生きたい
11月10日。その日は土曜日だった。私が自殺した日まで残り1週間。ここまで1年自分が生きたのだという事実に少し驚く。始めはこんなに生きるつもりはなかったのに。
自分が身代わりになる。言うのは簡単だが、四六時中健についてまわるわけにもいかない。いっそGPSか盗聴器でも仕掛けたいような気分だったが生憎とそんなものは持っていない。どうにかしたいが、どうしようもない。
しかしそんな心配は杞憂に終わった。事件は私のすぐそばで起きたのだ。
その日も私は図書館で勉強していた。勉強、といっても集中できるはずもなく、目は問題文の上を滑るばかりだ。いい加減に思いきって気分転換でもしようと図書館の外へ出た時だった。
「ねぇ‥‥‥あれ‥‥‥」
たまたま近くを通りかかったカップルの女性が何かを指差していた。私もつられて指の示す先に目を向ける。黒煙が上っていた。頭の中が真っ白になったのも一瞬のこと。私は弾かれたように駆け出していた。
あまりにもタイミングが良すぎた。行っても何もできないかもしれない。健が中に取り残されたのなら消防士に助けられないものが私にどうにかできるはずがない。それでも、私がタイムスリップしたことに意味があるのなら、助けられるはずだった。変えられるはずだった。そうでなければ、私が1年をやり直した意味がない。
建物は図書館から道路一本隔てただけのすぐ近くにあった。3階建の細長い建物の、3階が燃えている。
火事なんてテレビの中でしか見たことがなかったが、現実に目の前にあるそれは想像を遥かに越えたものだった。猛々しく、無慈悲に燃えるそれに、畏れを抱かずにはいられない。消防車はまだ来ていない。道路は珍しく渋滞していた。到着には時間がかかりそうだ。
健がいるなら行かないと。その思いとは裏腹に足は凍りついたように動かない。今更何を恐れることがあるのか。行かなければ後悔する。この1年が無意味になる。焦る私の隣にバタバタと駆けつけてきた人がいた。
「ナツ‥‥‥‥‥‥!」
「‥‥‥健さん‥‥‥!?」
どうしてここにと思って、すぐに健の言葉から察する。健は迷わなかった。建物の中に入っていく。
「待ってください!」
足が動いた。健に続いて私も中へ入っていく。背後で制止する人の声が聞こえたが動き出した足は止まらなかった。1階や2階はまだ燃えていない。1段飛ばしで階段を駆け上がる。
もしかしたら、今しがみついてでも健を止めるべきなのかもしれない。という考えが頭をよぎる。思いきり足を掴めばきっと私でも止められる。健が行かなくても菜津さんは助かるかもしれない。でも。
そうじゃなかったら?
あの日、三途の川に菜津さんはいなかった。
健が助けたから‥‥‥? 自分の命に代えて‥‥‥?
それなら。私はそれを止められない。止める権利なんてない。
『命は大切だから、君まで危険をおかしてはいけない』と高戸なら言うだろうか。
健が行くリスクと、行かなくても菜津さんが助かる可能性。分かっている。天秤にかければ健を止めるべきだ。でも、誰かにとっての大切な命より自分の自殺願望を優先させた私にそれを言う権利はない。
3階にたどり着く。ここはカフェだったようだ。扉は開いていて中からは想像以上の熱気が押し寄せてくるが、構わず足を踏み入れる。客の姿はなかった。客席はまだ火が燃え広がっていない。みんな逃げたのだ。なら、菜津さんは? もう逃げた? でも外に菜津さんの姿はなかった。居れば気づかないはずがない。私が客席を見まわしてる間にも健は足早に奥へと進んでいく。
「あっ」
慌てて後を追う。部屋の角、近くの柱でも倒れればすぐにでも火が燃え広がってきそうな場所。炎に炙られて焦げている女子トイレを示す標識。
「ナツ!!」
先に中へ入っていた健の声が聞こえる。続いて入ると、ちょうど健が菜津さんの腕を肩にまわして立ち上がろうとしているところだった。菜津さんは気を失っているようだった。壁にぽっかりと穴が空いていて、あたりには崩れた瓦礫が散乱している。瓦礫か何かに頭をぶつけたのだろうか。
「文香ちゃん!?」
ここで健はようやく私の存在に気づいたようだった。しかし驚きながらも動きは止めない。
「早く逃げて!」
「健さんこそ早く!」
散乱した瓦礫。今にも崩れそうな壁。菜津さんを抱えた健。ここまで揃っていればもう決まっている。私は健を先に通しながら天井に目を走らせた。ここはお洒落なカフェ、天井にはお洒落な木製の梁。すぐそこまで迫った炎に炙られて、いよいよ耐えきれなくなったそれがみしりと音をたてた。気づいた健が見上げるが遅い。とっさに菜津さんを突き飛ばそうとした健ごと、私は後ろからほとんど体当たりするようにして突き飛ばした。
反動で私が尻餅をつくのと目の前に炎の壁ができあがるのは同時だった。みるみるうちに炎があたりに燃え広がる。
「‥‥‥っう」
菜津さんの呻き声が聞こえた。今の衝撃で目を覚ましたらしい。
「文香ちゃん!」
「大丈夫です! 先に行ってください!」
「ナツ、先に‥‥‥」
「健さんもです!」
「でも」
「早く!」
健の判断は早かった。
「外で待ってるからね!」
どうせここに健がいたところで何もできない。ここは健が死んだ場所だ。いや、死ぬはずだった場所、か。
「‥‥‥やった」
終わった。
私は健を救った。
成功した。
私は未来から解放される。もう何も考えなくていい。ようやく終わる。長いようで短かった一生が。あの時、学校の屋上から飛び降りた時、感じたのは安堵だった。もうこれで明日のことで悩まなくていいのだ、という安堵。『死』を覚悟したその瞬間なにもかもがどうでもよくなった。やりかけのゲームも、好きなドラマの最終回も、楽しみにしていた映画も、唯一の心残りだった残される親の悲しみさえ。すべてが些末なことに思えた。でも、今は。
「‥‥‥死に‥‥‥っ」
自分の口から溢れた言葉が自分で信じられなかった。私は今『死にたくない』と言おうとした。馬鹿な。考えるな。私は死にたかった。ずっとずっと死にたかった。この1年だって、自分が死ぬことを許してもらえることを期待して生きてきた。
私の目は勝手に逃げ道を探す。あるわけがないのに。果たして、逃げ道はあった。トイレの小窓が開いている。健ではきっと通れない。でも、小柄な私なら。
手を伸ばす。
無理だ。ここは3階。下手したら落下死だ。
瓦礫と洗面台を足掛かりに体を引き上げる。
生きたって苦しいだけだ。
窓から顔を出す。くらりとする高さ。でも、学校の屋上の方が高かった。
死ねば、あの永遠の微睡みに行ける。キラキラに輝いていたあの場所へ。
ここで死んだ方が幸せだ。このまま生きたって私には何もできない。何もない。死にたいんじゃなかったのか。やりたいことないんじゃないのか。
背後には炎が迫っている。もう体は煤だらけだ。
「ごめん」
呟いて、私は体を一気に窓にねじ込んだ。不恰好なまま身体が重力に引かれる。落下感が全身を包んだ。
途端、既視感に襲われる。あの時は4階の高さだった。下には植木があって、私は死ぬために落ちていた。今は3階からアスファルトに向けて、生きるために落ちている。
ああ、ごめんなさい。私は私を裏切った。死にたい気持ちを裏切った。天国への道を選べなかった。でも、それでも初めて。
初めて、『生きたい』って思えたんだ。
「人が‥‥‥!」
誰かの叫び声が聞こえる。
「‥‥‥か!!」
体が衝撃に包まれる。
「文香!!」
遠のく意識の中で誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。