出会い
目を覚ますと、私は河原に立っていた。ゴロゴロとした小石が足元を埋め尽くしている。真っ赤な夕焼け空が反射して川は赤く染まっていた。あたりを見回すと子供たちが石を積んでいるのが見えた。どこかで見たような景色。そもそも私はどうしてここにいるのだったか。思い起こしてああ、と呟く。
「そっか、ここが」
三途の川か。
「ほんとにあったんだ」
1人苦笑する。そう、私は死んだ。自殺した。ボサボサのミディアムヘアも死んだ時のままだ。そこでようやく気づいて川の向こう岸に目をやる。対岸は、眩しかった。花畑のような、かと思えば光の帯のような、不思議に揺らめくその場所を言葉で説明することは難しかったけれど、ただ、嫌が応にも惹きつけられるものがそこにはあった。対岸に渡るには、そう、渡し舟だ。キョロキョロと探すとほど遠いところに長蛇の列が見えた。小走りで向かうと、人種も年齢も様々な人たちが並んでいるのが目に入る。私は最後尾へ並んだ。興奮が抑えきれずに思わず体がソワソワと揺れる。
そうしてどれだけ並んだだろうか、随分と待っている気がしたけれどソワソワしていたから長く感じただけかもしれない。前方から老婆の声が聞こえてきた。
「彼岸を目指す皆さま。彼岸を目指す皆さま。お手元に六文銭をご用意してお待ちくだされ。六文銭のない方は彼岸へ渡れませぬ。彼岸へ渡れませぬ」
六文銭。昔のお金だろう。聞いたことがある。ポケットを探るが六文銭どころか小銭すら持っていない。まさか死んでまでお金がいるとは考えていなかった。しかし持っていないのは私だけではないだろう、と前後の人を見るとポケットからそれらしい古びた紙包みを取り出している。
「なんであるのよ‥‥‥」
今更列を抜けるわけにもいかない。持っていなければ渡れないとはいえ、どうしようもない。そのままソワソワと十数分待つとようやく私の番が来た。先程とは別の老婆がしわくちゃの手を差し出す。
「六文銭を」
「持ってないです」
「では渡れませぬ。次の方‥‥‥」
「待って、ならどうすれば」
「権利を得れば自ずと手に入る。手元になければ、今はまだ渡れませぬ。石でも積んで待っておれ」
食い下がる私にそう穏やかに言うと老婆はその細い手からは想像できないような強い力で私を押し出した。仕方がないので、とりあえず列から離れる。権利が云々ということは待っていればそのうち手に入るのだろう。手持ち無沙汰になり、あたりを見回すと河原で1人座っている男が目に留まった。手元で何か弄んでいる。さりげなく近づいてよくよく見るとそれは古びた紙包みのようだった。
「六文銭‥‥‥?」
呟くと男が振り向いた。見たところ同年代のようだ。高校生くらい、だろうか。パチリと目が合うと男、いや、少年は微笑んで言った。
「そう。六文銭」
「‥‥‥並ばないの?」
聞かれ慣れているのだろうか。少年は待ってましたとでも言うようにスラスラと答えた。
「うん。僕はまだ死にたくないからね」
「でも‥‥‥」
ここに来て、手元に六文銭があるということは、もう現世に戻る肉体はないのでは、そう考えているとそれを読んだように少年は話しだした。
「昔ね、六文銭を受け取ってもここで待ち続けた人がある日ここから消えたって話を聞いたんだ。だから僕も、その奇跡を待ってる」
「へぇ‥‥‥ん、待って」
ふと違和感を感じた。
「どうかした?」
「ねぇ‥‥‥消えた、って。三途の川まで来ても生き返ることがある‥‥‥ってこと?」
少年は笑って答えてくれた。
「そりゃあ、あるよ。こっちはまだ此岸だからね」
たしかにそうだ。いや、そんなことより。
「それって、まだ私の死は確定してないってことよね」
「そうだね。最近は医療も発達してきてるし、助かるんじゃない?」
冗談ではない。先ほどまでの高揚していた気分が一瞬で冷める。あれだけ苦しい思いをして、あれだけの勇気を振り絞って、ようやく死ねたというのに、その死が、確定していない? 生き返れば後遺症だってあるかもしれない。私はギリリと歯ぎしりした。甘かった。もっと確実に死ねるようにするんだった。しかし今更後悔しても遅い。それよりここからどう挽回するかだ。要は生き返る前に彼岸に渡ってしまえばいい。そして御誂え向きに目の前の彼は死にたくないという、ならば。
「ねぇ、その六文銭、私にくれない?」
「無理だよ」
少年はその言葉を予期していたかのように即答した。
「なんで。貴方は死にたくないんでしょう? 私は死にたいの」
「いや、別に意地悪で言ってるわけじゃないんだ。ここじゃ不正はできない。何度か試したけどね、僕の手元からこれが離れると一瞬で僕のポケットに戻ってくるんだ。人に譲ることはできないらしい」
「そんな‥‥‥」
「だから諦めて、君も気長に待つといいよ」
「‥‥‥‥‥‥そう、そうね。わかったわ」
私がそう言って少年の隣に座ると少年は意外そうな顔をした。
「いやにあっさり諦めるんだね」
「だって無理なんでしょう? 私は無駄なエネルギーは使いたくないの。生き返ってもまた死ぬからいいわもう」
「ふふ、そっか。それなら、僕の話し相手になってくれよ。ずうっとここでこうしているのは退屈なんだ。もう石を積むのにも飽きてしまった」
「えっ、石を積むのって、暇つぶしなの?」
少年は笑う。
「そうだよ。僕も親より先に死んだ子供が罪滅ぼしに、みたいな話を聞いていたから意外だったんだけど。ここじゃ他にやることがないから暇つぶし。積んだ石を崩すのも鬼じゃない。暇つぶしに他の人にイタズラしてるんだ」
「なにそれ、変なの」
釣られて私も笑う。ふと、こうして笑うのは酷く久しぶりだな、と思った。そうしてしばらく笑い合ってから少年が静かに話し始めた。
「君は、死にたい、と言ったよね。自殺でもしたの?」
「ええ」
「動機を、聞いてもいいかな」
「いいわ。暇つぶしに、話してあげる‥‥‥私はね、先が、見えなくなったの。この先を生きても特にメリットがないと思った。やりたいことも、やり残したこともなかった。だから、死んだ方が幸せだと思ったの」
「へぇ、それで死ぬなんてスゴイね。誰にでもできることじゃない。何かと先延ばしにしがちな理由だ」
「あはは、まぁね、私も迷ったよ。親を悲しませたいわけじゃなかったし。でもね、迷ってる時にクラスメイトに言われたの。『死ねよ』って」
「それで死んだの?」
「‥‥‥うん。認められた気がしたの。私の気持ちを。死んでもいいんだよって、言われた気がした。今死んでも私のせいじゃないって、私は彼女に言われたから死んだだけって」
「‥‥‥‥‥‥」
「ふふっ、ただの責任転嫁だよね」
「そうだね。最終的に死を選んだのは君だ」
ズキリと胸が痛んだ気がした。断罪されているような、責められているような、そんな気分になる。
「‥‥‥ねぇ。私は話したわ。次は貴方の番よ」
胸の痛みを誤魔化すようにそう促す。
「うん。いいよ。っていっても、正直言うとよく覚えていないんだ。ここにいると記憶が曖昧になるらしい。僕が覚えてるのは、視界いっぱいの炎と熱さ、息苦しさ、圧迫感‥‥‥それから、恋人がいたこと」
「火事で、死んだってこと‥‥‥?」
「たぶんね、それが最後の記憶だから」
「ふーん‥‥‥恋人って、どんな人だった?」
特に聞くこともなくなったのでそんなことを聞いてみる。
「うーん、可愛い人だったよ。そして、強い人だった。悩みも苦しみも、全部自分で抱えられる人、抱えてしまう人‥‥‥会いたいな。また」
語尾が、震えていた。私は気づかないフリをして相槌を打つ。よほど仲のいいカップルだったのだろう。
「ねぇ、彼岸は、すごくキラキラしてるじゃない? 向こうに行きたくはならないの?」
「‥‥‥なるよ」
答えた言葉は、もう震えていなかった。そのまま少年は続ける。
「ここにいればいるほど、ものすごく向こう側に惹かれるようになる。きっと向こうに行ったら幸せだと思うんだ。夢のような穏やかな微睡みの中で永遠に揺蕩い続ける‥‥‥でも、そしたら、夢の中にいたら、彼女がきてもわからないだろ? 」
彼の顔を盗み見る。酷く悲しそうな、切なそうな顔で微笑んでいた。
「ほんとに、恋人さんのことが好きなのね」
「ああ」
たった2音に、すべての想いが詰まっているようだった。それほどまでに重かった。これほどまでに愛される彼女は幸せ者だろう。いや、これほどまでに愛してくれた人に先立たれてしまえば、不幸かもしれない。
「‥‥‥私も」
「ん?」
「ううん、なんでもない」
それほどまでに愛されてみたかった。愛して、みたかった。そんな人に出会ってみたかった。思ってから、苦笑する。やりたいこと、ないんじゃなかったのか。まぁ、どうせ
「会えるよ」
私の思考を遮るように彼が言った。
「え?」
「君もきっと。生きていれば、そんな人に」
綺麗事だ。世の中そんなにうまくはいかない。こういうことを言う人は嫌いだ。
「って、言えればいいんだけど」
そう続けて、彼は笑った。少しホッとする。
「そうよね。そんな人、誰もが会えるわけじゃない」
だからこそ、奇跡なのだ。だからこそ、会えたら幸せなのだ。
「うん。でも、死んじゃったら可能性もなくなっちゃうじゃん?」
「そうね」
それでも、私は死にたいけれど。
「生きたくなった?」
「全然」
「そっか‥‥‥そろそろ、時間切れみたいだね。もう少し話したかったけど」
「え?」
見ると、彼がジッと私の手元を見つめていた。確認すると、指先が透けてきている。
「そうなると、数分足らずで消えてしまうんだ」
「そう‥‥‥」
ダメだったか。私は半ばから元気で笑顔をつくると彼に言った。
「私、もう一度近いうちにここに来るからさ。名前、教えてよ。貴方が戻る体があるか、調べてきてあげる」
彼は一瞬複雑そうな顔をする。
「‥‥‥そっか、ありがとう。僕の名前は、サトナカ タケル」
「わかった。サトナカ タケル、ね。任せて。もうどれくらいここにいるの?」
「わからないよ。ここはいつも夕焼けなんだ。眠くもならない。時間の流れがわからなくなる。1週間かもしれないし、数ヶ月かもしれない、ひょっとしたら1年以上かも」
そう言ってくすくすと笑う。
「そうなんだ‥‥‥あっ、もう、時間ね‥‥‥」
既に胸元までが消滅していた。そこから、一気に速度が早まる。聴覚が消滅する直前、声が聞こえた。
「次は向こうで会えるといいね」