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28話 天才、回想する

「まあ、たいへん! あかちゃんを、おとしてしまったわ!」



 ユータを最初に力強く受け止めてくれたのは、床だった。


 出産はみんな、あわてるし、緊張する。

 なにせ、あんまりやらないたぐいの宗教儀式なのだ。


 だから神官の人とかも、すごいあわあわして、おろおろして、終わったら、気が抜ける。

 お父さんと、お母さんも、気が抜ける。

 気が抜けた時だと、間違って赤ん坊を落としたりもするものだ。



「だいじょうぶさ。赤ちゃんは、落ちるものだ。僕も、最初落とされたらしい。……ほら、ごらん。元気に泣いているよ」

「おちたのに、げんきなの?」

「そうさ。落ちたのに、元気なんだ。赤ん坊は、柔らかいからね」

「柔らかいのにつぶれないのは、おかしいわ」

「逆にね」

「なるほどね。逆に、なのね」

「そう。逆に、さ」



 ユータのパパとママは、村で一番賢い人たちだった。

 だって、会話ができている。


 学園みたいにエリートが集うところなら別だけれど、たいてい、人と人は会話できない。

 彼らはなんとなくで人生をやっているのだ。


 ともあれ床は、ユータにとってなじみ深いものだった。

 彼はパパとママが「でも、逆ってどういうこと? なにに対して逆なのかしら?」と次の話題に入ったのを、床の上で聞いていた。

 ママの声は優しかった。



「まあ、おおきくなったねえ。今、いくつだい?」

「3さいです」

「おやつをお食べ。もうそろそろ5さいぐらいにはなるのかい?」

「3さいです」

「そうか、そうか。じゃあ、よくあそぶんだよ。こどもはあそぶものさ」

「3さいですけど……」

「なにがだい?」

「ぼくは、3さいなんです」

「そうかい。えらいねえ。それじゃあねえ」



 村の人との会話はいつでもそんな感じだ。

 優しいおばあちゃんだった。


 おやつとか、くれた。

 一日になんどもくれたのだ。


 でも、幼いユータは、なんだか会話してる感触がなくって、おばあちゃんとの会話はなんかやだったし、ちょっと恐かった。

 そのことでママに相談したこともある。



「ねえ、ママ、あのおばあちゃん、ぼくがなんど『3さいです』って言っても、わかってくれないんだ。自分で聞いたのに、反応がないんだ。なにか悪い病気なのかな?」

「ユータ、おばあちゃんは元気いっぱいよ」

「でも、『会話』にならないよ。それとも、ぼくの言葉は、わざと無視されているの?」

「おばあちゃんは、そんなに意地悪じゃないわ。おやつだって、たくさんくれるでしょう?」

「なんどもくれるよ。今日はまだあげてなかったねえ、って言いながら」

「他の人だって、同じでしょう?」

「そうだけど」

「他の人と同じっていうことは、普通っていうことなのよ」

「……そうなの?」

「ええ。普通っていうことは、病気じゃないっていうことよ」

「そうなの?」

「ええ。……お膝の上に、いらっしゃい。あなたの好きな、神さまのお話をしてあげるわ。むかしむかし、わたしたちが『NPC』と呼ばれていたころの物語、好きでしょう? だから機嫌をなおしてね」

「怒ってはないよ」

「まあまあ。今日はね、あなたの疑問を解消できるようなお話をしてあげるわ。『村の入口に立つ彼』っていう、神代のNPCのことよ。その人はね、神さまから『いつ誰に話しかけられても、村の紹介をしろ』っていう命令を受けて、それを忠実に守っていたのだけれど……」



 それは神さまがいなくなったあと、同じ村の人にまで村の紹介をするものだから、変なやつ扱いされたNPCの話だった。


 ユータはその話を、床と一緒に聞いていた。


 ユータはママの話が好きだった。

 病気がちなママは、いつでも床の上にいた。

 だから、ユータにとっての優しい時間は、いつでも床の上で流れていたのだ。


 床との付き合いは長くて、その時間はいつだって幸せなものだった。

 逆に、お年寄りの多い村のせいか、ユータはあんまり地面と親しくない。


 地面はだから、なんか『地面さん』って感じだ。硬いし、転ぶと痛いし、砂利とかあって危ないし、寝っ転がると汚れる。

 その点、床はいい。

 床は硬いし、転ぶと痛いけれど、砂利はない。

 靴を履いたまま家の中にいる文化だから、寝っ転がると汚れるけれど。


 では、砂利のありなしが『床と地面の違い』なのか?


 それはやっぱりちょっと違う気がする。

 だって、砂利は靴の裏について室内に運ばれるものだ。

 それに、砂利があったってなくたって、床は『床!』って感じがするし、その感じはたしかで正しいものだとユータは思っている。



「お聞きなさい。会話っていうのはね、好き勝手しゃべることなのよ」



 村の入口で村の紹介をするNPCの話を終えて、ママは言った。

 ユータはよくわからない。



「でも、会話っていうのは、相手がいて、するものじゃないか。相手がいるのに、好き勝手しゃべることが会話なんて、おかしいよ」

「今の『村の入口さん』の話はね、最後、こういうふうに終わるのよ。『村人にどう言われようと、それでも信念を貫いた彼を、村人たちは尊敬するようになりました。たしかに、いちいち村のことを紹介されるのはだいぶうざったいですけど、でも、彼が言ってくれたから、村人たちは、自分たちの村のことを忘れずに覚えていられたと、気付いたのです』って」

「自分の村のことぐらい、毎日言われなくたって、覚えていればいいじゃない」

「私たちの頭はね、そこまで賢くないのよ」

「……」

「必死に生きてたら、生きるために必要なこと以外、忘れちゃうわ。……でもね、生きるっていうのは、生きるのに必要なこと以外のほうが、大事なのよ」

「……よく、わからない」

「そうね。私にもわからないわ。これは、パパが言っていたことなの」

「……」

「でも、わからなくても、なんだか素敵な言葉だと思わない?」



 よくわかんない。

 でも、とりあえず、覚えておくことにした。


 生きるのに必要なこと以外こそ、生きるのに大事――

 たぶん生きるのに必要なわけではないその言葉を覚えておくだけの頭が、ユータにはあったから。


 今もたまに思い出す。

 その言葉を言われた時だって――


 ――ユータは、床の上にいたのだ。

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