大学祭
結局、私は今年も文化祭に出席しておきながら参加することはなかった。別にずっとトイレの個室に引きこもっていたわけでもないが、まぁどこにいてもそう変わらない。
部活も文化祭も終わり、受験生が受験勉強にスパートをかけ始める10月、私は健の大学に来ていた。大学祭に誘われたのである。近いからなんとなく、という理由で2年の夏にオープンキャンパスに来て以来だ。主観ではもう2年前のことになる。
あの頃は夏休み真っ只中で閑散としていた構内も今日は活気に溢れていた。通りには屋台が並び、学生が忙しなく行き来している。呼び込みの声、準備を急ぐ声、はしゃぐ子供の声、それを宥める親の声が賑やかに飛び交う。
誘われた、とはいえ別に約束をしているわけではない。もしかしたら会えるかも、という期待はしているが目的はそこではない。ここまでは何もなかったが、もう10月。来月までには何かが起こるはずなのだ。大学の文化祭で火事、なんてこともあるかもしれない。そんなニュースは1周目になかったとは思うが、そもそもニュース自体まったくと言っていいほど見ていなかったのでアテにならない。
行くあてもなくぶらぶらと構内を散策する。火の元になりそうなところ、といってもこうも屋台が多いと多すぎて絞りきれないのだ。なら健を見つけた方が早い。にしても、人が多過ぎて酔いそうだ。30分ほどウロウロした後早々に飽きた私は人の少ない場所を探すことにした。
人の少ない場所、つまり構内マップに出し物が載っていない場所である。
工学部棟の上階の方は研究室の展示エリアが少しあるだけで人が少なそうだと踏んだ私は早速向かうことにした。エレベーターの前では賑やかに出し物が行われていたので階段を使う。おそらくはエレベーター前方のスペースを割り当てられたが、足りなくてすぐ前まではみ出たのだろう。まぁ、上りながら座れるところでも探せばいい。
2階、3階はまだ賑やかさがあったが、4階、5階までいくとかなり人が少なくなった。目ぼしい出し物は3階より下で行われているのだろう。
5階まで来て、座るところはないかと廊下をのぞいた時だった。廊下の向こう側から歩いてきた人とパチリと目が合った。樹さんだ。嬉しい偶然に胸が弾み頬が緩みそうになるのを必至で自制する。しかし、樹さんはスイと目を逸らすとそのままどこかの教室に消えてしまった。これでは1人でワクワクしていた自分がなんだか恥ずかしい。
私も教室の前を素通りして廊下を歩いていくと、突き当たりに小さな休憩スペースがあった。幸い人もいないので、そこに座ることにして腰を落ち着けるとようやく一息つく。5階まで階段で上るのはさすがに少し疲れた。
窓から賑やかな外を見下ろす。こうしていると別世界でも見ているようだ。
わかっていたはずだ。勝手に期待したのは私だ。私と樹さんの関係は元からこういうものだった。こういう希薄な関係が心地よくすらあったのだ。私と樹さんの関係は『友達の友達』でしかない。健がいなければ会うことも話すこともない。
一抹の寂しさを感じながら、でもこの距離感の心地良さもまたわかっていて、寂しいくらいでちょうどいいのだと自分に言い聞かせる。これ以上近づけば嫌なところだって見えてくるだろう。だからこれでいいのだ。
「文香ちゃん?」
突然背後から声をかけられてびくりとする。振り返ると健がいた。
「あっ」
「来てたんだ」
「はい、せっかくなので」
「僕は友達の手伝いだから特に宣伝するとこもないんだけど、楽しんでいってね」
「はい」
「‥‥‥ところで、イツキ見なかった?」
「あ、さっきそこの廊下で」
会ったというか、見かけたというかで一瞬迷って言葉が止まるが健はその答えで十分なようだった。
「そっか‥‥‥ありがとう。じゃあまたね」
そう言うと小走りで駆けて行った。急いでいたのだろうか。
「は〜〜」
人の気配がないのをいいことに大きなため息を吐く。何事もなさそうだ。でも、最近はいつそれが起こるか気が気でなくて家にいても図書館にいてもどうにも集中力が散漫になる。
この後どうしようか。早々に帰ってもいいが帰ったところで勉強に身が入るとも思えない。今度は菜津さんでも探しに行ってみようか。しかし動くのも億劫でぼんやりと眼下の喧騒を眺め続ける。態勢を変えたり、時折携帯をいじってみたりと、受験生にはあるまじき無駄な時間の使い方をしたままどれだけの時間が経ったか。
「山江さん」
突然声をかけられた。樹さんの声だったので、緩みそうになる頬を必死で抑えて何でもないように振り返る。
「‥‥‥こんにちは」
「これ、健が渡しといてってさ」
差し出されたのはビスケットのお菓子だった。
「渡すの忘れたからよろしくって押し付けられた。それだけだから、じゃ」
「あ、あの!」
渡すだけ渡して立ち去ろうとする樹さんを思わず呼び止める。
「何?」
しまった、どうしよう。
「え、えっと‥‥‥」
そこでふと夏祭りに行った時のことを思い出した。
「あの、聞きたいことがあるんですけど、今お時間大丈夫でしょうか‥‥‥?」
「うん。平気」
樹さんは答えると、私の隣の空いていた椅子に座ってドサリと持っていたリュックを置いた。落ち着いてくれるらしい。
「あの、夏祭りで待ち合わせた時、私が今日も4人だけなんですかって健さんに聞いたじゃないですか」
「‥‥‥そうだっけ」
記憶にピンときていないようだが、構わず続ける。
「その時、私に目配せしましたよね。それで、深く聞くのやめたんですけど、なんでだったのかなって‥‥‥健さんは友達多いんですよね‥‥‥?」
「‥‥‥ああ、あの時か」
ようやくピンときてくれたようでホッとする。
「あれは、明戸さんがいたから」
「菜津さん‥‥‥ですか?」
「ケンには友達が多いけど。明戸さんはそうでもないからさ」
そういえば遊園地でもそんなことを言っていた。あまり人と絡む方ではないから、と。それでもあの時はチケットが4枚しかなかったからなのかと思っていた。それに私と話す時の菜津さんは得意ではないにしろ、人付き合いが苦手そうには見えない。必要とあらば卒なくこなしそうなのだ。
「菜津さんが居心地悪くならないように、ってことですか?」
「まぁ、そう」
どうにも歯切れの悪い答えだ。私は思い切ってストレートに聞くことにした。どうせ人は私たちしかいない。
「菜津さんって‥‥‥あんまり、好かれてないんですか?」
「んー‥‥‥‥‥‥」
踏み入った話を聞きすぎただろうか‥‥‥しかし、樹さんは迷った末に重い口を開いてくれた。
「これは、俺が見た限りの話だから確かなことは言えないんだけど」
「はい」
「明戸さんは、たぶん女子からは好かれてない。前に、ちょっと陰口みたいのも聞いたし。ケンもモテるから嫉妬とかもあるのかもしれないけど」
たしかに、私も嫌味を言われているのを図書館で聞いた。ここは理系学部が集中しているキャンパスだ。そもそもの女子学生の少なさに菜津さんの人付き合いの悪さを考えれば、嫌うまではいかなくとも接点がないくらいは十分に考えられる。
「でも健さんにも女子の友達くらい‥‥‥」
「それでも遊びに行くのに誘ってるのはみたことないな‥‥‥行くにしても他に男が一緒だし。それに、なんでかケンは明戸さんと出かける時に男を連れて行きたがらない」
「えっ、でも樹さんは」
「それは、たぶん俺に恋愛する気がないから。大抵の男は明戸さんに惹かれるし」
「ええっ!?」
思ったより大きな声が出てしまった。
「あ、すみません‥‥‥恋愛、する気ないんですか‥‥‥?」
これは私の偏見なのだが、『理系の男子大学生』というと、なんというか、童貞を捨てたい人たちだと思っていた。それが、する気がない、とは。
「そんな驚くことかよ‥‥‥まぁ、俺に恋愛は無理だし‥‥‥」
何か思うところがあるようだが、あまり深く突っ込まない方が良さそうだったので話を戻す。
「ってことは、菜津さんが親しい相手は‥‥‥」
「俺はケン以外に知らない」
「‥‥‥そう、ですか」
親しい相手が必ずしも必要でないことは、自分の経験上わかっている。それでも、健のあの過保護っぷりに理由があるとすれば、なぜかはわからないけれど、菜津さんは樹さんが思っている以上に敵が多い人なのかもしれない。
私は何も知らない。この大学の人間関係も、菜津さんのことも、樹さんのことも。けれど、健に何かあったとき、菜津さんの立場がより一層悪くなることは想像に難くなかった。
話し終えると、樹さんはもう帰るからと言ってエレベーターで降りていった。大学の学祭は出席が必須でないのが羨ましい。この分ではおそらく菜津さんも来ていないだろう。
どうしようかと迷った結果、私はその場で勉強することにした。幸い休憩スペースには机もある。どうせ家で勉強しても集中できないのだ。志望校で受験勉強というのも悪くない。人もいないし。
そして、2日間の学祭は何事もなく無事に終了した。何もなくてよかったという気持ちと、それならいつそれは起こるのかという不安がないまぜになった心地だ。
私の気ばかりが焦り、日々がやけにゆっくりと感じられる中、10月も終わり、11月になった。
いよいよ「集中力途切れがちだけど何かあった?」と健に心配されるほどになった頃、『その日』は突然にやってきた。