第3回 私という運命について
今回のタイトルで「ん?」と思った方もいるかも知れないが、今回は基本的にそっちの話ではない。とは言うものの、せっかくなので本家のお話も少しだけさせてもらおう。
『私という運命について』は、2005年に角川書店から刊行された白石一文さんの長編小説だ。小生はもちろん読了しているが、女性目線で描かれた作品に共感はできるけれど、ちょっと小生の知る社会の女性とはズレを感じるところもあった。
人生という時間軸の中では、あらゆる場面で選択を強いられる。そしてその概念では、選択の一つ一つこそが運命であると語られる。また、運命、宿命をありのままに受け入れることも一つの選択だと言われる。
しかしだ! あらゆる物事が選択の連続であることは否定はしないが、親ガチャなんて言われる世の中にあっても、生まれることだけは運命によってどうこうできることではない。親ガチャについてはまた別の機会に書くこととするが、小生も子どもたちに「ハズレだ」なんて言われないような生き方をしないといけねえなと思う。
生まれてきたことを運命と言うなら、それは本人に選択権のない運命であって、どちらかといえば産んだ母の運命であり親となった父の運命と言えるだろう。海援隊の歌ではないが、それこそあの日父が欲情しなければ、そもそもあの日でなければ生まれてきたのは小生ではなかったのかも知れない。不思議としか言えない生物学の成せる技だ。
さて、小生は「運命は変えられるもの」だと常々言ってきたけれど、巷には悪いことが起きると運命のせいにしたがる人が往々にしている。結果は結果でしかないものの、その結果は自身の選択によって得たものであるから、先に述べた概念もあながち間違いではなさそうだ。この地球上に生息する生き物は、ただひとつの例外なく誕生すれば死ぬ宿命を背負って生きている。人として生まれた以上、喜怒哀楽は必然だけれど、豊かな人生となるよう「健康に気をつけて残りの人生を過ごしていかないと」と思いながらタバコの先に火を点す小生なのです。