スープ? 酒?
ずっとベッドで横になっている生活をしていると、月日の感覚が麻痺してしまう。
この昼も夜も暗い小屋に来てから、どれくらいの月日が経ったのか判らなくなり、その都度ラプへと訊いていた。
「そろそろ十ヶ月くらい経つね」
まだ十ヶ月、いやもう十ヶ月。俺の中での月日は、その長さすらよく判らないものになってしまっている。
「もう、ほとんど痛みはないよね」
最近では動かすくらいでは痛みはでない。手を開いたり閉じたりしようとすると痛みが走るが、それも我慢できるほどでしかなかった。
食事もスプーンくらいであれば持てるようになっていたので、なんとか一人で食べられるようにはなっていた。
「次から食事はあっちのテーブルでやろう」
「この部屋の外ってこと?」
「うん」
やっとこの部屋を出て、外を見る事ができるようだ。
部屋を出ても、そこは暗い。
ラプに背負われて部屋を出る事になったが、なんとも情けない。
ラプは俺をベンチ式の椅子へと下ろし、座りがよくなるように位置を調整する。
俺の座りが安定すると、ラプは焚き火へ薪をくべた。一瞬、洞窟の中が明るくなる。
そして、いつもは部屋の外に在る壁だと思っていたものが、一体の巨大な生物だった事を知ると、俺は椅子から転げ落ちそうになるくらいに驚いてしまった。
ラプがすぐに俺を支えてくれる。
「大丈夫?」
「あ、あぁ、ありがとう。もう大丈夫」
「あ、そうか。じいさんを真面に見るのは初めてなんだ」
「え? ああ、この……竜、だっけ? この竜が俺の腕を治してくれたっていう……」
「うん。そう。じいさん。創成の竜って僕以外からは呼ばれているみたい」
「そうせい……」
その竜と呼ばれる生物は目を瞑り眠っているように動かない。
ラプも今は人の姿だが同じ竜のはずだ。しかし、俺が見たラプの竜だった姿は、今、目の前に横たわっている竜の半分もなかったのではないだろうか。
「眠っているのか?」
「ん? どうだろう……」
ラプがその竜へと顔を向ける。
「――――」
ラプが巨大な竜へとなにかを話したようだ。異国の言葉らしく俺にはなにを話したのかは判らない。
その巨大な生物は目を細く開け、ラプへと視線を向けたかと思うと、すぐにまた閉じてしまった。
「……起きてるって。ただ目を瞑っているだけだってさ」
そう云うとラプはテーブルに置いてあった鍋を持ち上げ、焚き火へと掛ける。
「そう……なんだ。あの竜はラプのように話せないのか?」
「え? そんなことないよ。……でも、あまり話したくないみたい」
「そうなんだ……」
それでも、一方的であったとしても、俺は礼をいう必要があるだろう。
「ラプ、俺から話し掛けても問題ないかな?」
「あ、うん。問題ないよ。言葉は意味が判らないと思うけれど、意志は届くから話し掛けても構わないよ」
俺はその巨大な竜と呼ばれる生物へ向かい声を出す。人ではない生物に真面目に話し掛ける事なんて生まれて初めての事だ。
「えっと、じいさん。あ、そうせい、の、りゅうさん、……だっけ。腕を治してくれて、ありがとう」
俺がそう言うと、その竜は目を細く開け、ぼんやりと俺を見る。ラプと同じように頭の中へ返事がくるのだろう。
焚き火の様子を見ていたラプがその竜へと目を向けた。
「……自分でいえばいいのに……。タビト、じいさんが、『きにするな』だって」
「え? ああ、ありがと」
その巨大な生物は俺と直接、話したくはないらしい。
その洞窟内は広く、暗い。
明かりは焚き火だけで、洞窟の奥がどうなっているのかは見えなかった。
じっとしているとかなり冷え込んでくる。
「寒いかな?」
「うん。まあ、我慢はできるよ」
「食べ終わったら、すぐベッドに戻ろう」
ラプはそういうと、スープが入った木の皿を俺の前に置く。
木製のスプーンでスープを掬い、口へ運んだ。
スープに入っているものは何かの肉と茸のようなものしか入ってはいない。
毎日、同じようなものしか食べていないが、この辺りでは野草などは採れないのだろうか?
そんな事をラプに云う訳にはいかないが、俺の考えを読んだかのようにラプが云った。
「茸はちょっと南に別の竜が住む里があって、たまにそこへ行って分けてもらっているのだけれど、そろそろ野菜も食べなきゃ身体に悪いかな……。この辺りは雪が深いから、野草も採れないし、青竜の里じゃ野菜は作ってないし……」
そういえばこの辺りは雪が降ると云っていたか。あまり雪というものを知らない俺には、なぜ野草が採れないのかは判らない。寒すぎるという事なのだろうか?
「俺のことは気にしなくてもいいよ。このスープだけでも十分、美味しいから」
「人は野菜も摂らないと、身体を壊すって聞いたことがあるよ。明日あたり、アスラの実家にでも行ってみることにするよ」
「あすら?」
「うん。僕の知り合いの家があるんだ。まあ、一日あればなんとか往復できると思うから行ってみるよ」
そう云って、いつものように俺へと笑顔を見せるラプ。スープを口に入れ、美味しそうに笑顔を増すその顔は、この暗く寒い洞窟に居ても、俺に暖かさを感じさせてくれた。
次の日、朝早く、とは言っても日の光を見ていない俺は、時刻の感覚がおかしくなっているので今が朝なのか夜なのかも判然としていないのだが。
多分、朝早いのだと思うが、ラプは俺を起すと朝食を食べろという。
「今は朝?」
「うん。まだ日は昇っていないけど、今日はアスラの実家に行ってくるよ。帰りは夜になると思う」
「ああ、うん」
ラプが居るか居ないかに関係なく、俺は一日を横になって過すだけなので、それほど気にする事ではなかった。
しかし、側にラプが居ないその日は酷く心細いと感じる事になってしまった。
何もする事がなく、ずっと横になっているだけの日は退屈というよりは、世界に自分だけしか存在しないのではないかと思ってしまい、恐怖すら感じてしまう。
ラプが帰ってくるまで眠ってしまえれば良いのだが、毎日を横になって暮らしている俺は、そう簡単に眠る事もできない。
うとうととしても、目覚めてラプが居ない事を知ると、また心細さがぶり返してしまう。
そんな事を繰り返していた一日だった。
最近、嫌な夢を良く見る。
村が襲われ、俺の腕が斬り落とされた日の事を何度も夢に見ていた。
何度も見ているのに、それが夢だとは気付けず、その目覚めの度に最悪の気分を味わっている。
「うぁ」
今も、左腕が斬り落とされたのと同時に目覚めた。
跳ね起き、汗で全身が濡れ、夢だというのに斬られた腕に疼くような痛みさえ感じる。
「大丈夫?」
ベッドの横でラプが心配そうな顔をして俺を見ていた。
「ラプ……。帰ってたんだ」
「うん。遅くなっちゃったけど、今、夕飯を作ってるから、もうちょっと待っててね」
「あぁ、……いつも悪いな」
俺の言葉に笑顔で答えたラプは「気にしないで。今は身体を治す事に気をつかってね」と云って部屋を出ていった。
この悪夢はこの先ずっと見続けなければならないのだろうか?
今はラプの笑顔がこの悪夢を癒してくれているが、ラプが居なくなってしまえば俺は頭がおかしくなってしまうのではないだろうか。
その日の夕飯は、これまでで一番豪華なものだった。
量はそれ程多くはないが、この洞窟に来てからはもちろん、俺が生きてきた中でも最高の食事だろう。
テーブルには焼いた魚と炒めた野菜。さらには焼いた肉もあり、それには美味しそうな液体がかかっている。
テーブルいっぱいに並んだその料理は、どれも美味しそうな匂いをさせていた。
「ゆっくり食べてね。これまでずっとスープだけだったから、あまりいっぱい食べちゃうと身体によくないかもしれない」
「え? ああ、うん。食べていいか?」
「どうぞ」
ラプが笑顔でそう云うと同時に俺は齧り付くように、目の前の食事を片っ端から口へと運んだ。
「ゲホ、……コホコホ」
早く食べすぎて咳こんでしまう。
「ゆっくり食べなきゃだめだよ」
ラプはそう云うとコップに赤い液体を入れ、俺の前へと置いた。
「……これは? 飲めるのか?」
「うん。葡萄酒っていうらしいよ。僕はあまり飲めないけれど、アスラは大好物だっていってたから人間には美味しいものなんじゃないかな」
一口、口に含む。
確か、これは酒というもののはずだ。
「これ、酒だな」
「うん。アスラの話だと気持ち良くなれるっていってたけど、僕は頭が痛くなるから、あまり好きじゃないんだ。……おいしい?」
「え? あ、うん。不味くはないと、思う」
昔、小父さんに飲まされた事があったが、その酒とはまた違う味に感じた。
不味くはないが、それほど美味しいとも感じない。村の大人達はよく飲んでいたが、その内に美味しく感じてくるのかもしれない。
その豪華な夕飯を食べ、葡萄酒を飲み、その後は、なんだか夢の中に居るような気分になってしまった。
この日の夕飯は、生涯忘れる事はないだろう。