星? ペン?
その部屋はあまり広くはなく、ベッドと小さなテーブルに椅子がそれぞれ一つずつ置いてあるだけの部屋だった。
俺はベッドへと降ろされ、ロヒが俺の前へとしゃがみ込む。俺の切断された脚の、その切断面を観察しているようだ。
一頻り観察し終えると、次は棒や紐をどこからか持ってきて、俺の身体をすみずみまで測りだした。
その棒や紐には一定間隔で印しがあり、俺の身体へとそれらを宛てがうと紙へと何かを書き込んでいる。
この時にはまだ知らなかったが、後にその道具には紙とペンという名前がある事を知った。紙とペンというものを初めて見た瞬間であり、同時に文字というものがこの世界に存在する事も知った。
やっぱりこの世界は俺の居た世界とは異なる。死者の住む世界であっても驚く事はないだろう。
ロヒは身体の隅々を測っている。
脚の切断面回りはもちろん、耳や鼻、手の指、その指の爪の大きさなどなど、なんの為なのか判らない場所まで細かく測っていた。
時間が過ぎていく。
ロヒは休みも取らず、ずっと俺の身体を測りつづけている。
ふと、俺が窓の外へと目をやると、側で俺とロヒを見ていたラプもつられたように窓の外へと目を向けた。
この部屋の窓からは遠くに連なった山々が見えている。部屋へ入って来た時には白く見えた山々が赤く染まっていた。
窓の外を見ながらラプが口を開いた。
「ロヒ、――」
ラプの声を聞いたロヒも手を止め、窓の外へと目を向ける。二人が言葉を交わすとラプから俺へと念話が届いた。
「今日はもう遅いから、続きは明日にするみたい。タビトも疲れたでしょ。この部屋でゆっくりしていて」
ラプはそう云うと、ロヒと一緒に部屋を出ていってしまった。
一人になり、窓の外の夕焼けに染まった山々をぼんやりと眺めながら、今日一日の朝から見てきた事を思い出していた。
初めて見るもの、初めて聞く言葉、初めて味わう食事、初めて見る瞳の色の少女……。
そして、初めて見る夕焼け。
夕焼けなんて、俺が住んでいた山でも見る事が出来るし、何度も、毎日のように見ていた。今、目の前にある夕焼けに染まった山々は雪らしきものが積もった、森とは違う山だ。山というものにこんな表情があるのだと初めて知った。
俺が知っている夕焼けに染まる山は、どんな山だっただろう。まだ一年くらいの月日だというのに思い出す事ができない。
毎日のように見ていた風景だというのに、あまりにも身近にありすぎて記憶に残っていないのだろうか。
ベッドに横になり、そんな事を考えていると、いつの間にか眠っていたらしかった。
ラプに起こされ目覚める。
外は既に真っ暗で、空に星が見えていた。
「夕飯ができたから呼びにきたんだ。食べるよね?」
「うん」
ラプに背負われ、最初にこの家で入った部屋へと運ばれる。
テーブルの上には食事が並べられていた。俺にとっては豪華な食事だけれど、今日見た食事の中では一番質素なものだった。
ラプはそのテーブルの椅子へと俺を降ろすが、ロヒの姿は見当たらない。
「ロヒさんは?」
「仕事をしているよ」
ラプはそう云うと天井を見る。俺もつられて天井を見るが、これといってなにもない。
「この上に居るの?」
「うん。上で星を見てるよ」
「ほし?」
「うん。星」
「……」
星を見る事が仕事なのだろうか?
またもや初めてに遭遇したようだ。
「後で見にいこう」
「うん」
ロヒの仕事は真っ暗闇の中でなにかを見る仕事らしい。
星を見る仕事だなんて、とてもじゃないけれど信じられない。たぶん、なにか別の「ホシ」なのだろう。
この小屋の最上階と思われる場所まで階段を上がると真っ暗な部屋へと入る。なにも見えない。
目を凝らして見ていると星明かりでぼんやりとではあるけれど、窓際に座ったロヒが筒状のものを覗いているらしい姿が見えてくる。
本当に星を見ているらしい。
そんな仕事があるなんて、俺には想像すらできないことだった。
目が慣れてきても暗すぎて俺にはロヒの姿がぼんやりと判るくらいでしかなく、部屋の様子もなにかが山積になっているらしい事しか判らない。
窓が開いているので寒い。ほんの少しの時間で手先が冷たくなった事を感じた。再生された腕は完全に俺の腕となったようだ。
時折、ロヒがほんの少しだけ身体の向きを変えると同時に、カサカサとなにか小さなものが擦れる音が聞こえてくる。
「なんの音?」
「ん? 音?」
「うん。カサカサと擦れる音がしたよね?」
「……あぁ。ロヒがペンでなにかを書き込んでいる音だよ」
「ぺん?」
「うん。ペン」
昼間にロヒが使っていた道具に名前がある事を知ったが、まあ名前があるのは当然だろう。
「ロヒはここで星の動きを観察して、それを記録しているんだって」
「星の動き?」
「うん」
「なんで?」
「……さぁ?」
星なんて、北の方向の一点を中心に回っているものだと育ててくれた小父さんに聞いた事がある。観察しなければならないほど変な動きはしないものだと思っていたけれど、この辺りの星は違うのだろうか?
「……」
「……」
「下に行こうか」
「うん」
寒い暗闇の中で、なにをやっているのかも判らないロヒの仕事は、あまり面白いと感じる事はできなかった。俺を背負っていたラプはゆっくりと階段を降りだす。ロヒの仕事の邪魔にならないように音を立てずに降りているようだった。
夕飯を食べたテーブルへと戻り、椅子へと座る。ラプが正面に座り、いつもの和やかな笑顔を俺へと向けた。
「疲れたよね。もう寝る?」
「いや、さっきまで寝ていたし、あまり疲れたって感じはないかな。俺よりラプの方が疲れたでしょ?」
「僕はこれくらいじゃ疲れないよ。昨日、今日となにか面白いものあった?」
「全部」
「全部?」
「うん。見たもの全部が面白かったよ」
「そう。良かった」
そう云うと、また笑顔を俺へと向ける。
竜だからなのか、それともこの辺りの人であっても同じような笑顔を絶やす事がないものなのだろうか?
「あ、でも、ロヒさんの仕事はよく判らなかったかな……」
「うん。僕もよくは判らないんだ」
ラプは笑顔から笑い顔へと変わった。
その晩はベッドに入るとすぐに眠りに落ちた。
さほど動く事がない俺は、それ程疲れる訳ではないと思うのだが、すぐに眠る事ができる。
この二日は朝から初めて見るものばかりで、興奮状態が続いていたからなのだろうか。
次の日、朝遅くに起き、眩しい日の光をベッドで浴びながら目が覚める。
窓の外に見える景色は、白い雲の海から突き出した、山頂が白い山並みと、青い空だけが見える世界だった。上空には雲一つ見えない。
一昨日までの真っ暗な洞窟とは対照的に、ここには光が溢れている。これほどの幸福感を感じる朝は、俺の生きてきたこれまでの記憶にはないものだった。
起きたくても起きる事ができない俺は、ベッドの中でその幸福感に浸りながらぼんやりと窓の外を眺めていた。ほどなくしてラプが部屋へと入ってくる。
「あ、もう起きてたんだ。朝食、できたからいこう」
この二日の食事に比べれば質素な朝食だったけれど、昨晩と同じで美味しい。
俺はこんなに幸せで良いのだろうか? その内に反動で酷い目にあってしまうのではないだろうか? なんだか怖くなってしまう。
食べ終わると部屋へと戻る。ロヒは昼過ぎまで寝ているらしく、昨日の続きの採寸は昼過ぎまではないらしい。
やる事もないので一人、窓の外を眺めて過ごすしかない。ラプはこの小屋の中で忙しく動きまわっているようだ。掃除や洗濯などをやっているらしい。
そうしていると、またすぐにラプが部屋へとやってきて、今度は昼食だという。俺は最近太りぎみだ。
昼を過ぎ、やる事もなく窓辺でうとうととしているとロヒがラプと一緒に部屋へと入ってきた。
俺は昨日と同じようにベッドへと座り、ロヒが身体中を採寸する。
採寸作業は夕方前には終わった。結局、この二日は採寸だけで終わりらしい。
ペンを置いたロヒは、描き込んだ紙を難しい顔をして見ている。
ラプもいつもと違って、心配そうな顔をしてロヒを見ていた。
そんな二人を見ている俺の中に不安が生まれる。
俺はこの小屋へと来るまで、到着したその日の内に新しい脚が貰えるのだと思っていた。考えてみればそんな簡単なものではないだろう。
腕は俺の意識がない間に、いつの間にか再生されていたけれど、その腕だって俺が見ていないだけで、きっと途轍もなく難しい事だったのではないだろうか。
ここでロヒが「無理だ」と言ったところで、不思議な事ではないだろう。ラプは確約していた訳ではなかったのだ。
突然、ロヒが置いていたペンを取ると、新しい紙へと脚らしき絵を描きだす。
数枚の紙にいくつかの絵を描き終えると、その数枚の紙をベッドへと並べて眺めだした。
「――――」
難しい顔をしたままロヒがなにかを呟くように話し、ラプがそれに答える。
ロヒは広げた紙を一つに重ね持ち上げると、またなにかを言い終えてすぐに部屋を出ていってしまった。
「えっと、ラプ。どうなったのかな?」
「たぶん、大丈夫だろうって」
「だいじょうぶ?」
「うん。作れるんじゃないかって言ってた」
まだ確約はされていない。それにラプの顔からはいつもの笑顔が消えている。
俺がラプの顔に不安を感じている事を察したかのように、ラプは笑顔を作った。
「心配いらないよ。大丈夫さ」
その笑顔はいつもと違っている。なにがとは言えないけれど、どこかしら不安があるような笑顔だ。
「そんな心配よりも、タビトは明日から、色々とやらなければならないことがあるからね」
「やること?」
ラプは笑顔を取り戻したようだ。不安が消えたように感じる。
「うん。大変だよぉー」
その言葉には、それほど大変な事だというような感じがせず、どちらかといえば楽しい事だといっているように感じた。