雪? 氷?
「人間は大丈夫だと思ったんだ。ごめん」
朝、起きると頭が痛い。ラプは葡萄酒の所為だと云う。
確かに村の大人達でも酒を飲んだ翌日には、よく気持ちが悪いと言っている奴が居た事を思い出す。
「いや、大丈夫だよ。飲みすぎたんだと思う。少しなら問題なかったんだよ」
「そう。でも、もう飲まないほうがいいかもね。僕も頭が痛くなるのだからアスラの方が変なんだ」
そう云うとラプは部屋の入口へと身体を向けた。
「今日はベッドで食べたほうがいいね。今、スープを持ってくるよ」
「あ……」
俺は言葉を飲み込んだ。
別段、俺がテーブルまで行く事に問題はなかった。
ラプにとっては俺を背負ってテーブルまで行かなくても良いので、そのほうが良いのかもしれない。
早くラプに迷惑を掛けなくても良い生活をしたかった。
それからの四ヶ月も、ラプにずっと寄り添ってもらいながら生活を送った。
ラプは、アスラという人物の実家とやらへ五日に一度は行っていたが、その度に俺は不安になってしまう。
このままラプが帰らなければ、俺はこのベッドの上で死ぬのを待つだけになってしまうだろう。
そんなラプが居ない日は眠ってしまうことにしていたが、眠る事もいつもの悪夢を見てしまいそうで、怖いと感じてしまう。
この悪夢を見ない方法というのは無いものだろうか。
そんなある日、テーブルで夕飯を食べ終わるとラプが云った。その目は俺の再生された腕を見ているようだ。
「もう、腕は痛くはないよね?」
俺の再生された腕は、斬り落とされる前と変わりないくらいに使えていた。力を込めれば若干の痛みはあるが、それ以外に問題は思い当たらない。
ずっと寝てばかりいた所為か、身体はだらしなく太りぎみだ。その代わりなのか腕は細く見える。
「うん。ほとんど痛みはないよ」
「そう……。それじゃ、そろそろロヒの所へいくことにしようか」
「ロヒ?」
「うん。ロヒに義足を作ってもらおう」
ラプを信じてはいるが、不安が俺の中に生まれる。
腕の再生は確かに強烈な痛みだった。もしもラプが居てくれなければ食事すらまともに口にする事が出来なかったはずだ。
ラプのお陰で俺はその苦痛を乗り切る事が出来たが、痛みで眠れない日々は一生忘れる事は出来ないだろう。
「痛くは、ないんだよな?」
「うん。そういってた」
「誰が?」
「アスラ。アスラは腕だけど、たぶん同じじゃないかな?」
ラプを信じてはいるが……。その曖昧な答えは、俺の中の不安を消す事はなかった。
それから二日後、いよいよ、この洞窟を出る日が来た。
ラプがじいさんと呼んでいた竜の顔を抱きしめている。
数分間をそうしていたが、ラプの顔は悲しそうに見えた。
三日前にラプからロヒの所へ行くと云われた時、俺の中に生まれた不安は、この時、痛みが原因ではない事を知る。
俺はこの居心地の良い洞窟から離れる事に不安を感じていたようだ。
まだ会った事も無いロヒという人物。行った事も無い土地。
人では無いラプに連れて行かれるその先にはなにが待っているのだろうか?
ラプが巨大な竜の顔から離れ、座っている俺の側に来ると「これを持っていてくれるかな」と云って背嚢を俺へと渡し服を脱ぎ出す。脱いだ服も俺へと渡してきた。
ラプは素っ裸になると、その小さな身体を巨大な竜の姿へと変えた。巨大とはいっても、ラプがじいさんと呼んでいる竜の半分もない。
「ちょっと我慢してね」
ラプは念話でそう話しかけながら、その巨大な顔を俺の目の前まで突き出してくると、これまた巨大な口を開け、俺の胴体を、咥えた。
「うっ」
ラプを信じてはいる。けれど、人の姿の時とは違い、あまり大人しそうには見えないその顔に在る巨大な口には、巨大な牙が生えていた。そんな口に突然咥えられればそんな声は出るものだ。
「あ、ごめん。起きている時に咥えたのは初めてだったね」
ラプは軽く咥えているらしく痛みはない。
下の歯に俺が当たらないように舌を歯の上に置いているようで、俺の身体は柔らかい感触を感じた。それと同時に生暖かさも感じる。
ラプは俺を咥えたまま持ち上げると、首を振り、俺を自分の背中へと投げ飛ばした。
「うぉ」
「ごめん。痛かった?」
「いや、平気だ。ありがとう」
「うん。それじゃいくよ」
ラプが歩きだす。
「あ、待って」
俺はじいさんへと身体を向けようと藻掻く。俺がやろうとした事に気付いたかのようにラプは少しだけその巨体を立ててくれた。
俺は上半身をじいさんと呼ばれている竜へと向ける。
「じいさん。これまでありがとう。一人で歩けるようになったら、お礼にまた来ます」
その竜は閉じていた目を薄く開き俺を見る。
少し待つがじいさんは黙ったままだった。
「ラプ、いこう。じいさん。本当に、ありがとう」
このじいさんと呼ばれる竜とは最後まで会話を交す事がなかった。どうやら俺は嫌われているようだ。
それでも大きな恩を受けている事は確かだ。いつになるかは見当もつかないが、俺はこの恩を返さなければならないだろう。
「俺はやっぱり嫌われているみたいだったね」
「そんなことはないよ。嫌いなわけじゃないんだ……」
ラプは俺を背中に乗せたまま洞窟の中を移動する。
俺が乗っている所為で、ラプは背中を地面と水平にしている。前屈みのままでは歩き辛いだろう。なんだか申し分けなく感じてしまう。
先に進むと、その先に眩しい程の明るさを感じた。あの光が洞窟の出口らしい。
出口に近づくにつれ光は更に強くなってくる。その眩しさに俺は目を細め、洞窟を出ると目を開けてはいられないほどだった。
「なんだか眩しすぎないか。世界が真っ白に見える」
「ここは雪と氷の世界だからね。暗い場所に居たから、さらに眩しく感じるんだよ」
薄目を開け目を馴らしていくと、徐々に周りの景色が判るようになってくる。
目に映る景色は初めて見る真っ白な世界だった。
木らしきものも見えるが、その木にも雪というものが積もっているらしく、木が白い服を着ているようだ。
「あの白いのが、全部、雪?」
「うん。そう。足元のは氷だよ」
「こおり?」
「うん」
確か、水が寒い場所では固いものに変化すると聞いた事がある。それが氷なのだろうか?
「氷って、水、だっけ?」
「うん。水だね。雪も水だけど」
雪も水? なんだか俺には判らない世界だ。本当は俺は既に死んでいて、ここは死者が住む世界なのではないだろうか。そんな事を考えてしまう。
ラプの念話が少し笑ったように感じた。
「それじゃ飛ぶよ」
ラプは前屈みになったまま、一度だけ羽搏く。
積もった雪が舞い上がり周りの景色を隠すと、身体が下へと軽く抑えつけられる感覚を感じる。
雪煙の中を上へと抜けると、そこには見渡す限りの真っ白な世界が眼の前に広がった。
「すご……」
一瞬、言葉を飲んだ。
初めてみる真っ白な世界は、俺がこれまで見てきた世界とはまったく違うものだ。
「やっぱり俺、死んでるんじゃないのか……」
またもやラプが笑ったように感じた。
空は寒かった。
「背嚢に毛布が入っているから、それを身体に巻いて。横になっていれば寒さは凌げると思う」
ラプの念話に従って、ラプの背嚢から毛布を取り出す。
毛布を身体に巻き付けると仰向けに寝転がった。背中に感じるラプの身体は熱を持っているようで、暖かい。
仰向けになると、見えるものは空しかない。これほど空の青さを懐しいと感じた事はなかった。横を向けば白い地面が広がっていて、果ては見えない。
人の中で俺のような経験をした者など、この世界に居るのだろうか?
俺は今、途轍もない幸運の中にいるのではないだろうか?
四肢を引き換えにしてしまった経験だが、その無くした四肢ももうすぐ取り戻す事ができるのだ。そう考えると、そう悪くはない経験なのかもしれない。
ほぼ一年ぶりの明るい太陽と、これまで見た事のない景色の中に居る俺は、今、人生最大の興奮を感じていた。
「じいさんはね……タビトと親しくなるのが怖かったんだ」
上空を飛び、俺の興奮が収まりだした頃、ラプの念話が俺の頭に響いた。
「……怖くてタビトと話をしなかったんだよ」
「怖い?」
「タビトをあの洞窟に運び込んだ時、じいさんにいわれたんだ。『人との別れは辛くなるぞ』って」
「別れ? ラプはどこかへいっちまうのか?」
「僕がどこかへいくんじゃないよ。……人が……僕達には手が届かない場所へいってしまうんだ」
「どういうことだ? 俺はどこにもいく気はないぞ。少なくとも今は、そのどこかへいくための足すらない」
「……うん。そうだね。……今のは気にしないで。とにかく、じいさんはタビトが嫌いってことじゃないんだ。だから、また、機会があれば、あのじいさんに会いにいって欲しい」
「ああ、礼もちゃんとできていないからな。もちろん会いにいくよ」
「うん……」
ラプの念話にはいつもと違う感情を感じる。
その感情は寂しさだろうか。それとも悲しみだろうか。
どちらにしても、いつも笑顔を見せているラプらしからぬ感情だと感じた。