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帰する人  作者: 山鳥月弓
神の国での生活
15/30

抜く? 抜かない?

 朝食の時にはラプへ剣を抜くという事が言えなかった。

 ラプに心配をさせる事になる。これまででも数え切れない程の心配をラプにはさせてしまっている。

 それなのに俺自身がその心配事を増やそうというのだから躊躇してしまう。


 この一週間、ラプの顔には心の底からの笑顔というものが無い。

 いつもはにこにこと笑顔を絶やさないのに、この一週間は俺の顔を心配そうに見ている事が多かった。

 ラプにはいつもの笑顔に戻って欲しい。


 昼食時には言う事ができたけれど、それは「剣を抜く」ではなく、「午後は歩く練習を見ていて欲しい」という事だけだった。

 ラプは不思議そうに「うん」と言っただけだったけれど、すぐに不安な顔になっていた。

 この不安な顔を笑顔に戻すには、俺が剣を見ても平気なのだという事を見せればいいはずだ。


 俺が歩く練習の為に庭へと出るとラプも後ろを付いてくる。

 いつものように椅子にラプが座ると俺はラプへと振り返った。その顔は不安そうに俺を見ている。

「……あのさ……、ヴェナが言っていたように、そろそろ剣を抜いてみようと思う……」

 ラプの表情は俺の考えを読んでいたかのように、まったく変化がなく不安そうなままだ。


「それじゃ見ていて」

 剣を両手に持ち、腕を伸ばして突き出すように剣を横にして目の前に翳す。剣の柄を右手に、鞘を左手に持った状態で、左手を(つば)に当たるまで滑らせた。

 親指を鍔へと掛け、少しだけ押すように力を入れる。そのまま力を込めて剣を抜けば、剣の、あのギラギラとした銀色の剣身が見えるだろう。そう想像した瞬間、寒気が両手の先から全身へと抜けるように走った。

 俺は次の瞬間、その場に尻餅をついていた。なにが起きたのか判らない。

 寒気を感じたはずなのに、汗を全身にかいている。

 なんだか頭も痛い。のどもカラカラだ。


「脚にも意識を向けていないと、立てないんじゃない?」

 ラプの声に自分の状態を理解する。

「ああ、そうか……」

 今の俺は自分の脚で立つという意識を強く持たなければ立っている事すらできない身体なのだ。意識を剣へ集中させてしまうと脚を踏ん張る事すらできない。

 ラプは椅子から立ち上がり、俺の方へと歩いてくる。

 俺は立ち上がろうと藻掻くけれど、手摺りが無い場所ではまだ上手く立ち上がる事が出来なかった。

 ラプが俺の前に来ると手を差し出した。

「あ、ありがと……」

 俺がラプの手を掴むとラプは両手で俺の身体を引き、俺の腰が浮く。そのまま勢いを付けて立ち上がると意識を脚へと向けた。そうしなければ立っている事は出来ない。なんだか情けない……。


 俺の足元に落ちていた剣をラプは拾うと、俺へと視線を向けた。

「まだやるの?」

「……」

 なんとなくラプの言葉を待ってしまっていた。

 ラプに止めて欲しいと思っているらしい自分の無意識の考えを意識できた瞬間、声を出した。

「やる」

 そう言うと、ラプから剣を受け取り、先刻と同じように剣を両手に持ち目の前に突き出す。

「座ってやったら?」

 ラプの視線が先刻まで座っていた椅子へと向いている。今はまだ無意識で立っていられる程、立つという事に慣れていない。座ってやった方が良いだろう。

「うん」

 そう言うとゆっくりと椅子の方へと歩いた。


 いつもはラプが座っている椅子に座り、立っているラプを見る。なにも言う事はないようだ。止めて欲しいと思ってしまうのはヴェナが言うように俺が弱いからなのだろう。

 手に持った剣を先刻と同じように前に翳して、同じように左手を(つば)へと掛ける。

 この剣を見続ける事ができるようになれば俺は少しだけ強くなった事になるのだろうか?

 違うな。

 それは他の人と同じになっただけだ。剣を見ただけで倒れてしまう人間なんて、俺以外では殆ど居ないだろう。

 俺だって昔は剣を見ただけで倒れるなんて事はなかったはずだ。つまり俺は弱くなってしまったのだ。

 今は弱くなってしまった俺を普通の人間に戻れるようにしようとしているだけなんだ。

 戻らなければならない。


 鍔へ掛けた親指に力を込める。

 カチンという音がし、ほんの少しだけ剣身の根本が見えるが、それはまだギラギラとした銀色の剣身ではなく、黒い、剣身を柄へと止めるための金具のようだった。

 今は鞘を抜くような力は入れてはいない。ほんの少しだけ力を込めればすぐに剣身が見えるだろう。

 額に脂汗が浮いているのが判る。全身に汗をかき、剣を握っている手も湿っていた。先刻から鼓動に合わせて頭痛がするが、吐き気の方が酷く、ほんのちょっとした切っ掛けがあれば先刻食べたものを戻しそうだ。

 目に霞がかかったようにぼんやりとした視界の中に剣だけがはっきりと見えていた。

 このまま剣を抜けば、その先には気を失う自分の姿しか想像できない。


「パン」

 突然の音に、その方向へ目を向けるとラプが掌を合わせている。音の正体はラプが掌を打合わせて出した音らしい。

「えっ? なに?」

「タビト、これまで剣を持っていられたのは剣から意識を逸らせていたからなのでしょ? そんなに剣に集中しちゃってていいの?」

 集中? そんな気はなかったけれど、俺はどうやら剣に集中していたらしい。そういえば、ラプの声が俺を呼んでいたような気がする。俺はそれに気付かず、ラプは掌を打って気付かせてくれたのだろう。

「……あぁ、……そういえば、そうか……」

 これまで剣を担いでいられたのは剣から意識を遠ざけていたからだ。今のように剣に集中していては、これまでにやってきた事とは真逆の方法で剣と対峙しようとしている事になる。

 でも、どうすれば意識を逸らしたままで剣身を見る事ができるのだろうか?


 ほんの少しだけ抜いていた剣を鞘へと収める。

「やっぱりダメだね。剣に意識を向けないで剣を抜く方法を考えてから挑戦するよ……。実は今にも吐きそうだったんだ……」

 そう言うと椅子の肘掛けを両手で突っ張り、立ち上がった。

 手に持った剣を背中に担ぎ、そこから意識を遠ざけるように、歩く事だけを考えて脚を運ぶ。

「今日は歩く練習をするよ……」

「うん」

 剣を視界の外に置くだけで吐き気や頭の痛みが柔らいでくる。たったそれだけの事なのに体調が戻るなんて、本当に剣身を見てしまっていたらどうなっていたのだろうか?

 まだ早すぎたのだろう。

 本音をいえば、少しほっとしていた。


 その日から三日目の朝、ヴェナが現れた。何も言わないまま、ラプと俺が朝食を摂っているテーブルにつくと、じっと俺の方を見る。

「……なに? 食べづらいのだけど……」

「ヴェナも食べる?」

 ラプはヴェナも食べたがっていると思ったらしい。でも、違うようだ。その目は少しイライラとしたような、なんとなく不穏な気配を感じる。

「いつまで待たせるの?」

 開いた口からは詰問が出てくる。まあ、なんとなくそんな気はしていた。

「まだ二週間も経っていないよ……。俺だって早く治したいんだ」

「なによ。簡単な事なんだから早く治せばいいじゃないの」

「簡単?」

「ええ、簡単よ。剣を抜いて目の前に置いておくだけで治っちゃうでしょ」

「簡単じゃないよっ。死ぬ程辛いんだぞ」

「私だって死ぬ程辛いのよ。剣の練習相手が居ないの。腕が鈍っちゃいそうで、心配なのよ」

「アスラが居るでしょ」

 ラプの言葉にヴェナは少し不服そうな顔をして答えた。

「お父様は四日前からタットロスへ行っているわ。アダクムも捕まらないし……」

 最近のアダクムさんがこそこそと人の目に付かないようにしていたのはヴェナから逃げるためだったらしい。剣術の練習相手なんてやっていられるほど暇でもないのだろう。


「俺は本当に辛くて死にそうになるんだ。剣術の練習ができない辛さとはまるで違うだろ」

「同じよ。私だって必至で我慢しているのよ。ここへ剣を持ってこようとしたことが何度あったことか。先刻だって屋敷を出るまで剣を腰へ下げていたわ。でも玄関に居たお母様が……」

 そう言うと、まるで病気にでもなったかのように顔を青くし、恐ろしい事にでも出会ったかのように恐怖に怯えているような顔を見せた。

 ヴェナの母さんというのは、この屋敷へ最初に来た時に見た女性のはずだ。綺麗で優しそうな人という記憶しかない。

 その時以来、会った事はないが、怖い人という印象はまったくなかった。しかしヴェナの顔は尋常ではない程に怯えている。見掛けとは違うのかもしれない。

「君の母さんが怖くて、それが辛いというのは判ったけど、俺の辛さとはまた別の話だろ」

 ラプが少し笑っている。久しぶりに見る笑顔だと感じた。


「とにかくそんなに急がされても辛くて死にそうになるのは本当なんだ。まだ時間が欲しいんだよ」

「あなたが辛くても死んでも私は平気よ。とにかく剣を抜いて目の前に置いておけばその内に治るわよ。なんなら、いっそ死んでくれてもいいのよ」

「……」

 笑顔だったラプが少し怒った口調で口を開く。

「ヴェナ、あまり酷いことを言っていると……」

 ラプは言葉を途切れさせ、なにかを考えだした。

 ヴェナは怒られると思ったのか、少し肩を窄ませてラプを見るが、そのラプの様子に窄ませていた肩を下げた。


 少しの沈黙の後、ラプが再び口を開く。

「タビト、剣に慣れたい? 剣身を見ても平気でいられるようになりたい?」

「えっ? ……うん。もちろん」

「一応は剣に集中せずに見ていられる方法を思いついたのだけれど、上手くいくのかは判らないんだ。それでもやってみる?」

「え? どうやるの?」

「僕とヴェナの剣での試合を見ててもらう」

 俺も驚いたがヴェナも驚き、二人同時にラプの顔を見詰める。

 少しの間を置いてヴェナが嬉しそうに言った。

「剣を持ってきてもいいのね?」

 ラプまでもが俺に死んで欲しいと思うようになってしまったのだろうか?


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