新学期
春休みも終わり、新学期。高校3年にあがった私は今年も玲奈と同じクラスだ。自殺前は伶奈とクラスが分かれますようにと無駄な祈りをしたものだなと思い出す。逃れる術はないのだ。いや、先生に相談すれば離してもらうこともできたかもしれないが。そういう話はどこからか漏れるもので、そうなれば余計に面倒なことになるのは目に見えている。
というわけで、記憶にある通りの地味な嫌がらせに耐えること1ヶ月。今日はGW明けの月曜日だ。そうこうするうちに私の誕生日も過ぎている。ちなみに祝ってくれる友人もいないので、家でささやかなケーキを食べて終わった。
1周目はGW中の宿題を家に忘れてきてこっぴどく叱られたっけなぁと思いながら昨日の夜再三確認した宿題を取り出す。私の場合は本当に家に忘れただけなのだが、こういう日はやってないのを隠して忘れたと言う怠け者がいるからとばっちりを食うのだ。
「文香ちゃーん」
ああ、この声は。
「エラーい、ちゃんと宿題やってあるじゃん。ちょっと写させてよ」
1周目にこの展開はなかった。宿題を持ってきたせいか。当然、他人の宿題を写せば写した側はもちろん写させた側もペナルティを食らう。しかし、私の返事を待たずに玲奈は私のノートを持って行ってしまった。拒否権はないのだ。
ため息をひとつ。とりあえず手元に残ったものは取られる前に提出を済ませる。提出したものは日直の管轄だ。ここまでは玲奈も手を出さない‥‥‥とは言い切れないがそんなことを言っていてはキリがないので半ば祈る気持ちで提出する。
5限目。数学の時間。玲奈に取られたノートは結局戻ってきていない。そのまま一緒に提出していてくれればいいのだが、まぁ期待するだけ無駄だろう。今日何度目かのため息をついてその時を待つ。
「今日は全員提出されてました。素晴らしいですね。いつもこうあって欲しいものです」
あれ‥‥‥? 予想に反して学年主任でもある厳格な女性教諭は開口一番にそう言った。提出していてくれたのだろうか。あの玲奈が。
「しかし、今回は他人のノートを写した人がいます」
数学なんて同じ問題を解くだけなのにどうしてわかるのか。というかチェック早すぎるだろ。この女性教諭は確認の早さが異常だ。その上細かいところまでよく見ている。生徒の間では目が3つついてるだの実は2人いるだのとふざけた話が囁かれているほどだ。
「松浦さん。山江さん。授業が終わったら前へ来てください」
私のノートを出さなければ、未提出で私だけ叱られて済んだはずだが‥‥‥玲奈はいったい何が狙いなのか。不思議に思いつつも授業終了後、前へ向かう。周りでは早速掃除のためにガタガタと机の移動が始まっていたので話は廊下でだ。
「それで、どっちが写したんですか?」
写してない、という可能性はないらしい。これは私が計算ミスをしていたのかもしれない。まったく同じミスを玲奈もしていたからバレたのだ。
「私のを山江さんが写しました」
「えっ、ちがっ‥‥‥」
ジロリ。玲奈の眼光が私を射抜く。玲奈の眼は圧が強い。これを正面から受け止められる人のことは本気で尊敬する。
「違うんですか?」
女性教諭が私を見る。
「‥‥‥違くないです‥‥‥」
歯向かえば何をされるかわからない。それなら先生に叱られる方がまだマシというものだ。この先生は厳しいが、無理難題は言わないし理不尽な叱責も見当はずれのフォローもしない人だ。かくして、私と玲奈は無事ペナルティと、ついでに私はきつい叱責を食らったのだった。
「押し付けちゃってごめ〜ん。あの先生怖いんだも〜ん」
先生が教職員室に戻って行った後玲奈が少しも悪いと思っていない口調で私に謝る。私だって怖いわ。
「いいわよ、もう」
言い返すのが無駄なのは経験上わかっている。今日は健が来る日だ。あと、掃除と部活を適当に済ませれば帰れるのだ。あと少し頑張ろうと自分を鼓舞して、無理やり気持ちを切り替える。
持ち場の階段に行くと既に掃除は始まっていた。ということは今日の片付けは私か。掃除に遅れた者は後片付けの担当になるのが暗黙の了解である。
15分ほどで掃除を終わらせた私が汚れた水の入ったバケツを持ってお手洗いに向かうとちょうど玲奈も片付けを終えて出て行くところだった。彼女も遅れたから片付け担当だったのだろう。
「あっ」
角で私と鉢合わせた彼女は面白いおもちゃでも見つけたようにニヤリと笑った。その瞬間ものすごいデジャヴに襲われる。この後起こる、いや正確には起こった事態がまざまざと私の頭に蘇った。
私を見つけた玲奈は、もはや恒例の挨拶であるかのようにすれ違いざまに肩をぶつけてくる。しかし、私が重いバケツを持っていること、角で鉢合わせて距離が近く肩だけでなく半ば体ごとぶつかってしまったことが重なった結果、バランスを崩した私がぐっしょりとバケツの水を被ってしまう。玲奈は予想外の被害に自分でも驚いた顔をしながらもやはり少しも悪いと思っていない口調で謝る。
そして、その翌日私はしっかり風邪を引いて学校を休むこととなったのだが、運の悪いことにその日来月の体育祭のためのクラス内の競技や係分担を決めることになり、休んでいた私に面倒ごとが全て押し付けられたのだった。ちなみに当然体育祭は散々な結果に終わった。
「ごっめ〜ん」
粘つくような玲奈の声に今に引き戻される。水を被ったことは覚えていたが、いつのことだったかを忘れていた自分に歯噛みする。距離が近い。避けられない。私は咄嗟にバランスを崩しても水を被らないようにバケツを自分と逆の方向に傾けた。つまりは、玲奈のいる方向に。
まずい。しかし間に合わない。ぶつかる前に心にもない謝罪を済ませた玲奈は故意に私に追突してくる。そして。
バッシャーン!!
堪らずバランスを崩した私はその場に尻餅をつき、持っていたバケツは玲奈に向かってひっくり返った。
「きゃーーー」
一拍開けて玲奈の悲鳴が響く。一瞬廊下がざわついた後悲鳴を聞きつけた女子が駆け込んできた。
「どうしたの!?」
「大丈夫!?」
しまった。やってしまった。ぶつかってきたのは玲奈の方だが、水をかけてしまったのは私だ。
「山江さんが私にバケツ持ったままわざとぶつかってきたの!」
他に目撃者がいないのをいいことにそんなことを言い出す。
「‥‥‥ごめん」
喘ぐようにそれだけを絞り出す。周りの非難と同情の視線が私に突き刺さる。私が普段嫌がらせを受けていることは彼らも察している。その同情と、仕返しをしたのかという疑いと、面倒ごとを起こしやがってという非難の視線だ。
まずい。
やばい。
どうしよう。
焦る私の頭に唐突に健の顔が閃いた。健なら、健なら‥‥‥どうする?
「ごめんなさい! 避けられなかった! 本当にごめん!」
次の瞬間、私は手を合わせて普段出さないような大声で謝罪の言葉を叫んでいた。玲奈も、他の子も虚をつかれてギョッとしている。
「私、着替え、着替えとタオル持ってくるね!」
それだけを言い置いて教室に駆け戻った私は、玲奈の制服が入った鞄を掴み自分の荷物の中から未使用のタオルを取り出す。通り雨に降られた時のために念のため入れておいたものだ。ナイス私。
お手洗いに駆け戻ると、既に玲奈はぐっしょりと濡れた制服を脱いでいた。不機嫌そうに右手を突き出す。
「早くちょうだい」
「あ、はい」
タオルと鞄を渡すと、玲奈は黙って体を拭いて着替え始めた。半ば呆然とそれを眺めながら信じられない気持ちになる。自分が今取れた行動が信じられなかった。どうしていいかわからなくて、オロオロしたまま固まって、ここぞとばかりに玲奈に非難されるのがいつもの私だ。
「あっ、私これ片付けてくるね」
クラスメイトの声に我にかえる。そうだ、片付けの途中なのだった。私も慌ててあたりに散らばった雑巾を拾う。
頼りない自分が、なんだか少しだけ変われたような気がして、ほんの少しだけれど誇らしいような気持ちでその夜は眠りについたのだった。
翌日、玲奈は風邪を引いて休んだ。私は無事面倒な担当を押し付けられずに済み、代わりに玲奈がそれらをやることになったのだった。