ただ穏やかにラミアを照らし続けているかのようだった。
「神は悔い改める者をお赦しになられます」
「私はきっと、悔い改めてなんていません。今も殺しています、ただの人の子を。吸血鬼でもない普通の人間を、自らの身を守るためでもなく、ただ他人に命じられるままに殺しています」
「他人のためにその身を焦がす者は、その気高き心が、神によって救済されます」
「本当にこれでいいのでしょうか? 人を救うためなら、人を殺してもいいのでしょうか? あなたはかつて言いました。『誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』と」
「私はあなたに言った覚えはありませんが……。それにその教えは、復讐を禁じたものです」
「でもその前に『悪人に手向かってはならない』とあります」
「さらに前には、『目には目を、歯には歯をと命じられている。しかし、わたしは言っておく』と前置きがあります。必要なのは『報復の連鎖を断ち切る決意』です。彼にはきっとそれが出来ます。これからも手助けをしてあげてください」
いつの間にか問答となり、すでに具体的な話になっていたが、ラミアは構わず続ける。迷いを断ち切る力が欲しかった。背中を押してくれる人が欲しかった。だからここに入った。
「でもそのために、不殺の誓いを破るのは……」
ラミアの迷いは消えない。バーナードが目指しているものは正しくても、手段を間違えてはならない。
「『ローマ人への手紙』を知っていますか? 第十三章の四。『彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである』」
「その『彼』とは支配者のことです。法の番人のことを差していると理解しています」
「あなたは神の剣です。あなたにとっての『彼』が誰なのかは、私が決めることではないでしょう。『彼』に従いなさい。『彼』の正義を信じるのなら。この国の悪を断つために」
(私にとっての『彼』……。支配者であり、法の番人。この国の悪を裁く者)
それはバーナードに他ならない。彼には剣が必要だ。彼の持つ力は言葉だけ。言葉では敵は倒せない。神の敵は、神の剣たるラミアが、断罪しなくてはならない。
(振るうのはバーナード。私を導いてくれるのは、バーナード……)
それは自己暗示のようなものだったかもしれない。自分のやってきたことを正義とするために、バーナードの正義を利用する。自身が手を汚す理由とするために、彼の無力を利用する。
誰かが自分の力を必要としてくれている。自分の存在を必要としてくれている。それを証明するために、彼女は人を殺す。自身の生きる価値を求めて。今の彼女には、まだそれしか出来ない。それしか知らない。まだ、気付いていない。




