3話
佐久穂さんは僕の名前を呼びながら、手にしていた鞄をソレに思いっきりぶつける。
衝撃により体勢を崩したソレに向かって佐久穂さんは、すかさず蹴飛ばして追撃する。
その甲斐あってか、何とか僕の腕から引き剥がすことに成功はしたが、ソレは僕達から離れる様子はなく執拗に追いかけて来る。
「こいつ! しつこい!」
「どうやら逃げられなさそうです。僕が囮になるので、佐久穂さんは全力で家まで逃げて下さい!」
「そんなこと出来るわけ無いじゃん!」
「じゃあどうするのですか!? このままでは、僕も佐久穂さんもやられてしまうかもしれないんですよ!」
「だからといって置いて行く事なんて出来ないよ!」
「佐久穂さん!」
「アタシを庇って怪我をしたアオイを、絶対に見捨てたりしないよ!」
「……分かりましたよ!」
僕は覚悟を決めてソレと向き合う。
僕達が逃げ切れないと理解しているのだろう、ソレは先程と同じ様に笑みを浮かべている。
「アオイ! 何をするつもりなの!」
僕は彼女の言葉に振り返らず、動く方の手を使い上着を脱ぎ捨て、噛み付かれた方の腕に、巻き付ける。
相手はこちらを舐めきっている。それに見た目通りの行動をするのなら、もしかしたら……。
赤い瞳が不気味なほどよく見える。ソレに向かって噛み付かれた腕を突き出し、挑発をする。
意図が伝わったのか、ソレは僕に向かって飛び掛ってくる。再び噛み付かんとする為に。
その瞬間、僕は開かれた口に腕を突っ込み、何かを掴む。
「ガァ!」
ソレの口からは悲鳴に似た声が聞こえたが、その勢いを利用して近くの壁に思いっきり叩きつける。
「ギャアアア!!」
ソレは先程と同様に断末魔を上げてピクピクとしている。
僕と佐久穂さんは息を呑むようにしてその様子を伺うが、しばらくしても痙攣したまま動きがない事から、倒したと判断して安堵の溜め息が零れる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
佐久穂さんも緊張の糸が解けたのだろう、僕の横で座り込むと胸を抑え、呼吸を整える。
僕の方はといえば、噛み付かれた腕から激痛を感じ始めていた。
「ア、アオイ? 大丈夫? 噛まれた腕の治療をしないと!」
心配そうな顔をして僕の顔色を窺って来る彼女は、焦りながらも鞄からハンカチや絆創膏を取り出し、僕の血が出ている部分に貼り付けてくれた。
「すみません、汚してしまって」
「そんなこと気にしないで! ……ごめんね、アタシのせいだよ」
「いえ、佐久穂さんのおかげで助かりました。それに、僕の方こそすみません。咄嵯の事とは言え、乱暴に扱ってしまいまして……」
「いやいや! むしろアタシは嬉しいくらいだよ! アオイが命懸けでアタシを守ってくれたんだもん!」
そう僕に伝えた佐久穂さんは、勢いよく抱きついてきた。
「本当に、アオイのおかげだね」
僕の胸に埋めていた顔を上げ、彼女は僕の目を見て、「助けてくれてありがとう」と言ってきた。
恥ずかしいのか少し頬を赤らめているが、真剣な眼差しをしている事が伝わって来て、自然と顔が熱くなる。
「そ、それよりさ、アレどうしよう?」
照れるのを誤魔化そうとしているらしく、佐久穂さんは先程倒したばかりのソレに視線を向ける。
どうやら致命傷となったらしく、今にも息絶えそうな状態だ。
赤い瞳は、先程までとは違い虚ろな瞳で僕を見つめている。
まるでこちらに来いと言わんばかりに。
僕はその誘いに乗るように、ゆっくりと近づいていく。
「ちょ、ちょっとアオイ! 何しているの! 危ないよ!」
後ろから佐久穂さんの慌てふためく声が聞こえるが、気にせず歩みを進める。
やがて目の前に辿り着くと、ソレに手を伸ばして触れようとした。
すると、黒く闇に包まれていたソレは、淡い光の粒へと変わり、噛み付かれた腕を通じて僕の身体の中に取り込まれていくと、跡形もなく消え去った。
「え?」
僕も、佐久穂さんも目を丸くして驚く。
そして、僕は自分の掌をじっと見つめ、ゆっくりと手を握った。
「痛みが無くなった」
噛みつかれていたはずの腕の痛みが消えたのだ。
僕は不思議に思って自分の腕を見てみると、佐久穂さんが巻き付けてくれたハンカチを外して、貼り付けてもらった絆創膏を剥すと、傷が綺麗さっぱり無くなっていた。
「ど、どういう事?」
佐久穂さんも状況を飲み込めていないようで、困惑気味だ。しかし、ここで考えていても仕方が無い。佐久穂さんの安全の為にも、まずは彼女を送り届けよう。
帰り道、佐久穂さんが何度も僕に謝ってきたが、別に彼女に責任があるわけではないので、僕は苦笑いを浮かべながら彼女の謝罪を受け入れ、気を取り直してから彼女の自宅へと歩き出す。
あの現象について知る事になるのは、次の日の事であった。