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よく牡蠣食う客

作者: 得無

 「あ〜、もうムリ。おなか一杯。て言うか厭きた。」

若い女性が軍手を外しながらため息をつく。

 「おまえ、まだ10個くらいしか食べてないじゃん。これじゃせいぜい1000円分だぞ。」

そういう青年も、15個ほどをたいらげたものの、明らかにペースは落ちている。

 「だいたいさぁ、牡蠣ばっかりってあり得ないよ。味一緒だし。それに、いちいち殻を剥かなきゃならないってのがムカツクんですけど・・・。」

 ここは松島湾に面した、名物焼き牡蠣食べ放題の店である。だから当然牡蠣ばっかりであり、これまた当然なことに味は一緒だ。それを承知で、30分間2000円という条件に同意したはずなのだが・・・。

 「2000円は高いな。そもそも、さっき食べたハンバーガーが失敗だった・・・」

青年も軍手を外し、もはや戦意喪失の様子。まぁ食べ放題店にありがちな光景である。もちろん経営者側としては、絶対に損をしない価格設定をしているわけであり、客が損をすることは初めから決まっているのだが・・・。


 「一体、いくつ食ったら気が済むんだ?あのジジイ・・・」

若者が、そっと隣のテーブルを指さす。作業服姿の老人が、慣れた手つきで牡蠣の殻を剥いている。床に置かれたバケツは、すでに牡蠣殻が山盛りである。外にこぼれ落ちそうになるのを、バケツの円周に沿って縦に差し込まれた殻が、なんとか支えているという状態。

 「あとでおなかこわすんじゃない?」

女性も呆れ顔である。しかし、周囲の視線など気にする素振りもなく、老人は食べ続ける。そもそも、殻を剥くスピードが違う。右手に持ったナイフを殻の隙間に差し込み、巧みに貝柱を切り取ると、次の瞬間には小気味よい音を立てて殻は外れ、牡蠣の身が現れる。あとはペロリと口に流し込むだけである。

 「すまんが、牡蠣追加してつかあさい。あとバケツ、替えてくれんかのう?」

老人が聞き慣れない言い回しでオーダーすると、店員は無表情で、十数個の牡蠣を鉄板にばら撒き、ステンレスのフタをする。そして、新たなバケツの殻入れを持ってきて、テーブルの下に置いた。

もう、軽く50個は食べているだろう。しかし、殻を剥く手は止まらない。まさに「隣の客は良く牡蠣食う客」である。

 「1万円分くらい食べられちゃうんじゃない?」

 「店も案外儲からないかもな。あんな客が来るんじゃ・・・」

若いカップルは、妙に納得し、苦笑いしつつ店を出て行った。

 さて、残った老人である。相変わらず作業スピードは落ちない。淡々と殻を剥いては口に流し込む。替えてもらった2つ目のバケツもすでに一杯である。まさに今はお昼時。次々とやってくる客たちの驚愕の視線を集めながら、30分間息もつかずに食べ続け、ついには100個近い牡蠣殻の山を築いて、悠然と店を出て行った。


 二月とはいえ、ここまで登ってくると少し汗ばむ。木枯らしが心地よく感じるほどだ。

 「よくお参りになられました。」

 いつもの巫女の笑顔にホッとする。塩竈神社へのお参りは、老人の毎日の日課であった。202段もある長い石段は、正直、年寄りの足にはこたえる。それでも毎日お参りするのは、ひとえに孫娘の健やかな成長を願う気持ちからだ。息を整え、社殿の前に立ち、長い時間祈る。

 「元気で暮らしているのだろうか。寂しがって泣いてはいないだろうか。勉強はしっかりやっているだろうか・・・。」

心配は尽きないが、孫娘の様子を知る手だては無い。


 神社の帰り、町中の酒蔵に立ち寄る。晩酌は老人の唯一の楽しみであり、また唯一の贅沢でもあった。見上げれば、真新しい酒林が軒に吊されている。新酒が出来たことを知らせているのだ。この時期にしか味わえない「しぼりたて生原酒」は、老人のお気に入りである。

 「この酒、地方発送してほしいんじゃがの、わしの・・・差出人の名は、書かんでもええじゃろうか。」

送り先は、大阪に住む甥のところである。せめてもの罪滅ぼしのつもりで送るのだが、こちらの住所が知れてしまっては、また迷惑をかけることになるかもしれない。老人なりの配慮である。

 「それから・・・できりゃぁこれも一緒に入れて、送ってもらいたいんじゃが。」

老人は、塩竈神社の学業成就の御守を、店員に手渡した。


 海岸に沿って並んでいる小さな納屋の一角を借りて、老人は暮らしている。古びた漁網の匂いがたちこめる薄暗い納屋の中で、買ってきた酒を味わう。肴は・・・牡蠣である。牡蠣なら、自由に手にはいるのだった。と言うより、牡蠣でなければならない理由が、老人にはあったのだ。


 「牡蠣はなぁ、海のミルクて、言われるくらい栄養豊富な食べ物なんよ。」

と、老人の口真似をする孫娘をひざにのせ、

 「そうじゃ。その通りじゃ。みちこちゃんはようわかっとるのぉ。」

いつもそう言っていた。確かに言っていた。それは今でも正しいと信じている。牡蠣は栄養豊富な素晴らしい食品だ。特に自分のところで生産している牡蠣は・・・

 ・・・いや、今となってはすべてが虚しい。老人はため息をつき、湯飲みに残った酒を一気に喉に流し込んだ。

 「いけんいけん。酔っぱろうてくると、つい昔のことを思い出してしまうけぇの・・・」

窓の外を見れば、夕暮れの松島湾が広がっている。

 「ああ、松島や、松島や・・・」

老人は自嘲気味につぶやいた。遊覧船の汽笛が、遠くに聞こえる。電球が切れているので、外が暗くなれば、あとは寝るだけである。


 翌朝、寒さで目覚める。日の出を待って納屋から出ると、老人は歩いて作業場に向かう。歩いているうちに、冷えきった体も少しは暖まるのだ。作業場に併設された食堂で、作業員用に用意された朝食を食べる。老人が牡蠣以外の食べ物を口にするのは、実にこの時だけである。食事が済めば、あとは午前中一杯、ひたすら牡蠣の殻剥き作業が続く。作業場は寒い。鮮度を保つため、部屋を暖めることはできないのだ。外に置かれたドラム缶の焚き火で、かじかんだ手を温めながらの作業が続く。左手に軍手、右手にナイフ。これで毎日2千個以上の牡蠣を剥く。牡蠣殻はゴツゴツしており、手のひらは傷だらけで、あかぎれと区別がつかないほどだ。しかしこんな辛い作業も、老人にとって苦にはならなかった。子供の頃から当たり前だったからだ。


 昼になり作業が終了すると、老人は牡蠣食べ放題の店へ向かう。そしてまた100個近い牡蠣を口に流し込み、2つの殻入れバケツを山盛りにするという、いつもと同じ光景がくり返されるわけだ。多くの客から呆れた目で見られつつ・・・しかし老人は気にしない。店の従業員も、特に文句を言う様子はない。むしろこの老人、実は店から感謝される存在であったのだ。

 食べ放題の店において、時間と金額の設定は難しい。安く設定すれば、いくら客が入っても赤字になる。かといって高く設定すれば、途端に客足が遠のくし、客からのクレームも増える。そんな時、この老人が重要な役割を果たすのだった。


 その日は15人ほどの団体が入っていた。団体客は、気が大きくなっているので特に始末に悪い。

 「なぁ、これ30分じゃほとんど食えねぇだろ・・・」

 「食わせねぇために、殻を接着剤でくっつけてあるんじゃねぇのか?」

客が冗談半分に騒いでいる。もちろん店員は、

 「そんなことありませんよ。上手に剥く方は50個以上食べて行かれますよ。」

マニュアル通りに、やんわりと返事をするわけだが、どうにも思うようにいかない牡蠣殻に苛立っている客は、往々にしてそのストレスを店員にぶつけてくる。

 「ふざけんなよ。何が食べ放題だ?俺たちみんな、まだ10個も食べてねぇよ。おまえ、ここに来て、俺たちみんなの分の牡蠣殻を剥けよ。それくらいのサービスしたっていいだろう?」

 そんな時、老人の築き上げた牡蠣殻の山が、無言の説得力として店内の雰囲気を支配する。

 「あんたら、そがぁな無理を言うたらいかんよ。わしが上手な剥き方を教えるけえ、やってみんさい。」

店の者から言われれば腹も立つが、同じ客同士、しかも相手は老人となれば、不思議と場が和み、大抵の問題は解決してしまうのだった。

 幼い頃からずっと牡蠣に関わってきた老人としては、牡蠣を多くの人に、美味しく食べてもらいたい。そして喜んでもらいたい。・・・それが自然な気持ちであった。だから、客の不満を解消するために一役買うことは、老人にとっても心の癒しになっていたのだった。


 以前老人は、広島で牡蠣を養殖していた。代々続いた養殖業者で、その品質の良さから、生食も可能な清浄海域の指定も受けていた。数年前、所帯を持った息子に家督を譲り隠居したが、昔気質ゆえ、息子の経営に口を出すことも多かった。

 「うちゃぁずっと昔からこのやり方でやってきたのじゃ。それで問題なんて起きたことはなぁで・・・」

老人には経験があった。しかし息子は現実を見ていた。

 「きょうびは、どこだってこの方法で洗浄しとる。うちだけ昔のやり方しとって、もし食中毒でも出してみい、こがぁなこまい会社、あっちゅうまに潰れちまうぞ。」

 牡蠣を生食するために、オゾンや紫外線を使った新しい殺菌洗浄方法が開発され、多くの養殖業者がこの方法を使い始めていた。しかし、牡蠣は洗えば洗うほど味が落ちる。だから加熱調理用として、洗浄を最小限に抑えた製品があるわけだ。安全だけを重視して徹底した洗浄を行い、逆に牡蠣の味を落とすことは、老人には我慢できなかった。また、細菌の少ない清浄海域であるという自負もあった。結局息子は、何十年もこの養殖場を支えてきた父親に従った。


 翌年、納入先で食中毒が集団発生した。原因は牡蠣であるとされた。腸管出血性大腸菌O157というタチの悪い細菌は、何人かの、体力のない子供やお年寄りの命を奪った。息子夫婦は、連日マスコミに追われた。ろくに洗浄もせず生食用として出荷していた・・・という風評が、さらに二人を追い込んだ。そして、中毒で死んだ子供の母親から、悲痛な抗議の手紙が届いたのが引き金となった。二人は手紙を握りしめ、「申し訳ありませんでした。」とだけ書いた遺書を残して命を絶った。


 養殖場は閉鎖された。老人にはどうすることもできなかった。代々受け継いできた養殖場や作業員たち、そして息子夫婦さえも守ることが出来なかった。というより、そもそも老人には、事実を受け入れることが出来なかったのだ。自分の養殖場から中毒など出るはずはない・・・という思いと、現実に目の前に起きている悪夢との狭間で、ただ頭が混乱するだけだった。

 「じいちゃん、牡蠣は海のミルクなんじゃろ? 牡蠣さえ食べとったら大丈夫じゃって、じいちゃんいつも言うとったじゃろ? なのに、なんで人が死ぬん? なんで、父ちゃん母ちゃんは死によったん?」

 孫娘の悲しみに、かける言葉など無かった。その後、老人は広島を去った。逃げ出したと言った方が正しいだろう。孫娘は、甥のところに引き取られたと、風の噂に聞いた。


 子供の頃から牡蠣しか知らない・・・そんな不器用な老人の居場所が、都会にあるはずもなかった。結局、流れ流れて松島の牡蠣養殖業者に拾われた。牡蠣の殻剥きの作業をしながら、牡蠣ばかり食べて暮らした。商品にならない牡蠣が、簡単に手に入ったということもある。しかし、それだけではない。孫娘にいつも語っていた「牡蠣は海のミルク、牡蠣さえ食べていれば大丈夫」という言葉を、身をもって証明しようとしたのかもしれない。重い十字架を背負った我が身、せめてもの罪滅ぼしという気持ちもあったろう。こうして老人は牡蠣を食べ続け、またトラブル解決に一役買ってきたというわけだ。


 三月の声を聞くと、塩竈神社の梅の花もちらほらと咲き始める。今日はまた一段と暖かい。

 「じいちゃん、大吉、大吉〜!」

女の子の声に、思わず振り向いてしまう。楽しそうな家族連れである。

 「四つ、いや五つくらいか、みちこも、きっとあれくらいになったんじゃろな。」

ほほえましくながめながらも、やはり寂しい。いや、うらやましいというのが本音である。

 「そう言えば昔、あんなふうに家族で出かけたことがあった。厳島神社でみちこがお神籤を引いて、あの時もやっぱり大吉で・・・」

鳥居の鮮やかな赤色と、その先に広がる青い海、イカを焼く香ばしい匂い、土産屋の賑やかな呼び声、走り回る孫娘の笑顔・・・不思議とその時の情景がいろいろと思い出され、急に懐かしさがこみ上げてきた。

 「あの・・・神籤を、ひとつもらえんじゃろか。」

思わず、巫女に声をかけてしまった。どうしてそんな気持ちになったのだろうか・・・もう何十回もお参りしているが、神籤なんて初めてである。いや、神籤を引くこと自体、人生で初めてのことであった。受け取った神籤を恐る恐る開いてみる。

 「末吉 陽の暖かさに根雪も解けゆくが如し」

 大吉ではなかった。当然だ。大吉などと言われても、素直には喜べなかっただろう。むしろこの「末吉」という響きが、老人には妙に嬉しく、有り難く感じられた。


 いつものように酒蔵に寄る。軒に吊された酒林もやや色あせ、「しぼりたて生原酒」のポスターもはがされていた。新酒の季節も、もう終わりであろうか・・・そんなところにも季節の変わり目を感じる。

 暖簾をくぐると、顔なじみの店員があわてて声をかけてきた。

「ちょうど良かった。あの、これ・・・店宛に届いたんだけど、もしかしたらと思って・・・」

差し出された一枚のハガキには、宛名として酒造の店名とともに老人の名前が書かれていた。なんともぎこちない字だが、ひと文字ひと文字、ていねいに、時間をかけて書かれたように思えた。

 まるで初めて出した恋文の返事を手にしたかのように、心臓の鼓動が高鳴る。見るのが怖い。でも見たい。しばらく躊躇したが、勇気を出してハガキを裏返す。

 「じいちゃん、げんきですか? おまもりありがとう。 べんきょうがんばります。 みちこ」

涙が溢れてきた。故郷と一緒に孫娘さえ捨てて逃げてきたこんな自分を、まだ「じいちゃん」と呼んでくれるのだ。

 「みちこに会いたいのう、広島に帰りたいのう・・・」

老人は心の底からそう願った。それが簡単でないことはわかりきっている。しかし老人はもう、自分の気持ちを抑えることができなくなっていた。


 あと1ヶ月もすれば、松島の牡蠣のシーズンも終わる。季節も、老人の心も、確かに変わりつつあった。


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[一言] 深いですね。 思わず読み返しました。 老人の行動に、人生がつまってますね。 宮城なのに、広島の方言がでてきて、あれ?と思い、その後、なるほど!と納得しました。 日本3景の地宮城、広島をつ…
[一言] 「 取材をしたのかな?」と思えるぐらい、牡蛎事情に詳しくて感心しました。まさか、適当な「でっちあげ」ではないですよね?  ある同じものが、人を生かしたり殺したりする。またそれが、あるときは奪…
[一言] 物悲しい話なのに、文章がとても自然で美しくて 何だか読者であるわたしもおいしいカキを味わっているような不思議な感覚になりました。 風評被害は正当な根拠の無い根も葉もない噂でしかないのに、 そ…
2008/02/17 11:36 読みすがり
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