体育祭
6月。遂にこの日がやってきた。体育祭だ。梅雨の季節だというのに、空は快晴。絶好の体育祭日和である。
1周目に押し付けられた面倒ごとはすべて玲奈にいっているので気楽なものだ。私が出るのはクラス対抗全員参加競技が1つと選択競技が1つ、それに徒競走と全校応援だけである。
ちなみに玲奈はこれに加えて選択競技がさらにもう1つとクラス対抗リレーにも出る。私が1周目に出た競技だ。足が早い順に選べばいいものを立候補と推薦式を採用するからこういう不幸が生まれる。まぁ、玲奈は足も早いんだけど。
仕事と競技に追われない体育祭は想像以上に楽だった。今回は代わりに玲奈が追われてくれているため、私にぶつかる暇もないようでいたって平和だ。もっとも、先月の一件以来玲奈が私にぶつかる頻度は明らかに減った。また反撃されたらたまらないとでも思ったのかもしれない。
徒競走と選択競技を続けざまに終えた私が応援席でぼんやりと過ごしていると、後ろから声をかけられた。
「山江さーん」
男子の声だ。男子に限らず話しかけられるなんて珍しい、もしかして山江さん違いだろうかと疑いつつも振り返ると数人の男子がニヤニヤしながらこっちを見ていた。クラスメイトだということは覚えているが、咄嗟に名前が出てこない。
「ひっさが鉢巻取りに行くの手伝って欲しいってさ!」
ひっさと呼ばれた男子は躊躇いがちにこちらに近づいてきた。
「あーっと‥‥‥お願いしてもいいか?」
「いいけど‥‥‥」
言いながら私も立ち上がる。鉢巻はこの後のクラス対抗戦で使う。ただし量がないため各クラス使う番になったら取りに行くのだ。ある程度まとめておいてくれればいいものを、人数分数えて持って行かなくてはならないので無駄に手間がかかる。
「ありがと! 助かる」
安心したように笑って先に立って歩き出したひっさを追う。名前はたしか‥‥‥久川、だったか。久川だからひっさと呼ばれているのかと1人で納得する。下の名前は忘れた。
別に量が多いわけではないのだから1人で行けばいいのに。というか、男子と行けばいいのに。どうして私なんだ。他の男子もニヤニヤしていたしさては罰ゲームだろうか。だとしたら少しショックだ。罰ゲームの相手にされるほどクラス内では目立っていないつもりだったのに。
「ホントにありがとな。俺1人だと数え間違いそうでさ」
「別にいいわよ、これくらい」
なるほど。数え間違いが心配なら男子連中でなく敢えて私なのもわからなくはない。
私たちのクラスの応援席は競技場のちょうど正面にあるため、鉢巻の置いてある運営テントまではぐるりと半周分を回って行かなければならない。およそ3分の1程度の行程を歩いたところで前から玲奈が走ってくるのが見えた。選択競技を終えて、次の仕事にでも急いでいるのだろう。
玲奈は私と久川くんを見とめると、驚いたような顔をした。意外な組み合わせだったのだろう。
「そこ邪魔!」
「わっ」
そのまま、走りがけに私を突き飛ばしていく。忙しくて気が立っていたのだろうか。運が悪かった。
「あっ、大丈夫か?」
久川くんが尻餅をついた私に手を伸ばしてくれるが、それは無視して1人で立ち上がる。
「うん、ありがとう」
久川くんは行き場を失った手をそのままポケットに突っ込んだ。
「酷いことするなー。避けられたよな、あれは」
「そうね」
「‥‥‥優しいなぁ、山江さんは」
「え? どこが?」
「松浦によく困らされてるだろ。だけど全然怒らないじゃん」
その言葉が私には意外だった。玲奈はあまり人目のあるところで露骨な真似はしない。今のも玲奈にしては珍しい行動だ。だいたい手を出すのはお手洗いか、人が出払った休み時間が多い。人目のある教室ではせいぜいノートを借りにきたり、弁当のおかずをくすねて行ったり、男子にはせいぜい戯れてる程度にしか見えないのかと思っていた。それが顔に出ていたのだろう、久川くんは不思議そうな顔をした。
「あれ、俺変なこと言った?」
「ああ、ううん。私困ってるように見えてたんだなーって」
「えっ! もしかして困ってなかったか?」
「‥‥‥困ってたけど」
苦笑して答える。困ってるというのもマイルドな表現な気がするが。
「だよなぁ、だって松浦のやついつも山江さんが返事する前に弁当とかノートとか持ってくし」
よく見ている。席が近いわけでもなかった気がするが。そんなものだろうか。
「なのに怒らない山江さんは優しいじゃん?」
「それはどうかな‥‥‥」
私が怒らないのは優しいからじゃない。そういえば私は面と向かって玲奈に怒ったことがなかったなと今更ながら思う。怒ったら、やめてくれるのだろうか。
「じゃあなんで怒らないわけ?」
「それは‥‥‥」
どうしてだろうか。思えば玲奈には怒って当然のこともされてきた。だけど、怒ろうなんて考えたこともなかった。
「めんどくさいから」
誰かに対して怒るというのは結構エネルギーを消費するものだ。私はそのエネルギーを玲奈に対して使う気になれなかった。要はわざわざ気分を昂らせるのが面倒だったのだ。
「もう、諦めてるんだ?」
「そうね」
玲奈だから仕方ない。言われてみればいつからかそう考えるようになっていた。あれは天災のようなもので、なんというか私とは生きている次元が違うのだ。そう、これはまるで
「画面の向こうの人みたいな感じがして」
彼女の感情は理解できない。だからきっと彼女にも私の感情はわからない。私と同じように3次元で生きている人間に見えないのだ。
「ふぅん?」
久川くんは分かっているようないないような曖昧な返事をした。
「一回、言ってみたらどう? そういうことするのやめろって」
「‥‥‥そうね」
適当にそう返事を返す。私にその気はない。今更私がやめろと言ったところで、逆ギレされても困る。
「お、俺は! 山江さんの、味方するから」
思わず目を丸くして久川くんを見る。
「‥‥‥それは、ありがとう」
そこまで言うなら、もっと早く助けて欲しかったものだけれど。それはワガママというものだろうか。
「お‥‥‥おう」
そんなことを話しているうちに、私たちは運営テントに到着していた。
「えーっと、俺らは赤だから‥‥‥15本頼んでいいか?」
「うん」
クラスの人数は31人、彼が16本数えるのだろう。2人して鉢巻が雑多に放り込まれた箱の前に座り込んで鉢巻を一本ずつ摘んでいく。
それにしても、私は優しく見えていたのか。面白い話を聞けたな、と私は隣で鉢巻を数えている彼にバレないようにこっそり笑った。