失意にありて泰然とす
人が生涯をかけて得る「教訓」とは、一体何なのだろうか。それとも、そのような「教訓」などあろうはずもないのか。
若い時分は、書物の言葉に心を震わせ、かくあるべしと己を鼓舞した。
仕事が人生の大部分を占める年代になると、いかに振る舞うか、いかに成功するかということで、言葉を求めた。
それらが「教訓」というのであれば、確かに、一理ある。
なぜなら、それらの言葉によって、自分の進むべき道を指し示され、動くことができたからだ。
でも、真の教訓というのは、そういうのとは違うのではないかと常に心に引っかかったままだった。つまり、若い時の人生の迷いを解消させる言葉も、壮年期の仕事の指標となる言葉も、人生のささやかな壁、もしくは垣根を乗り越えるためのものではなかったかと思うのだ。
真の教訓とは、一生涯を貫き、その人間の心の支えとなるものではないかと。
現代社会においては、人は否応なく、何らかの組織に与する。それは子供も大人も同じだ。
学校、会社、趣味の会、保険、家族、友人、数え上げればきりがないほど、私たちは組織と関わりを持ち続ける。
ごく普通に、私たちは組織人なのだ。
そして、組織にあれば、誰もが一度ならず、右か左かの選択を迫られる場面に出くわす。
この会にいても何の得もないから退会しようということもある。こいつは面白くない奴だ、これ以上友人として付き合うことはできないと絶交をする時もある。中には、愛の誓いを立てた男女が別れることもある。あるいは、学校の方針と相容れなくて自ら去るということもあるだろう。それは会社でも同じだ。円満で辞める時もあれば、そうでない時もある。
実に組織は種々雑多な様相を示している。
そうした中、人と人とのしがらみの中で、あるいは、権力構造のいびつな形の中で、人は組織内で、好むと好まざるとに関わらず、闘争の渦中に入り込む時がある。
それは、ある日突然に、その人間を苛酷な闘争の中に陥れる。
闘争本能は、人間の性と云えば性なのだが、実に愚かなことだと思う。
現代の闘争は、ある一定の法のもとでなされる。
戦国時代のようにどちらかが命を落とすまでというのではないので気が楽だ。気は楽だが、それなりの心労は大きいものがある。平常の仕事がなんと楽なことかと思えるのだから、闘争時の労力はいかに大変かがよくわかる。
先だって、かつてともに、同じ境遇にあった人物としばしの逢瀬を楽しんだ。
彼の方から電話があった。
定年になったので、節目として、一度会っておきたいという申し出であった。断る理由は何もない。だから、私の職場に来ていただいた。
彼は、慶應義塾を出て、大手都市銀行に入行した。赤坂支店の副支店長まで勤め、私が勤務していた学校に事務長として出向してきた。
私などと比べれば、彼はエリートだ。
大人しく理事会の言う通りに従っていればいいものを、自己の信念に従ったがために、少々苦しい思いをした人物だ。
自慢ではないが、私は早稲田を卒業するまで結構年数をかけている。
いろいろあって、早稲田にたどり着き、28歳の時に卒業をした。遠回りもここまでくると開いた口がふさがらない。早稲田には「中退一流、留年二流、卒業三流」という言い伝えがまことしやかにあるが、私など「四流」「五流」の部類に入るだろう。
そして、私たち二人に、右か左かの選択を迫られる時がやってくるのだ。
五十歳になったばかりの時だった。まだ、いろいろとお金がかかる歳だ。生活もかかっている。ここで失職すれば、家族を路頭に迷わすことになる。
……いったい何があったのか。
一言で言えば、私立学校特有の「内紛」みたいなことがあったということだ。
戦前、祖父母の時代に小さな学校を立ち上げ、細々と経営にあたっていた。戦後、新しい教育制度ができ、小さな学校は校舎を新しくし、多くの生徒を抱えることになった。戦後のベビーブームのおかげで生徒はますます増えていく。そこで、学校は、さらに新たな学校を作り、拡大成長を遂げていく。
学校の経営は、祖父母からその子に引き継がれる。子は理事長として、学校経営にあたる。そして、学校の長たる校長は、祖父母の代からの生え抜きの人物、これまでの学校の拡大に尽力した人材が当てられる。
長たる校長は、長年の経験から来るべき少子化に備えて、学校のレベルアップを強力に意図する。かつてのように、就職させるだけの学校では先が見えるというわけだ。日本でもトップレベルの大学に進学をさせていく学校を作り上げなくては少子化に生き残れないと、配下の教師たちを叱咤激励する。
そして、その目標を達成する。
戦前、小さなそろばん塾から始まり、あるいは、裁縫や料理など実業教育を行ってきた学校が、戦後に膨張拡大し、今、名だたる進学校になった。
はたから見れば順風満帆の成長だが、そこに、人の心を平常とは異なる境地に誘い込む罠が潜んでいる。つまり、校長はもっと自分の好きなように学校を向上させたいと思うようになり、それに不安を持つ理事長が猜疑心を募らせるという構図だ。
あるいは、理事長がもっと収益を上げよと校長に檄を飛ばし、それに反発をしていく。
形はどうであれ、そこには権力闘争の芽が養われていく。
この権力闘争は、法の統制下でなされる。
コンプライアンスというやつだ。つまり、理事会での議決ですべてが決まる。だから、双方が理事の票を確保するために躍起になる。静かではあるが激烈な票取り合戦が展開される。しかし、勝負は火を見るより明らかだ。
なぜなら、理事の任命は、理事長の専権事項であるからだ。
何かあった時のために、理事長は子飼いの理事を任命している。校長などその任にあるから理事になっているだけで、校長でなくなれば、理事でもなくなる。実に弱い存在にすぎない。
だから、校長がいかに立派な仕事しても、理事長の一存でなんとでもすることができるのだ。
今回の権力闘争は、その校長が崇高な教育理念を掲げて起こしたものだ。
その教育理念を広く伝播させるために本も出した。それを読んで多くの人が感動した。テレビの取材もあり、特番も組まれた。それだけ、この校長の行った学校のレベル向上はすごかったと言ってもいい。その凄さには強引なやり方が少なからず伴っていた。そして、そこには反発もあった。
特に反発したのは、新しいやり方についていけない人たちだった。
合宿勉強会とか、授業の終わった後の特別課外授業とか、教師たちの負担は平常の倍となった。そればかりではない。IT教育がそこに入ってきた。時代の先端を行く教育手法だ。教師たちは、授業研修に加えて、わけのわからない機器を使って仕事をしなくてはならなくなった。
今、学校で普通に行われているIT機器の活用も、導入当初には、訳のわからない仕事であったのだ。それゆえ、相当の反発が起こった。
しかし、現状を見ればわかるように、この新しい機器の導入はまさに先見の明とも言える事柄であった。しかし、それについていけない人にとっては苦痛以外の何物でもなかった。
校長への反発は理事長の耳にも入る。
そして、「彼ら」は、「彼」に、利用されていった。
一方、類い稀な成果を出した校長のもとに集う教師は、手当も増え、やりがいのある仕事を任され、何よりも、生徒の信頼を得ることができた。これが何より、教師という身分には嬉しいものだ。よって、ますます力を発揮することとなる。
この権力闘争において、我関せずのグループというのが存在する。
それは、適切に仕事は行えるが、さほど、仕事バカではない。つまり、校長にとことんはついていかない、いい面もそうでない面も把握し、一定の距離を置くグループだ。
その彼らが一番恐れるのは、校長への絶大な信頼を寄せる生徒保護者が、校長と距離を置くことで、彼らの評価が悪く出ることだ。
だから、彼らは、表面上は、イエスマンでいる。
いつの時代にもそういう人たちはいる。それを責めることはできない。むしろ、そういう人たちのほうが立派なのかもしれない。
いっときの感情で動くことなく、最低限の仕事をこなしているのだから。
さて、今回の権力闘争の有り様がおおよそわかっていただけたと思う。決して、特別なものではない。人がいれば、そこに必ず発生する、きわめて自然な闘争だ。
闘争は新たな段階に入る。
理事長と創業一族をないがしろにする校長を、追い落とすために策謀が繰り広げられつつあった。その最初の手は、金銭処理である。闘争を有利に進めるには、金銭でいちゃもんをつけるのが鉄則である。だから、闘争をする人間は、金銭に対しては常に綺麗にしておく必要がある。口うるさいほどにそれをしておかないと、不徳の致すところと弁明の言葉を発しなくてはいけなくなる。
事務方への圧力が強まる。
出張旅費の適正な扱いがなされているか、募集手当が過分に、不適正になされていないかなど、事細かに会計士が、理事長の意を受けて精査する。
そして、明らかな意図を持つ会計士が、血眼になって探し出した糸くずのような欠点が上申される。
経費の無駄及び不適正がそこにあると。
これも常套手段だ。そして、事務方の責任者に改めるように指摘する。
そこで、責任者の事務長は言う通りにしておけばいいのだが、そうもいかないのが権力闘争の姿だ。
事務長は、生徒のためになされる出費は正当なものであり、それに倍する収益を上げているという。これも常套の反論だ。
実際、この場合、この校長のもとで、経営は極めて良好であるのは、数字が物語っていた。
次に、忠誠心を問うてくる。
この学校の一番の責任者は誰かという古典的な問いかけだ。もちろん、この学校をここまで伸ばした校長であるとする答えもあるが、経営を司っている理事長とその一族が最も偉い存在であることを周知される。これを言われれば、そうだと納得するほかない。
これで、闘争の形が成立する。
もし、校長がごもっともですと下に出れば、闘争は起こらないで済む。良く働いてくれましたと懸賞され、名誉ある立場で職を去ることもできる。しかし、この校長はそうはしなかった。自分が取って代わると宣言したのだ。
理事長の懸念は的中した。
開戦だ。
理事長はまず、事務長に考えを改めるように迫る。つまり、校長につくことをやめるよう脅しに近い形で強要をする。大手銀行の副支店長まで勤め、慶應義塾を出たエリートはこのような闘争は何度も見てきたいたし、その場に自分も置かれたことが過去にあった。だから、脅しに近い形で強要されることには合点がいかない。同時に、この校長の行ってきた教育成果に対して敬意を払っていた。だから、彼は理事長の申し出を頑として受け付けなかった。むしろ、この教育の姿を尊重していけと意見をした。
「部下たちには理事長につくか否かを強要はしません。己の心情に従うように。」と言いましたと彼は久しぶりの逢瀬の折に私に言った。
実は、私も同じ気持ちでいた。
もし、教師としてのこれまでの言動、つまり、君たちの校長は日本の教育を変えようとしているのだから素晴らしい人である。それを知ってこの私学に来たのだからしっかりと勉強してほしいという言動を翻したら、今後、生徒たちにどういう指導をしていけばいいのか、今回の件で、一時の混乱はあるかもしれないが、その方が生徒たちに生きざまを見せることができる。それこそ、本当の人間教育であると考えていたのだ。
しかし、法的優位性は当然理事長側にあるのは明白である。
混乱の果てに、事務長は学校を辞めさせられて、半年後、私も学校を去った。
事務長は銀行の口利きで系列会社に事務員として再就職した。私は隣町にある学校に、縁があって移った。
そして、十年が過ぎて、再び会うことになったのだ。
一昔前のことを振り返りながら、お互いに、あの時の判断が間違っていなかったか話をした。
「馬鹿といえば、馬鹿なことをしましたね。」と事務長が言う。
「でも、学校に残った方々のことを知れば、どうですか。」と私が返す。
校長についていけず文句を言っていた人たちは、理事長の甘言に乗せられ、反校長キャンペーンに参加させられた。
彼らはこのように理事長に同調し、校長追い出しに一肌脱いだ功労者だったが、いかんせん能力がなかった。中には要職に就いたものもいたが、任期一期三年で退任させられ、その後噂を聞くこともないという状況に陥っていた。
どっちつかずの人たちは、新しい体制になっても、依然として、どっちつかずのままだった。
旗を上げることもなく、流れに身を任せていく人間である。それはそれで人生を過ごすための方法だから、いいとも悪いとも言えない。
「彼らは、私たちより苦しんだと思いますよ。私たちは苦境に陥ったけれども、信念を貫いたという確信があったからね。」と事務長が言います。
「確かに。でも、最近思うんですよ。彼らにも、自分たちを評価しない人についていかない信念があったのではないかとね。どうですか。」と私は言葉を振ってみた。
「信念というのは、これぞと思ったことに殉じることですよ。生き延びようとすることに力を発揮するのは信念ではなく、執念ですよ。執念は気持ちが悪い。ですから、彼らはあのような成れの果てになったのです。私はそう思いますよ。」と一刀両断に事務長はかつて自分に敵対した一派を切って捨てた。
「私も確かに、信念を持てたことに誇りを持つことができますが、実に馬鹿げたことをしてしまったとも思っているのですよ。」と私は言った。
「でも、私もそうだが、あなたも、この十年いい仕事ができたではないですか。あの校長の下にいてもいい仕事をしたと思いますよ。そこから離れることになりましたが、それ以上の仕事ができたと思いませんか。」と事務長は私の目を見て言った。
その目は、そう思うべしという強烈な意思を感じさせる目であった。
私たち二人に共通していることは、信念というか、あの時正しいと思ったことを貫いたことが自信につながるということだった。
もし、生活のためという理由で残ったら、どこかに虚しさを感じていたに違いないし、そればかりでなく、裏切り行為に及んでいたら、とんでもないことになっていたに違いないと思う。
人が生きていく中で、このことはとても大切だと思う。
人は飯のみで生きているのではないということだ。確固として生きていけば、必ず飯はついてくるというものですと事務長は言った。
新しい場で胸張って堂々とできたのは、どんなに環境が変化しても、一時の失意の中にあっても、泰然とできたのは、信念に従うことができたことによると言うのだ。
私はハッとした。
学校を辞めた時、非常に寂しい思いをした。
二十年の歳月をこの学校の草創期からやってきて、途中で去らなくてはいけない境遇を悲しんだからだ。その時、理事長についた同僚たちを心の中で恨んだこともあった。どっちつかずの人々をそうすることができて羨ましいと思ったこともあった。
人は、人を裏切り、陥し入れ、姑息に生きることもできるのだ。誰もそうしたからといって責める人はいない。生活のため、家族のためにしたことなのだから。
でも、そうした人々のその後がパッとしないのは、大げさな言い方かもしれないが、歴史もそれを語っている。
失意の中でも、泰然として、生きる。
……もしかしたら、私が身をもって得た真のこれが教訓なのかもしれない。
桜の散った木々の中で、私は元事務長に別れを告げた。
了